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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ひめゆり学徒隊女生徒(兼城喜久子)の手記

2020年04月06日 | 国際・政治

 兼城喜久子さんの手記の後半に、見逃すことのできない文章があります。

その時、異様な光景が目に写った。米軍の船へ向かって泳ぎ出し投降していく日本軍兵士を、アダンのかげからねらいうちし、前方の海はまっかな血が広がっていった。何んと恐ろしいことか、味方同士で殺し合うなんて。人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった。

 この”味方同士が殺し合う”という日本の戦争の現実も、世界にはほとんど例がない悲惨なものではないかと思います。日本兵が寝返って敵側についたために殺し合うことになったというのなら、話はわかるのですが、沖縄戦における日本兵の投降は、明らかにそうしたものではなかったからです。
 背景には”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”(戦陣訓(陸訓一号)「第八 名を惜しむ」)という”皇軍の道義”があったからだと思われますが、投降する味方を射ち殺すほどに、当時の日本兵には”皇軍の道義”が徹底されていたということだろうと思います。
 死にそうなほどの飢えや渇き、そして、圧倒的な米軍の攻撃による死の恐怖の連続から逃れたいという思いさえ許さない、そんな残酷で悲惨な”味方同士”の殺し合いの例が、他国にあるでしょうか。

 兼城喜久子さんが”味方同士で殺し合う”場面を目撃し、”人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった”と記したことは、言いかえれば、日本の戦争が”聖戦”ではないことを実感したということではないかと思います。

 私は、ひめゆり学徒隊の女生徒の手記を読んで、”オウム真理教”が地下鉄サリン事件を起した後にしばしば耳にした”マインドコントロール”という言葉を思い出しました。”マインドコントロール”という言葉は、オウム真理教の教祖・麻原彰晃と一部の教団リーダーが、世の真理を体現する神の如く振る舞い、言葉巧みに人を集めて、徹底的に教祖がつくりあげた教理を教え込み、大勢の若者をコントロール下に置いていたことを表現するために使われたのだと思います。


 そして、天皇を現人神とした戦前・戦中の皇国日本も、戦陣訓(陸訓一号)などを発した戦争指導層が、”破壊的カルト”といわれるオウム真理教と同じように、徹底的に日本国民に”皇国史観”や”皇軍の道義”その他を教え込み、マインドコントロール下に置いたのではないかと思うのです。
 天皇自身が、戦後、「人間宣言」といわれる詔書を発したことでわかるように、天皇を”現人神”としたのは、歴史的事実に反する神話に基づくものでした。
 また、”八紘一宇”の精神に基づく「大東亜戦争」の実態は、近隣アジア諸国を、他国に優越する”神州皇国日本”の支配下に置こうする侵略戦争で、その意図の面でも、戦い方の面でも、”聖戦”というような戦争ではありませんでした。
 さらに、ひめゆり学徒隊の女生徒が、重傷を負った学友を治療したり、転倒した学友を助け起こしたり、水やコーヒーを差し出す米兵に接して、教え込まれた”鬼畜米英”に疑問を抱かざるをえなかったように、当時の日本国民は、事実に反することをいろいろ教え込まれて、戦争指導層のマインドコントロール下に置かれていたのではないかと思うのです。

 当時の日本は、歴史的事実に基づいて、天皇を現人神することに異を唱えたり、疑問を抱いたりすることは許されませんでした。皇国史観は、大日本帝国憲法に定められ、教育勅語でも説かれているように絶対的なものだったのです。
 そして、新聞紙法や出版法、さらには、放送禁止事項などの制定によって徹底的な検閲や情報操作が行われました。戦後、”大本営発表”が、”嘘の代名詞”として使われることになったのもそのためだと思います。
 それだけではなく、そうした法や国の意向に反する活動をすると、治安維持法や治安警察法で罰せられる世の中でした。日本国憲法に定められているような学問の自由や思想の自由、表現の自由などはなかったのです。
 したがって、当時の日本国民は、様々な思想や考え方に触れて、自らがつくり上げた歴史観や人生観を持つことができず、教え込まれた皇国史観や軍国美談を背景とするような偏った人生観を持つことになったのではないかと思います。
 だから、戦前・戦中の日本国民は、破壊的カルトといわれるオウム真理教のマインドコントロール下にあった信者と変わらないのではないかと思うのです。
 そういう意味で、安倍政権の天皇の”元首化”の動きや、教育現場における”建国神話”復活の動きには反対です。

