下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久の供述調書のごく一部、毒瓦斯攻撃や慰安所 設置の命令、「三光政策」に関わる命令などの記述が含まれている部分を抜粋したものである。
第117師団師団長・陸軍中将鈴木啓久が拘留された中国の撫順戦犯管理所で、日本人戦犯が厚遇されたことはよく知られている。それは、周恩来を中心とする中国の、将来を見据えた戦犯政策によるものである。食糧不足にもかかわらず、食事内容では、主食は全員白米と小麦粉とし、日本民族の風俗習慣を尊重した献立にすることが指示された。さらに、戦犯の管理は厳重にするが、ひとりひとりの人格を尊重し、決して殴ったり罵ったり侮蔑したりしないことなどが職員に徹底されたという。そういう戦犯政策を、被害者である中国人職員に納得させることは容易ではなかったようである。
厚遇され続けた撫順戦犯管理所の日本人戦犯たちに変化があらわれるのは、およそ半年ほど後である。どんな侮蔑的言葉を投げかけても、平然とした態度で、献身的に世話を続ける職員たちに、日本人戦犯たちは次第に心を動かされ、尊敬の念さえ抱くようになっていったというのである。そして、日中戦争中の自分たちの行為、中国人を差別し、侮蔑し、殴り、拷問を加え、殺した行為と重ね合わせ、胸が痛んだで自分たちの過ちを認め、心から謝罪する気持ちに変わっていったというのである。
しかし、過ちを認め謝罪する気持ちになっても、ひとりひとりが自らの残虐行為や陵辱行為を、具体的に告白することは簡単なことではない。大変な勇気を必要とする。その罪行告白の突破口になったのが、全戦犯が集められた管理所の中庭で壇上に立った、元第39師団第232聯隊第1大隊中隊長・宮崎弘の「担白(タンパイ)(すべての罪をさらけ出し告白すること)」であったという。それは、
「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」、「三光政策を積極的に進めることが、忠君愛国の道、戦争勝利の道」だと信じて行動してきたが 振り返ってみると、自分は「初年兵教育の教官だったとき、模範を示すために十数名を刺突し」、「襲撃時には老人や子どもを銃剣で突き刺し」、「逃げ遅れた妊婦を裸にして殺し」、「村中に放火する」という残虐行為を繰り返してきたに過ぎなかった、と涙ながらに「担白」し、「わたしは人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民に心からおわびし、このうえはいかなる処罰も受ける覚悟です」というような内容であった。
その「担白」が戦犯の罪行告白の流れをつくり、それが次第に佐官や将官級にも及んでいったという。
そして、54年1月から、中国政府の戦犯に対する本格的な罪状調査が始まるのである。審問は決して強制せず、自白を尊重し、罪行は事実のみを正確に、拡大せず縮小もしないで記録することが重視されたとのことである。調査団は、中国各地の被害者や遺族の告訴状などをもとにした証拠を揃えながらも、戦犯自ら告白するまで、それらを突きつけて自白を迫ることは極力避けたという。
尉官以下級の罪行が固められると、それをもとに佐官、将官級の罪行が追及されたので、それは網羅的で詳細である。
また、供述書は、事件の日時や場所、人名、民家焼却数、掠奪物質、人民殺害の方法と人数、強姦、誘拐人数など、きわめて具体的で詳細であるが、それは、日本人戦犯がそれぞれ所属した師団、部隊、憲兵、警察、司法などでグループをつくり、繰り返し当時を思い出しながら語り合って、事実をつき合わせた結果であるという。
1956年6~7月、瀋陽と太原で「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれた。起訴されたのは45名。その判決に、死刑や無期刑の者はひとりもいなかった。最高が禁固20年で、それにはソ連での抑留5年と中国で戦犯として拘留された6年が算入され、ほとんどが満期前に釈放され帰国したのである(鈴木啓久も満期前の63年6月に釈放されている)。他の1016名は、不起訴即時釈放で帰国している。
