真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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向井少尉・野田少尉 「百人斬り競争」の記事は創作か?

2015年07月07日 | 国際・政治

 昭和12年11月30日から数回にわたって、東京日日新聞(現毎日新聞)が、第十六師団第九連隊(片桐護郎大佐)の同じ第三大隊に所属する向井少尉と野田少尉の「百人斬り競争」の記事を掲載した。もちろん、前線日本兵の「武勇談」としてである。
 この記事を読んだ英文紙「ジャパン・アドバタイザー」の記者が、その記事を転載し報道したため、上海にいたティンパーリ「百人斬り競争」の事実を察知することになった。そして自身の著書「外国人の見た日本軍の暴行」に、その記事を付録としてそのまま掲載した。
 ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」は、ロンドンやニューヨークで出版されただけでなく、蒋介石政権の手によって中国語版や日本語版も出版されたため、広く知られるようになったようである。
 昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ)が、その際この日本語版の本を見せられ、南京の実情を知ったと書いていることは、「南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道」(467)で、すでに触れた。

 下記の資料1が、ティンパーリの「外国人の見た日本軍の暴行」に付録として掲載された文章である。「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)から抜粋した。

 この「百人斬り競争」の当事者、野田毅少尉は南京占領の後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。

 ”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”
                 「南京大虐殺否定論の13ウソ」南京事件調査研究会(柏書房)

 当然のことながら、東京裁判がはじまって間もなく、向井、野田の両氏はGHQから呼び出される。ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」によって、「百人斬り競争」が世に知られていたからだと思われる。また、当時「百人斬り競争」の記事を戦地から送った東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海一男記者鈴木二郎記者も、検事側事務官に呼ばれて事情聴取を受けたという。ただ、東京裁判では、この「百人斬り競争」の件で、向井、野田の両氏が裁かれることはなかった。
 ところが、向井、野田の両氏は、その後再び呼び出され南京に送られたのである。蒋介石率いる国民党政府の戦犯裁判のため、中国側から「容疑者引渡し」の要求があったようである。

 この「百人斬り競争」の記事を戦地から送った「東京日日新聞」の浅海一男記者は、戦後「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」という文章の中で、この件に関して資料2のようなことを書いている。

 また、この記事に名を連ねた「東京日日新聞」の鈴木二郎記者は、「当時の従軍記者として」と題して、資料3の文章を書いている。2人の記者の文章は「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)から抜粋したが、偽りがあるとは思えない。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          南京の「殺人競争」

 一米国人は東京出版の英字紙ジャパン・アドバタイザー(Japan advetiser)に、1937年12月7日左のような記事を載せている。

 『片桐部隊の向井敏明少尉と野田岩少尉の両名は何れも句容作戦で戦友として互いに殺人競争を行った。すなわち南京を完全占領する前に自ら百名を殺したものが賞を奪取し得るものとし、目下最終の段階に達しておる。朝日新聞の消息によると○○日句容城外の作戦における両名の記録は左の通りである。向井少尉は89名を殺し、野田少尉は78名を殺した。』
1937年12月14日、同紙はまた左のような記事を載せている。
『日日新聞の戦地特派員が南京城紫金山より発した電報によると、向井少尉と野田少尉は中国人百名を殺害する競争をやったが、未だ決定されていない。向井少尉は106名を殺し、野田少尉は105名を殺しているが、いずれが先に百人殺害したか決定できない。目下両人は百名を標準とせず、150名を標準とすることに同意している。
今回の競争中で向井少尉の刀は少し刃こぼれした。それは彼が中国人を鉄甲と一緒に身体を真二つにしたためである。向井少尉はこの第1回の競争は全くの『遊び』でお互い百名の「レコード」を突破しようとは知らなかったが、全くもって興味あることだったと語った。

 土曜日早朝、朝日新聞記者は中山陵の高所に向井少尉を訪問した際、他の一部日本軍隊は紫金山に放火し、中国軍隊を駆逐し、一方向井少尉とその部隊を掩護した。弾丸は頭の頂上から横に外れて飛んで行った。
 向井少尉は殺人の軍刀を肩にかけている間は、一発の弾丸も命中しなかったと語った。』

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    新型の進軍ラッパはあまり鳴らない
                                                浅海一男
                      「敵を斬る」ことの価値観」
 何しろ、もう30数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに、当時の筆者を含む東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは、上海から南京まで急速に後退する「敵」を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので、その環境の悪さとともに、多種類の取材目標をかかえて活動していましたので、その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。

 連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る2人の若い日本将校に出会ったのです。そのとき、無錫の駅舎は戦禍のために半ば破壊され、広場はおびただしい屑やゴミで汚され、小休止を楽しんだり、出発の準備をしたり、夜営の仕度をしたり、といったさまざまな日本軍将兵の往来でごったがえしていました。筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄って来たのでした。「御前たち毎日新聞か」とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのです。