 下記は、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)から抜粋しました。
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                        死の解散命令

                        三十 自決
兼城喜久子の手記
 昭和20年6月9日午後6時、佐藤三四次部隊長は経理部全員に解散を命じた。
「いたらぬ私のために、みんなにご苦労をかけとおしてすまない。靖国の社でお待ちします」
 愛情のこもる最後のあいさつに、みんなはすすり泣いた。
 部隊長は米軍上陸以来、父親のように私たちの身の上を心配してくださったのだった。作戦のためとあればしかたがなかったが、温顔の部隊長と別れるにしのびなかった。(佐藤部隊長は6月23日未明、牛島司令官とともに摩文仁で自決)6月10日、刻々と時はすぎ、壕脱出予定の午後7時になった。食糧やその他の品々を準備した。戦争がはじまってから二か月あまりも苦楽をともにした全員が、四方八方にはなればなれに解散してゆくのかと思うと、たえがたい寂しさを感じた。
「お元気で、ケガをしないように」
 と別れを告げあって壕を出た。
 負傷した昭子さんの手をひいて、砲弾をさけながら夜道を歩いていった。めちゃめちゃに破壊された真壁のを通って、伊原という小さいについた。
 このに、陸軍病院の壕のあることを聞いて、たずねていった。話しているうちに、もう幾人かの学友が戦死したことがわかった。壕は超満員だったので、あらたにはいって来た経理課の筆生と、私たち十五名は、ずっと奥の暗いじめじめしたところに入ることになった。誰もはいったこともなさそうなところだった。(伊原第一外科壕、石川節子、上江洲浩子のいた場所)泥の上に板を敷いて休んだが、洞窟の天井からは水滴がぽとぽとしたたり、まもなくびしょぬれになってしまった。よその壕におせわになっているのだし、わがままもいえず、互いに慰めあってがまんした。炊事場もなく、平良先生、仲栄間先生、石川先生が、砲弾の中をまでいってご飯を炊いて来てくださった。経理課のお姉さん方も、危険をおかしてイモを掘り、野菜をとって来てくださった。伊原の壕も日一日と砲弾は激しくなり、負傷者、戦死者の数は増した。十七日朝は、多くのお友達、看護婦、兵隊が、壕の入口で亡くなった。黄泉の国のようなこの壕の奥にいた私たちはかえって救われた。
 6月18日。不運はまたしてもめぐってきた。伊礼、伊原の近くにも、すでに米軍がせまり、壕脱出の準備で壕内はごった返した。重傷のお友達は、
「苦しい苦しい」
 とうめきながら、いっしょにつれていってちょうだい、と嘆願していた。
 残される者もつらかっただろうが、残してゆくほうがまだつらかった。足に負傷した比嘉勝子さんを、とうとう残していった。暗いうちにと喜屋武海岸へのがれていったが、道には数多くの戦死者がころがり、屍を踏みこえて進まねばならず、殺気はみなぎり、身の毛がよだった。壕を出るときは、はぐれぬようにと列をつくったが、たびたび至近弾に見舞われて、いつしかちりぢりになってしまった。深夜の人ごみの中から、ようやく先生方三名をさがしだしてほっとした。あえぎながら山城の坂道を登っていった。
 6月19日。ほのぼのと明けそめる空に、もはやグラマン機が姿をあらわした。壕もなく岩かげもなかった。みんなは近くのくぼ地に飛びこんで身をふせた。人員を調べてみると四名たりなかった。宜野座啓子さん、昌ちゃん、じゅんちゃん、山田さんがみえない。いまさきの至近弾でちりぢりになってしまったのであった。石川先生、仲栄間先生は身をふせるところもなく、危険な木のかげにおられた。
 砲弾は激しくなるばかりであった。たまりかねて両先生は石部隊の壕にかけつけた。
「僕たちが迎えに来るまで決してそこから移動してはいけないぞ。じっと身をふせておれ。部隊に頼んで来るから」
 うしろをかえりみて注意されながら、砲弾の雨をついて両先生は去られた。米軍の上陸当初から先生方にはご苦労ばかりおかけした。(これが両先生との最後の別れとなろうとは思わなかった)