撫順と太原の戦犯管理所で、自らの罪行と向き合った多くの人びとは、帰国後、中国帰還者連絡会(略称:中帰連)を結成し、自分たちの罪行を語り伝えるとともに、「戦争反対」「日中友好」を訴え続けたが、そういう意味では、周恩来の戦犯政策に基づき、戦犯管理所が行ったことは、天皇制軍国主義に染まった日本人戦犯の再教育であり、人間性を呼び覚ます実践であったといえると思う。
但し、中帰連の名簿に「鈴木啓久」の名前が見当たらず、後に、彼は”審問には不本意ながら同意せざるを得なかった部分がある”というような内容のことを言ったとされていることが、気になるところである。
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第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述 第117師団師団長・陸軍中将 鈴木啓久
第2 罪行
4 歩兵第67聯隊長の時の罪行
1940年8月、私は第15師団歩兵第67聯隊長として南京に侵入し、南京市及其の附近の警備並に南京蕪湖間鉄道一部の警備の任務を受けました。
之れが為め私は一般方針として部下に指示しました。即ち「南京市は日本の中国侵略の中枢地であるからよく治安を保持し、警戒心を高め管内に於ける抗日勢力を徹底的に掃滅せねばならぬ。之れが為め常に積極的に行動し荀(イヤシ)くも間隙を与ふるが如きことあってはならぬ」
(1)1940年8月下旬、南京北方六合附近の侵略作戦に参加し、同地北方約40粁(キロ)に於て某村落を占領して居った解放軍百余名を攻撃し、解放軍約20名を殺害し、又砲撃に依り中国人民家屋約10戸を破壊しました。又六合北方約30粁に在る中国人民村約200戸を、私は焼却を命令しました。
(2)9月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁附近に於て、抗日国民党軍の旁系軍50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第1大隊長角田少佐に毒瓦斯攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。
(3)9月下旬、当塗東方約40粁に在る高淳に私が蟠居を命じた中隊が、抗日紅槍会団の反撃を受けましたとき、此の中隊が紅槍会員20名を殺害しました。
(4) 1941年1月─2月間私は第11軍第17師団に臨時配属せられ軍司令官園部中将の指導せる漢口北方遂平、泌陽附近の侵略作戦に於てだ17師団長平林中将指揮の下に此の作戦に参加しました。
本侵略作戦中、私は1月下旬、駐馬店西側に於て、抗日国民党旁系軍約100名が村落を占領しあるに対して包囲攻撃を行ひ、其の20名を殺害し、中国人民の家屋2戸を焼却しました。
次で私は遂平を占領しありし抗日国民党軍を攻撃し、其の10名を殺害し、又私は西平に於て同地を占領しありし抗日国民党軍に対し一部を以て其の正面より、私自身は主力を以てその側面より包囲する如く攻撃し、抗日国民党軍30名を、又抗日国民党軍に属する愛国工作員1名を殺害し、重機関銃1を掠奪しました。此際砲撃等に依り中国人民の家屋5戸を焼却し10戸を破壊しました。
2月上旬、泌陽平地東北角に於て、抗日国民党軍に属する後方部隊を発見し、私は、其の後方より攻撃を行ひ、機関砲弾薬十数箱、医療薬品数箱を掠奪しました。
(5) 4月、私は第15歩兵団長赤鹿少将の実施せる襄安、盛家橋附近の侵略作戦に参加し、襄安に於ては抗日国民党軍の同地周辺を防御しあるを包囲攻撃し、抗日国民党軍10名を殺害し、軽機関銃2挺を掠奪し、盛家橋附近に於ては同地附近に在る抗日国民党に対し私は先づ第1大隊長角田少佐をしてその側面より攻撃せしめ、私自身は聯隊主力を指揮して第1大隊と連繋して包囲殲滅せんことを期しましたが、抗日国民党軍の大部は後退せる為め其の一部を攻撃し抗日国民党軍20名を殺害し、迫撃砲2門を掠奪しました。
此の侵略作戦に於て中国人民の家畜、家禽数百を掠奪した。