 その当時、従軍記者のポストに多くの将兵が立ち寄ってくれたことを説明しておくことも事情のリアリティーを助けてくれるでしょう。われわれが部隊の行軍にまじって行軍していると、行きづりの将兵が「おお、毎日か」とか「新聞屋さんやな」とかいって、ヒゲだらけの顔に親しみをこめて声をかけてくることがしばしばありました。そのようなとき、たいていの将兵は、かれらが郷里ではわれわれの新聞の愛読者であったといい、かれらが部隊が、何県の何郡出身の兵隊から構成されており、どんなに元気で、勇ましく戦っているか、そのことを郷里の人びとが知ったらどんなに喜んでくれるか、安心してくれるか等々──について話してくれるのが普通でした。かれらはその話のなかで、これまで「敵」を何人斬ったとか、それは「一刀のもとにケサさがけに斬り捨てた」 のであるとか「群がる敵を機関銃でなぎ倒した」とか、さまざまな武勇のさまを話して去って行くのが常でした。

 連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのぞばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。

 当時の従軍記者には、これらの「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍記者だったからです。もっとも、われわれはこれらの「談話」のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであったことは、前にあげたようなもろもろの「戦果ばなし」がそれ自身かなりな現実性をもっていたことと、「陸軍省認可」のわれわれの身分とが規定していたのです。

 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍していた戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。
 ・・・(以下略)

                        戦場が市民を「東洋鬼」に変える
 ・・・
 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後3、4回われわれのところに(それはほとんど毎日前進しいて位置が変わっていましたが)現れてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽を離れて少し前進したところに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやってきました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり緊急を要しない記事は2、3日程度「あっためておく」ことがあったからです。それは、当時最新鋭といわれたわれわれの携帯無線機─ といっても大人二人が天秤棒で担ぐほどのものでした─の電源の容量が貧弱だったために、いつも最優先記事と情報の送信のために電源の大部分をとられ、またいつも相当量の残余電力を残しておかなければならなかったからです。われわれの送稿は現地からまず上海支局に送られ、そこで送稿の順位が決められ、さらに大阪本社へ打電され、それがまた東京本社へ電話で送稿されるという経路をたどっていました。それらの中継地や東京本社整理部、東亜部などでの送稿、掲載順位決定も、あのような緊急性のとぼしい原稿には不利であったのでしょう。いずれにしても、掲載になるときには、その原稿がレーテスト・ニュースであることを示すために可能なかぎり最新の日付をつけることは当時の新聞社整理部の習慣であったのです。筆者はあの従軍の直前まで東京本社の整理部に勤務していましたし、従軍後も同じ部に勤務していたので当時のそうした習慣をよく知っているのです。

 資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 当時の従軍記者として
                                      鈴木二郎
私は、戦前戦後を通じて愛読していた雑誌「文藝春秋」を1973年(昭和48年)の同誌5月特別号(大宅壮一賞発表)を最後に読むのを止めてしまった。勿論大出版社である文藝春秋という会社にとっては、無名の一読者が、「読まない」と宣言したって、何の痛痒も感じる筈もないであろうが、私にとっては、ここに明かすささやかな同誌に対する抵抗であり、抗議でもある。

 しかし、実は、同誌がきらいでも何でもなかったのである。ただ、同誌が掲載した、いや、これからも載せる出あろう、イサヤ・ベンダサン氏や山本七平氏、それに鈴木明なる人の原稿が気にいらないのである。

 私は、前記3筆者(?)の執筆原稿によって真に思わざる”汚名”をきせられたからである。私は、1937年(昭和12年)11月5日から翌年2月台湾から一時帰国するまでの約3ヶ月間、東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中支戦線に従軍、南京までの幾多の敵の拠点の攻略戦に参加、報道の任務を遂行しながら、12月12日か13日、死線を越えて南京城中山門から、なお戦火おさまらぬ城内へと入ったのであるが、この間に取材した2人の将校による「百人斬り競争」の特電(同僚浅海一男君との連名)と日本軍による「南京大虐殺」のレポート(戦時中は厳しい検閲のために書けず、戦後の1971年11月号、雑誌『丸』からの注文原稿)が前記3氏によって問題視され、勝手な推理、浅薄な証言、一方的な追究調査で、それは”デッチあげ””フィクション””伝説””神話”とされて、これが、前記『文藝春秋』5月特別号と、1972年(昭和47年)『諸君』4月号で取り上げられた。私は、私ども現場記者の証言として動かす事の出来ない真実の報道を”フィクション”視された事に就いて、真実である事の原稿を、同誌の田中編集長氏(当時)に、特に「百人斬り」に就いて、「載せてほしい」と送ったのであるが、何の反応もなく、見殺しにされてしまった。この一方的な扱いに対し腹が立ち同誌の他の内容に関しても、「も早、いい加減なもの」として購読を止めて了ったのである。

                              「真実」報道への前進 

 2人の将校の百人を越す敵兵斬殺が”まぼろしの虐殺”記事とされ、更に”まぼろし”が拡大解釈?されて『南京大虐殺のまぼろし』(鈴木明著)となり、これが大宅壮一賞を受賞する事になるのであるが、私どもより少し遅れて南京城に入って虐殺のすさまじさを知った大宅さんも地下で苦笑っしているに違いない。

 一体、昼夜を分かたず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中に”ゴール”迫った2人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から39年前の事とはいえ忘れることは出来ない。南京入城の際私は30歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮やかに脳裡に浮かぶのである。…(以下略)

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