 砲弾は激しくなるばかりであった。目をつぶってがまんしていて、轟然と至近弾がおそいかかると、目がくらくらになった。私は草にしがみついた。至近弾がつぎつぎに飛んで来た。やられた! と叫ぶ声に、ハッと目をあけて見ると、あたりには硝煙と土煙がたちこめていた。瀬良垣みえさんが手をやられ、宮城登美子さんは背中に傷を負った。
「昭ちゃんがやられた!」
 と宮城登美子さんが叫ぶ。
 昭ちゃんを見ると、うなだれて身動きもしない。かけ寄って、
「昭ちゃん、昭ちゃん!」
 とゆり動かしたが、もう返事がなかった。爆風で胸をやられたらしい。五分前まで笑顔でいた、かわいい昭ちゃんのかわりはてた姿に、みんなはすがりついて泣いた。砲弾はますます激しくなった。くぼ地にいっしょにふしていた兵隊が、匍匐前進で偵察に登っていった。まもなく、
「敵だ!」
 という声が聞こえた。さっとみんなの顔から血の気がひいた。くぼ地を飛びだして匍匐前進で、小銃の弾をさけながら進んだ。お二人の先生方はどうなったのだろう。私たちは、ある地点まで進んで先生たちを待った。
 夕方になって、ようやく静かになった。平良先生と平織先生、山川さんは、元来た道をたどってさがしにゆかれたが、とうとうむなしく帰って来られた。亡くなった昭ちゃんを、毛布にくるんで下さったとのこと、いくらか心が安まるようだった。両先生を見失った私たちは、しかたなく喜屋武の海岸へ進んだ。あてもなくさまよっているうちに、とうとう日はとっぷり暮れてしまった。心細さと寂しさがこみあげてきた。先生を見失った私たちは、照明弾の光をあびながら草原にぐったりふしていた。
 ふと聞きおぼえのある声がする。じっと声のする方を見ていると、仲宗根先生の姿があらわれた。伊原の壕から、私たちのうしろについて出て来られたらしい。しょんぼりしている私たちを、きのどくそうに見て居られた。私たちは、先生方についている師範生がうらやましかった。幸い、その晩は仲宗根先生、平良先生、平織先生や師範生もいっしょに、海岸の洞窟に夜を明かした。
 6月20日。海に向かって大きな口のあいている洞窟で、多くの人々はじっと黙りこんで天運を待っていた。岩にぴったり身を寄せたままで、誰も口をきかなかった。正午を少しすぎた頃であった。アメリカ船が寄って来た。手旗信号で、何か合図をしているようであった。恐怖のあまり、みんなは岩をよじ登って、またもとのジャングルにはいったが、今度は、弾よりも気味悪い声になやまされた。スピーカーを通じて、米兵の声がガンガンひびく。
「ハヤクココニコイ。オヨゲルモノハオヨイデコイ。ミナトガワニユケ。ヒルハアルイテモイイガヨルアルクナ」
 耳をおおってもガンガンひびく。
 ああおそろしい鬼畜の声。アダンのトゲにちくりちくり刺されながら、死人を飛びこえ飛びこえ、ふたたび仲栄間先生、石川先生の名を呼びながらさがし歩いた。経理課のお姉さんがたも、とうとう私たちにはぐれてしまった。平良先生、瀬良垣えみさん、比嘉三津子さんなど、とうとう十二名だけになってしまった。
 ジャングルの中を、さまよい歩いているときだった。なんという奇蹟か、幸運か、比嘉初枝さんがはからずもお父さんに出あった。神のひきあわせであったにちがいない。親子が手をとりあって泣いているようすに、みんなはもらい泣きした。ゆくえも知れぬ父母弟妹のことが、ますます気づかわれて、さまざめと泣いた。
 一日中さがしたかいもなく、とうとう二人の先生方にはあえなかった。二日めの夜がやって来た。もう両先生をさがすことをあきらめ、平良先生お一人にすがって、血路をひらくことを決心した。いったいこれからどうすればよいのだろうか。突破の目的地知念岬(注、摩文仁岳の誤り)が、ときどき照明弾に浮かび出る。知念の方では、平和な生活を送っているとの情報がひろがっていた。人々は、知念に向かって必死になって先を競っていた。泳いでゆく人、岩かげを伝ってゆく人、海岸は人の群れの流れをなした。ある者は、とうていだめだという。ある者は、成功するという。私たちはどうすればいいのかわからなかった。先生を先頭に、私たちは運を天にまかせて、途中までいってみたが、やはりだめだった。
