朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日であるが、米国は同月27日に国連安全保障理事会を招集し、ソ連欠席の状況のまま、朝鮮民主主義人民共和国を侵略者と決議させるとともに、国連軍を組織して介入した。「国連軍の犯罪(民衆・女性から見た朝鮮戦争)」藤目ゆき編・解説(不二出版)によると、翌1951年年頭朝鮮女性同盟が国連軍の侵略を訴え、国連軍参加国の女性たちに夫や息子を朝鮮に送らないように連帯を求めるアピールを出したという。それに応えて国際民主婦人連盟は朝鮮戦争調査のための女性委員会を組織し調査団を送った。調査団は1951年5月に戦争最中の朝鮮に入り、身の危険を感じながら調査を開始したのである。下記は、その三章から六章と結論の一部抜粋であるが、三章から六章は、一・二章とは異なり、数人ずつのグループに分かれて、様々な場所に調査に入り、それぞれのグループの参加者が調査結果をまとめて署名するというかたちのものである。一・二章同様「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)からの抜粋である。
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の
残虐行為調査報告書
第三章
調査団のメンバーはワンハイ(黄海)道にゆき、アナク(安岳)、シンチェン(信川)の町をおとずれた。この訪問に参加したのはエヴァ・ブリースター(オーストラリア)リ・ケン(中国)、カンデラリア・ロドリゲス(キューバ)ノラ・K・ロツド(カナダ)、マリア・オヴシヤンニコワ(ソ連)、モニカ・フエルトン(イギリス)であった。
調査団は、ワンハイ(黄海)道の全域で12万人が占領軍に殺され、それに加えて多くの人々が空襲で殺されたということをはっきりとたしかめた。アナク(安岳)市では、19092人がアメリカ、イギリス、李承晩軍に殺されたということである。アナク(安岳)市では、調査団のメンバーは、戦前は農民銀行の倉庫であったが、アメリカ軍が牢獄に変えた建物をおとずれた。それは、、それぞれ、長さ4メートル、巾3メートルの5つの監房に区切られていた。証人たちは、これらの監房はいっぱいになって、すわることができなかったといった。
スンサン・リ(崇山里)街194番地の一農婦ハン・ナクソン(韓洛善)は、かの女の夫キム・ボククアン(金奉寛)と義弟キム・ボククオン(金奉均)が1950年11月10日につかまり、この牢獄に投げこまれたと調査団に話した。この逮捕は二人のアメリカ人と4人の李承晩軍の兵隊によって行われた。かの女は逃げだしてかくれた。かの女は、また次のように話した。かの女の夫や義弟その他の4人は、みんな農民か労働者であり、どこかの役人であったり、労働党員であるものは一人もいなかった。多くの子供たち──その中には2才の子供もいた──が、母親といっしょにこの牢獄に入れられた。囚人たちは、15日間食物なしで監禁され、鉄棒でなぐられた。これらの殴打はアメリカ軍将校の命令で、李承晩軍の兵隊によって行われた。1951年11月25日、婦人や子供をまじえた囚人たちは、丘につれだされ、堀の中に生き埋めにされた。
もう一人の証人キム・サンイエン(金相延)──かれはセサン・リ(世山里)街172番地に住んでいる──という年配の男は、次のように話した。かれの12人の家族は、息子、息子の妻、孫二人もまじえて全部つかまった。最初は、かれ自身が何が起こったのかわからなかった。後になってかれらは丘につれて行かれ、殺されたことを知った。市が解放されてから、かれは、かれらの死体をさがしに行き、息子と息子の妻がいっしょに縄でしばられている遺骸を見つけた。どの死体にも傷がないので、キム・サンイエン(金相延)は、かれらが生き埋めにされたのだと判断した。かれの息子は国営工場で働き、突撃労働者であったというので逮捕された。かれ自身も、10月18日につかまったが、同29日に釈放された。最後に、かれは団員たちに、かれ自身常日頃信仰ぶかい人間であったので、キリスト教徒であるアメリカ人の善行を期待しており、このような残虐行為をアメリカ人がやるなどとはとても想像できなかったと語った。