(6) 次で、抗日国民党軍の反撃に備へ、私は大隊長松尾少佐をして2中隊を指揮せしめ、盛家橋に蟠居(注1)せしめたるに対し5月下旬抗日国民党軍約500名反撃し来りしとき、同軍約10名を殺害しました。
而して私は師団命令により主力を巣県に集結し淮南鉄道一部の警備に任ぜしめられました。
(7) 5月下旬、私は巣県東方和県附近に侵略行軍を実施しました時、抗日紅槍会団約300名を攻撃し、その40名を殺害しました。
(8) 7月中旬、私に対し抗日国民党旁系軍劉工作を某は機関銃4を有する約1000名と共に帰順を申し出でて来ましたので私は之を許可し其の軍の原駐地たる巣県西方地区に於て反共工作を行ふ様命令しました。
(9) 私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ、中国人及朝鮮人婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。
(10) 7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下に在る陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪の為来りしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。
5 第27歩兵団長の時の罪行
1941年10月、私は第27歩兵団長として天津に侵入し、間もなく滄県に蟠居し該地区の鉄道、交通路等の警備及同地区内の、治安維持をの任務を受けました。依って私は部下に対し次の如き指示を与へたのであります。
「治安維持とは当方面に於ては剿共を以って根元とするものである。剿共なくしては治安維持は達せられないのである故に、八路軍の情報を迅速確実に獲得する如くし、創意工夫を廻らし、積極的に討伐を実施すべきである」此の指示の意とする所は積極的に且つ凡有方法手段を竭(ツク)して八路軍及其の関係員を剿滅すべきことを示したのであります。
当時私の指揮下に在るものは、天津に蟠居せる第2聯隊と、滄県に蟠居せる第3聯隊とを指揮しました。而して第2聯隊の2大隊は天津に、1大隊は其北方4粁の地点に蟠居せしめ、第3聯隊の1ヶ大隊は河間に、1ヶ大隊は滄県に、他の1ヶ大隊を棗強に蟠居せしめ各々地域を与えて八路軍の剿滅に努力せしめたのであります。
(1)1941年11月下旬より12月上旬に亘り、私は第3聯隊の大部分と第2聯隊の一部とを指揮し、献県附近の八路軍に対し侵略討伐を実施し致しました。
此の間私は各部隊をして密偵を使用せしめ、八路軍の工作員を逮捕する如く命じたる為、多くの村落に於て中国人民を逮捕し数十名拷問致しました。又此の行動間に於て家畜約百頭、野菜多量を掠奪しました。
(2)11月下旬頃、私の平時の命令に基づき、棗強に蟠居せる第3聯隊第3大隊長小川少佐は、棗強南方地区に八路軍が活動中なりとの情報の下に直ちに出動、八路軍を攻撃して八路軍約10名をを殺害し、且つ約600戸ある村落を2個焼却し、此の時中国人民の農民100名を致しました。
(3)12月中旬、私は第3聯隊の約1大隊半を直接指揮し、滄県東方戟門附近侵略作戦を行ひました。此の際行軍途上に於て八路軍の情報を得る為、中国人民を捕へ八路軍の情報を尋ねしときに情報を提供せざるの故を以て中国人民十数名を殴打拷問しました。
(4)12月中旬頃、滄県に蟠居中の第3聯隊の一中隊は滄県西方地区に於て八路軍約100名が活動中なりとの情報を得、私の平素の命令により此の八路軍を攻撃し自転車を利用せる追撃戦を戦い行ひ、八路軍約10名を殺害し、小銃十数挺を掠奪しました。
私は1941年12月下旬頃、第27師団長冨永中将の命令に依り唐山に移り第1聯隊と次いで増加し来たりし第3聯隊とを合わせ指揮し、兵力を2倍となし、唐山地区に於ける鉄道、交通路の警備及び治安維持の命令の下に華北侵略拠点の侵略の任務に服したのであります。
本地区は八路軍の活動極めて活発であるのと、日本帝国主義者の華北侵略の為めの重要なる拠点であるので、私は部下に対し内容次の如き命令を下し、平素に於ける政策となしたのであります。即ち