 死の直前の寂しさと恐怖がひしひしと身にせまった。平良先生も、突破を断念し、とうとう自決の覚悟をきめられた。潮のひいた海辺におりて、比嘉三津子さんがわずかばかり残っていた米を集めて、飯を炊き、手のひらに少しずつ配った。水とてもなく、潮で炊いたのであった。部隊解散後、私たちを妹のようにいたわってくださった比嘉さんのご親切に、私たちは涙を流して感謝した。海岸には矢弾尽き、意気消沈した哀れな勇士たちが、ゆきつもどりつしていた。みんなは海に向かって小声で歌った。歌声はむなしくはてしない海に消えていった。誰歌うともなく、いつしか故郷の歌を歌っていた。
「ウサギ追いしかの山、コブナつりしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと、いかにいます父母……」
 声もかすれ、ついにすすり泣きにかわってしまった。母の顔が浮かぶ。妹の顔が浮かぶ。生まれてはじめて踏んだこの沖縄最南端の岩の上、ああ、ここに天命を終るのか。
 6月21日。ちょっとした岩かげで時をまった。艦砲射撃もなく、迫撃もなく、無気味な静けさであった。目の前には、米艦が静かに巨体を浮かべていた。岩かげは二つにわかれていた。比嘉三津子と、比嘉初枝さんと、石部隊の兵隊四名は、一方の岩かげで時を待った。退屈まぎれに、ポツリポツリ兵隊さんとも話したりしていた。その時、異様な光景が目に写った。米軍の船へ向かって泳ぎ出し投降していく日本軍兵士を、アダンのかげからねらいうちし、前方の海はまっかな血が広がっていった。何んと恐ろしいことか、味方同士で殺し合うなんて。人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった。
 正午近くになって、平良先生と話しているところへ、血にまみれた一人の兵隊が飛びこんで来た。
「どうしたんだ」
 とたずねると、吐息をつきながら、
「米兵が上陸してここに向かってやって来る」
 という。最期の覚悟はしていたが、身体(カラダ)がかたくなってふるえた。兵隊は米軍に手榴弾を投げつけて、あべこべに胸をやられたらしい。
 間もなく周囲がざわついた。と気がつくと同時に、英語らしい声が聞こえる。平良先生と比嘉三津子さんはみんなのかくれている岩かげに、とび込んでいかれた。比嘉初枝さんと私は、すぐそばの師範生の入っている穴へもぐり込んだ。
 ああ、もうこれで最後かと身をちぢめてじっと入口をにらんだ。
「デテコイ、デテコイ」
 入口から気味悪い声で米兵が呼んでいる。一秒、二秒と時はたった。
 息をころしていると、バラバラと入口から小銃弾が打ち込まれた。そばの安富祖嘉子さんがやられ、私にもたれかかって来た。即しらしい。仲本ミツ、上地一子さんもやられた。比嘉園子さん、大兼久ヨシさんがうめいている。となりの曹長殿もやられ、私の足元へ、くずれるように倒れた。平良先生やみんなのことが気になり、初枝さんと二人は、壕から飛びだしてジャングルの中に飛びこんでいった。アダンの葉かげからおそるおそるのぞくと、十数名のアメリカ兵だった。やがてアメリカ兵は二人に気づき、銃をつきつけた。私は握りしめていた手榴弾を捨てた。
 みんなは血しぶきをあびて岩の上に立っていた。平良先生がもどられた岩かげをのぞくと、鮮血は岩を染め、十名の学友が自決をとげていた。あまりにもいたましい姿に、二人は泣きくずれた。
 ああ! あの一瞬、左に身をかわした私たち二人だけがこの世に生き残り、平良先生以下九名がついに散華した。自決の位置は、比嘉三津子、(二高女出身)が一人はなれて岩の間にたおれ、普天間千代子と板良敷良子が岩の下、宮城貞子、宮城登美子、金城秀子、座間味静枝は平良先生を中心にして、瀬良垣えみと浜比嘉信子すこしははなれていた。あっという間に起こった信じられないような恐ろしい出来事だった。たった数分の間に十四名のかけ替えのない生命が奪われてしまった。最南端の地喜屋武岬の岩かげは深い悲しみに包まれ、何事もなかったように静かになった。
  
 


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