調査団のメンバーは、それからもう一つの監獄をおとずれた。ここでも、団員たちは、囚人がすわったり、横になったりする余地がなかったということをきかされた。囚人を殴るためにつかった道具を見せられたが、それらはアメリカ陸軍の野球用バットと同じ物であった。(このバットは証拠品としてもって帰った)。監房の外側の廊下には、血痕がはっきりと見られた。
……(以下略)
以上には、黄海道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
1951年5月26日
第四章
平安南道南浦(日本帝国主義時代の鎮南浦)と、江西の調査報告。
1951年5月22日──23日。
参加者、ジレット・ジーグレル(フランス)、フアトマ・ベン・スリマン(チュニジア)、アバシシア・フオデイル(アルジェリア)、リ・チケ(ヴィエトナム)、イダ・バツハマン(デンマーク)、カーテ・フレロン・ヤコブセン(デンマーク、オブザーヴァー)。
南浦は爆撃をうけるまえ、6万人の人口をもっていた。いまではほぼその半分が町から出ていった。
われわれは、平安南道人民委員会委員長ソク・チヤンナム(石昌男)から、南浦にはぜんぜん軍需工業はなく、おもな工業はガラス、繊維、製陶、化学肥料であったという報告をきいた。もちろん、南浦は黄海に面する海港ではあるが、商業上でも、軍事上でも港としては重要でない。というのは、海が浅いからである。
市には2万の建物があった。工業大学、農業大学、劇場が一つずつあったが、今ではみんなこわされてしまった。市の13の病院には、ぜんぶ赤十字の印をつけておいたが、焼夷弾でひどくこわされ、そのたった一つに修繕がきくだけである。26の学校のうち、つかえるのはたった2校しかのこらず、小っぽけな教会たった一つが、やっと破壊をまぬがれた。
南浦のアメリカ軍占領は、1950年10月22日から12月5日までつづいた。その間に、たくさんの建物がやかれた。いっさいの食糧が破棄された。占領中、アメリカ軍は1151人の人を野獣的に殺した。そのうちの半分以上は、女子供であった。
南浦はたえまなく爆撃されたが、一番ひどい爆撃は1951年5月6日のそれであった。わたしたちは市内を乗りまわし、また方々で車をとめて調査した。見わたすかぎり、ほとんどすべての家が完全にこわされて、地面の爆弾穴、ガラクタの山、いく本かの煙突が、以前そこに家のあったことをやっと示していた。残った建物はひどい被害をうけていた。わたしたちが立ち止まったところでは、どこでも、わたしたちのまわりに人々があつまって、かれらの最近の悲劇、かれらの近親の死亡と家の焼失のことをわたしたちに話し、アメリカ軍に拷問されて、うけた傷を見せてくれた。
市内のヨンドン・リ(永洞里)地区は、生存者の一人がいったように、墓場にかわってしまった。それぞれの家族ごとに3─4人、ときには10人の家族をうしなった。一部が岡の上にあるこの地区では壁は一つものこっておらず、木々は黒焦げの幹がひかっているだけであった。一つの爆発穴のふちにたって、リ・タンエアウ(李東華─42才)という男はいった。「ここにわたしの家がありました。5月の爆撃のとき、家族の6人、家内に、2人の子供、3人の親類──をなくしました。わたしたち朝鮮人はわが国をまもります。どうか、国際婦人連盟は朝鮮のこの事業をまもって下さい。」キム・スヨン(金水永)というもう一人の男は、かれの家族10人をみんななくした。かれはいった。「朝鮮人はみんな一人のように団結しています。わたしは、わたしの感情をうまく表現できませんが世界はきっとわかってくれるでしょう。」