「此の地区は日本の中国を侵略する基点となるのであるから、我々は此の地区を確保し得ると否とは日本の中国侵略を実現する為めに重大なる重大なる関係を持つのであるから、我々は凡有方法と手段を尽して此の仕事を完遂せねばならぬ。故に若し日本軍の意図に背くものあらば徹底的に覆滅し、又物資の如きはなし得る限り日本軍の掌握下に置かねばならぬ」
右の命令によりて、最も惨酷なる「三光」政策を採用せるものでありまして、総てが此の命令を基礎とし、又其の目的を達成する為めには如何なる手段をも選ぶことがないのであります。
又八路軍に対しましても、右の政策を根基として、大要次の如き方策を実行する様命令したのでああります。
(イ)八路軍は徹底的に殲滅すべし
(ロ)八路軍に属する愛国工作員、通信員、又は八路軍との通謀者は悉(コトゴト)く剿滅すべし
(ハ)反共自衛団は極力支援すべし
(ニ)反共教育を行ふものあらば極力支援すべし
(ホ)前記愛国工作員等を剿滅する為め必要に応じて徹底的に剔抉(テツケツ)粛清を実施すべし
(ヘ)八路軍を消滅する為め、又はその活動を阻害する為め、遮断壕及附属望楼を構築すべし
(ト)長城線附近2粁以内に於て八路軍の根拠地となり、又は八路軍の利用し得る所の住民を悉く追い払ひ、無住地帯となすべしとの北支方面軍司令官岡 村寧次の命令を厳に実行すべし
(チ)日本侵略軍の蟠居地附近一帯の中国人民をして極力八路軍に反対せしめ、且つ八路軍の情報は自発的に日本侵略軍に提供せしむる如く指導すべ し
(リ)偽軍、偽県警備隊を指導支援し、又督励して八路軍の活動を妨害せしむべし
私は唐山に侵入するや直ちに各隊を巡視して、此の政策の実施を督励し、且つ聯隊本部の蟠居地を指定し、且つ各聯隊の警備担任地域を示したのであります。…
・・・(以下略)
蟠居:(バンキョ)占拠のこと。広い土地を占領し勢力を張るという意味で、中国共産党側が日本軍に対して使用した。
剿共:(ソウキョウ)共産党や共産軍の勢力を滅ぼしつくすこと。日本軍側の用語
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このように詳細に残虐行為に加担したと告白した人がいたんですね
南京虐殺についても、偕行社が調査すると途端に次々と
虐殺に加担したと言う証言が出てしまい
ついに偕行社も南京虐殺を認めざるを得なくなった経緯は
私も知っていましたが、ここまで詳細な証言は始めて見ました
ただ、一つだけ、日本側にも同情すべき点はあるのです
決して虐殺行為を正当化するつもりは有りませんが
それは、八路軍(共産党軍)の戦い方にあります
当初、日本軍の主な敵は国府軍(蒋介石軍)でした
その時は日本軍も現地住民に対して理不尽な行動はとらず
民間人との住み分けは出来ていたらしいです
そこへ突如、八路軍が加わり 戦闘の様子は一変したのです
八路軍は、地域の村に潜入し 村人を装って 奇襲攻撃を
寝静まった深夜に加えてくるのです
これによって日本軍は大打撃を受けるのです
(詳しくは 「百団大戦」 で検索すると判ります)
そうなると日本軍も、周辺の村を殲滅するようになったのです
八路軍に協力した村 しそうな村を 一人残らず
殺りくするようになってから、日本軍兵士のタガが
完全に外れてしまうのです
村人達だって八路軍に喜んで協力していた訳ではなく
武力で脅されていた訳で、村人達にとっても
八路軍は忌み嫌われる存在だったそうです
つまり、軍紀が厳粛だったはずの日本軍がなぜ突然
残虐行為を始めるようになったか という理由に
一般人を巻き添えにする事を厭わない
八路軍の戦い方にも原因は有ったのです
もちろん、中国の法廷で これを口に出して言っても
聞いてはもらえませんし、言えないでしょう
もちろん、だからと言って、日本軍が犯した犯罪行為を
正当化は決してできませんが
同情する部分だって有る事は有るのです。
再度のコメントありがとうございます。
>ただ、一つだけ、日本側にも同情すべき点はあるのです
決して虐殺行為を正当化するつもりは有りませんが
それは、八路軍(共産党軍)の戦い方にあります
当初、日本軍の主な敵は国府軍(蒋介石軍)でした
その時は日本軍も現地住民に対して理不尽な行動はとらず
民間人との住み分けは出来ていたらしいです
そこへ突如、八路軍が加わり 戦闘の様子は一変したのです
八路軍は、地域の村に潜入し 村人を装って 奇襲攻撃を
寝静まった深夜に加えてくるのです
これによって日本軍は大打撃を受けるのです
そういう側面は確かにあると思います。しかしながら、日本軍の残虐行為が、八路軍を敵とした中国においてだけではなかったことも見逃せません。 それは、文化や技術の面で日本が進んでいたことにもよるのでしょうが、、アジア人に対して(特に中国人に対して)差別的であったことや、補給ができないにもかかわらず、食糧などの現地調達による戦闘行動を命じた日本軍の方針の結果ではないかと思います。すべての部隊とはいえませんが、いたるところで日本兵と現地住民とのトラブルがあり、拷問や戦闘行動の結果ではない殺人事件なども発生しています。
アジア人に対する蔑視 日本人の優越意識
五族協和だの八紘一宇だのってのは単なる掛け声でしか無かった訳で
これは満州から文字通り 屍を踏み越えるように生還した
私の伯父から直接聞かされた事ですが
満州では、一番偉いのは日本人 ついでロシア人
そして中国人モンゴル人、一番卑しいのが朝鮮人と
親たちから はっきりとそう教えられていたという事実を
子供の頃から聞かされていました
このように日本人が勝手に身分を差別するようでは
どんなに綺麗事で飾ろうとも、侵略以外の何ものでも無い
卑劣な行為としか言えませんね
その伯父は今でもこう言います
「あの戦争の責任は 軍だけではなく 国民すべてに有る
全ての日本人が思い上がっていた 自惚れていた」
わたしのこの戦争観は、この伯父のお陰と今でもそう思います。
>これは満州から文字通り 屍を踏み越えるように生還した私の伯父から直接聞かされた事ですが
満州では、一番偉いのは日本人 ついでロシア人そして中国人モンゴル人、一番卑しいのが朝鮮人と、親たちから はっきりとそう教えられていたという事実を子供の頃から聞かされていました
>その伯父は今でもこう言います
「あの戦争の責任は 軍だけではなく 国民すべてに有る全ての日本人が思い上がっていた 自惚れていた」
貴重なお話をありがとうございます。
原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、残念ながら、日本人はその「過ち」が何であったのか、いまだに共有していません。そればかりでなく、その言葉を変えようとする動きさえあるようです。”南京大虐殺などなかった”や”「従軍慰安婦」などはいなった”……などの声も大きくなってきているようで、心配しています。
最近中国が、戦後69年も経過しているのに、「抗日戦勝記念日」を制定し、式典を開いたことが報道されましたが、不都合な事実はなかったことにしようとする安倍政権の歴史修正主義的な考え方や軍事力重視の政策の結果ではないかと思っています。
前回は触れませんでしたが、もう一つ、私が戦前・戦中の日本軍の問題点として忘れてはならないと思うことは、軍隊内の暴力であり、基本的人権の無視です。
戦争を体験された伯父様のお話など、また、教えていただければうれしく思います。
彼らの大陸での厚遇ぶりを知れば知るほどに。
> 「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」
こんな事、知能指数の高い高級指揮官が本気で信じ込んでると思いますか?彼らの殆どは打算的に自らが今現時点で有利な立場に立ちたかったから陸軍高級将校に出世したに過ぎない人達です。
骨の髄まで威張りたい連中だったのです。忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い。
パナソニックの社員は松下幸之助を皆が皆尊敬してますかね?頭が上等な人物ほどそんなファンタジーにはむとんちゃくでしょう。
なのに中国帰りの反省将校たちは軒並み判で押したように天皇崇拝者です。そちらのほうがファンタジーでは無いでしょうか?