ほかの人たちは復讐をさけんでいた。
この同じほかの地区では、わたしたちは、ひどい火傷の治療をする臨時病院をおとずれたが、それは深い地下につくってあった。それは、広さ1メートル半ばかりの低いむきだしの廊下で、岩をくりぬいて17台の寝台をおくだけの場所であった。
……(以下略)
上記には、平安南道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
第五章
1951年5月22日から24日まで、代表者の一団
リウ・チニャン(中国)
ジエルメン・アンネヴァル(ベルギー)
エリザベエタ・ガロ(イタリア)
ミルセ・スヴアトソヴア(チェッコスロバキア)
は、江原道文川郡のマズエン(万先)村(平壌から150キロ、元山から48キロ)と、おなじく江原道の元山港を視察した。
代表団は平壌、江東、山東の諸郡を通過したが、これらはほとんどみんな焼けうせていた。また代表団は有名な温泉地陽徳を通過した。陽徳はいまではガラクタと廃墟のかたまりにすぎなくなっていて、その中には、中学校の残骸もまじっていた。わたしたちは、夜農民が畑をたがやしているのをみた。というのは、ひる間たがやすと、アメリカ機が機銃攻撃をくわえるからである。畑はていねいにたがやされていた。
マズエン・リ(万先里)では、農民たちは、夜しか仕事ができないのに、春の百姓仕事がふつうよりも早目におわったと、わたしたちに話した。
マズエン・リのまわりで、代表団は、山や森や田畑や村におちてきたアメリカの焼夷弾で、ひろい山林地帯がやけてしまっているのを見た。
マズエン・リの住民がわたしたちに話したところによると、5月23日の夜、アメリカ機が村に3つの爆弾をおとし、いく軒かの家をこわしたということである。
キム・ソンイル(金松律)という農民はつぎのような話をした。アメリカ軍は1950年10月14日から12月5日まで、マズエン・リを占領していた。かれらは人民軍と5日間戦ったのち、村に侵入してきた。占領期間中、かれらは人民軍に包囲されていたので、自分たちの陣営を有利にするため、ふきんの村々をやきはらい、逃げなかった住民をつかまえ、マズエン・リにこしらえた仮監にぶちこんだ。数日してから、かれらはいく人かの婦人を釈放したが、かの女たちは山に逃げこむか、自分の家の廃墟のなかにかくれてしまった。みんなでおよそ5百人が投獄され、54人が殺され、76人が元山におくられ、いまだに行方がわからない。
……(以下略)
この章には、北江原道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
第六章
調査団のつぎのメンバーからなる一団は、朝鮮北部を視察した。
ヒルデ・カーン(ドイツ民主共和国)
リリー・ヴェヒター(西ドイツ)
バイ・ラン(中国)
トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
旅行は平壌から介川、それから煕川、江界、満浦にゆき、平壌にひきかえした。
平壌から介川にゆく途中、調査団のメンバーは4つの小さな町──それはほとんどかんぜんにこわされていた──と、その他たくさんの焼けうせた村や農民の住宅を見た。
メンバーは、旅行の全行程で、こわれていない町は一つも見なかったし、被害をうけていない村もすくなかった。
調査団のメンバーは6つの山火事をみたが、そのうち2つは自分らの面前で火がついた。
── 一つは平壌と介川のあいだで、もう一つは煕川と介川のあいだで。両方の場合とも飛行機の音がきこえ、調査団のメンバーは、地面から火柱のたつのをみたが、そのすぐ後でもえさかる火が見え、それは突然急速にひろがりはじめた。メンバーは、火が木の枝にもえうつるのを見た。この旅行の途中、調査団のメンバーは、山火事で黒くなった山腹をたくさん見かけた。
……(以下略)
この章には、介川、煕川、江界、満浦をおとずれた調査団のメンバーの全員が