私は帝国日本の海外での蛮行、虐殺や戦争犯罪を否定する気は毛頭ありません。ただ、後付の戦争犯罪者達の懺悔を否定する気にも肯定する気にもなれないのです。この点は管理人様も同じかな、とも思います。
だから、想像でものを言ってはいけないというのです。
>「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」
こんな事、知能指数の高い高級指揮官が本気で信じ込んでると思いますか?彼らの殆どは打算的に自らが今現時点で有利な立場に立ちたかったから陸軍高級将校に出世したに過ぎない人達です。骨の髄まで威張りたい連中だったのです。忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い。
根拠を示してください。
戦時中、日本の敗色が濃厚となり、「絶対国防圏」が風前の灯となりつつあった太平洋戦争末期、天皇を松代に移す工事が極秘裏進められました。そして大本営もそこで開こうとしたため「松代大本営」と呼ばれるようになりました。巨大地下壕などの大軍事施設群の工事が朝鮮人などを動員し急ピッチで進めらたのです。「忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い」のであれば、こうした軍の取り組みをどのように説明しますか。
最近の国会議員が「不敬罪」という言葉を口にし、日本の主権回復の日の式典では「天皇陛下万歳」の声があがったことをご存知でしょう。
天皇制軍国主義の実態は、「忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い」というような簡単なものではないでしょう。
敗戦濃厚の時期の松代大本営などというものに現実的な意味があるでしょうか?
これは昨今のダム建設に通じると考えるのが最も妥当かと。
天皇陛下バンザイの声は天皇の意思と関係ありましたでしょうか。彼ら現在の支配者層と戦時帝国陸海軍エリートに人物的な差異はあるのでしょうか?
彼らは権力者であり、官僚だったのです。
私は、「昔も今も人は同じ」この視点から所謂「史実」は読み直しております。
>私は、「昔も今も人は同じ」この視点から所謂「史実」は読み直しております。
それはよいことだとは思いますが、先に結論があって、それを合理化するするために、都合のよいものだけを拾い出して、いろいろな主張をするのはよくありません。そういう意味で、最近流行の歴史修正主義には十分気をつけて、できるだけいろいろな文献に当たっていただきたいと思います。
あなたは、わたしの質問を正しく受け止めることなく、いろいろなことを主張されています。したがって、話がかみ合いません。あなたは、
>「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が大東亜共栄圏を建設して東洋の盟主となり、アジアを主導統治するのは当然のこと」
こんな事、知能指数の高い高級指揮官が本気で信じ込んでると思いますか?彼らの殆どは打算的に自らが今現時点で有利な立場に立ちたかったから陸軍高級将校に出世したに過ぎない人達です。骨の髄まで威張りたい連中だったのです。忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い。
と天皇制軍国主義の根幹を否定するようなことを言われました。だから、わたしは日本が滅亡の危機に瀕しているときにさえ、天皇(天皇制)だけは守らなければならないと、必死に松代に地下壕を準備した軍や関係者の行為を、あなたはどう説明するのか、と聞いているのです。松代大本営建設に関わった人物の証言をご存知でしょうか。
付け加えれば、敗戦後民主国家としてスタートしたにもかかわらず、子どもたちにはほとんど意味のわからない「君が代」を、その意味を説明することなく歌わせ、その後国歌と定めたのはなぜでしょう?また、近隣諸国との関係や経済的な利益をさえ無視して、首相や閣僚が毎年靖国神社に参拝するのはなぜでしょう?
大東亜共栄圏建設を別にすれば、「天皇を崇拝し、優秀な大和民族が東洋の盟主となり、アジアを主導」しようという思いは、戦後自民党政権も受け継いでいるのではありませんか。だから「天皇陛下万歳」ということになるのでしょう。
日本にとって、万世一系の天皇や天皇制は「こんな事、知能指数の高い高級指揮官が本気で信じ込んでると思いますか?」というような簡単なものではないことは明らかです。天皇を再び元首にしようという動きがあることはご存知ですよね。「忠義とか天皇崇拝なんて何の関係も無い」というのは、あなた自身の考えであって、日本の政権中枢の動きはそんなものではない。
>敗戦濃厚の時期の松代大本営などというものに現実的な意味があるでしょうか?
現実的な意味?何のはなしでしょうか。現実的な意味が問題なのではなくて、「天皇」の存在がどのようなものであったのか、が問題なのです。
>これは昨今のダム建設に通じると考えるのが最も妥当かと。
昨今のダム建設?冗談はやめましょう。
冗談でも何でもないですよ。ダム建設舐めないでくださいよ。ある意味大昔に終わった外国との戦争のこと「なんか」より、よほど切実な私達の今的問題なんだから。
ダムが気に入らないなら原発再稼働、アメリカ軍基地移設でも良いです。いわゆるサヨクさんならその方が喰いつきは良いのかな?
天皇陛下バンザイなんかより、その言葉の字面そのものより、本質はその行為により現実に誰が利益を得るか、何のためにそうしようと考えたか?を考察する事だと。
ちなみにウヨの歴史修正主義とかは脳が沸いてるファンタジーなので文章的に何の興味も湧きません。あれはあれで、ああいった駄文を昨今の日本人のマジョリティが本気で喋り始めてるって思い込ませるのには効果的かもしれないけど。
>? 国産の白鼠でしかペスト菌は増えない?
馬鹿げています。こんなもののどこが科学なのか。
と、私が言ってもいないことまで言って、731部隊の細菌兵器研究を否定したのはあなたですよ。
だから、その根拠を示してくださいというのに、
>それを証明しなければならないのは731部隊という組織がいかなる恐るべき研究をしていたかを突き止めるべき人達です。
というのではお話になりません。
>日本産白鼠はペスト菌を培養するのに最適……
科学的根拠を731部隊の素晴らしい研究結果から示して下さい。
ペスト「蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス」という軍の文書、「小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり…」という『埼玉新聞』の報道、そして、田中軍医中尉のノミの「大量生産ヲ命ゼラレタ」という証言。731部隊が細菌兵器研究に取り組んでいたことが明らかなのに、なお科学的根拠を示せと言われるあなたの主張はいかがなものでしょう。もはや議論は…。
ブログで触れましたが、戦後69年も経過した今年、中国は日本人戦犯供述書をインターネット上に公開しました。英文の部分もあり相当アクセスがあるようです。そこには、毒ガスや細菌兵器使用を指示する命令も含まれています。旧日本軍の残虐性が、あらためて拡散することになっています。
また、戦後69年も経過した今年、中国は新たに「抗日戦勝記念日」を制定し、盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」で献花式典を開きました。そして、新華社通信は日中戦争の内容を頻繁にインターネットで発信しています。英文です。旧日本軍の残虐性が、あらためて世界に拡散されているのです。
あなたのような考えの人が増えているからでしょう。あなたのように、日本の戦争を正当化する歴史修正主義が力を得ていることに危機感があるからに違いありません。
「慰安婦」をめぐる誤報問題で、あたかも「従軍慰安問題」は朝日新聞がでっちあげた問題ででもあるかに朝日新聞に対するバッシングがすごいですが、それは日本国内だけの話です。国際機関の勧告によって、「従軍慰安問題」は、海外では日本の天皇制軍国主義の残虐な一面として認識されています。慰安婦像はふえるばかりです。撤去を求めても応じてもらえません。これも、旧日本軍の残虐性をあらためて世界に拡散するものの一つです。あなたのような考えの人が日本で増えているからでしょう。
また、「安重根義士記念館」が開館したのは去年だったでしょうか。安重根が伊藤博文暗殺直後に捕らえられ、裁判の結果、旅順の監獄で絞首刑にされたのはもう100年以上も前のことですが、安重根は韓国にとっては義士。だから、ここでも、日本の植民地支配が韓国にとっては暗黒の時代であったという歴史が拡散します。あなたのような考えの人が日本で増えているからでしょう。
東南アジア諸国も、日本の軍政時代を「暗黒時代」あるいは、それに似た表現で子どもたちに語り伝えています。旧日本の残虐性は、いまだ過去のものにならないのは、戦争体験者が少なくなるのに合わせて、あなたのような考えの人が、日本で増えているからだと思います。
今、日本は歴史の勝手な解釈で、その歴史認識を問われています。歴史の事実、特に加害の事実にきちんと向き合ってください。「侵略の定義は定まっていない」などという自分勝手な考え方では、近隣諸国との関係は悪化するばかりです。
>ちなみにウヨの歴史修正主義とかは脳が沸いてるファンタジーなので文章的に何の興味も湧きません。あれはあれで、ああいった駄文を昨今の日本人のマジョリティが本気で喋り始めてるって思い込ませるのには効果的かもしれないけど。
というけれど、あなた間違いなく立派な歴史修正主義者のお仲間です。だって、加害の事実に向き合おうとしていない。