1951年5月27日署名した。
結論
調査団のメンバーが、朝鮮の各地でいろいろの調査をしたのち、調査団は、つぎのような結論にたどりついた。
朝鮮の人民は、アメリカ占領軍から無慈悲で系統的な絶滅作戦をうけているが、これは人道の原則に反するばかりか、たとえばハーグやジュネーヴできめた戦争法規にも反するものである。それはつぎのような方法でやられている。
(a)食糧、食糧貯蔵と食糧工場の系統的な破壊によって。森林や熟れた作物は焼夷弾で系統的にやかれ、果樹は切りたおされ、野良で家畜をつかって働いている農民は低空をとぶ飛行機から機銃掃射を浴びて殺されている。こういう方法で、朝鮮の人民ぜんたいが飢餓の運命にさらされている。
(b)町から町を村から村を、つぎつぎに系統的にこわすことによって。これらの町や村の大多数は、どんなに想像をたくましくしても、軍事目標とは考えられないし、工業中心地とさえも考えられない。この系統的な破壊目的は、まず第一に朝鮮人の斗志をうちくだくこと、第二にかれらを肉体的に消耗させることであるのは明らかである。この止むことのない空襲で、住宅、病院、学校などが計画的にこわされている。灰のかたまりになってしまった町。生きのこった住民が防空壕のなかにすむほかない町にさえ、なお爆撃はつづいている。
(c)国際法で禁止されている兵器を系統的につかうことによって。つまり焼夷弾、石油爆弾、ナパーム弾、時限爆弾、それに低空をとぶ飛行機から市民をたえず機銃掃射することによって。
(d)朝鮮人を残虐にみなごろしすることによって。アメリカ軍や李承晩軍が一時占領した地域では、占領期間中に、数十万の市民、老人から子供までまじえた家族のぜんぶが、拷問され、打ち殺され、焼かれ、生埋めにされた。そのほか数千数万人は、せりあうような監獄のなかで、飢えと寒さで死んでいった。これらの人びとは、何の罪もなければ、取り調べも、裁判も判決のいいわたしもなく、監獄にぶちこまれたのである。
これらの大衆的拷問と大衆的虐殺は、ヒトラー・ナチスが、その一時占領したヨーロッパでやったより以上のものである。
質問をうけたすべての市民のした証言は、これらの犯罪のほとんど全部が、アメリカ軍の兵隊や将校がやったものであり、そうでない場合でもアメリカ軍将校の命令でやられたものであることを示している。だからこれらの残虐行為の全責任は、朝鮮のアメリカ軍総司令官、つまりマッカサー将軍、リッジウェイ将軍、そして自分のことを国連軍といっている侵略軍のその他の司令官が負うべきものである。これらの残虐行為は、前線の将校の命令によってなされたものであるがその責任は、自分の軍隊を朝鮮におくり、その国連代表が朝鮮戦争にさんせいの投票をした政府にもある。
調査団は、朝鮮にたいしてやった犯罪の責任者は、1943年の連合国宣言にきめてある、戦争犯罪のかどで告訴されねばならぬし、おなじ宣言に定めてあるように、世界の人民によって裁判されねばならぬと自分たちは確信をあきらかにする。……(以下略)
この報告書は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語の5カ国語でつ くった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の
残虐行為調査報告書
第三章
調査団のメンバーはワンハイ(黄海)道にゆき、アナク(安岳)、シンチェン(信川)の町をおとずれた。この訪問に参加したのはエヴァ・ブリースター(オーストラリア)リ・ケン(中国)、カンデラリア・ロドリゲス(キューバ)ノラ・K・ロツド(カナダ)、マリア・オヴシヤンニコワ(ソ連)、モニカ・フエルトン(イギリス)であった。
調査団は、ワンハイ(黄海)道の全域で12万人が占領軍に殺され、それに加えて多くの人々が空襲で殺されたということをはっきりとたしかめた。アナク(安岳)市では、19092人がアメリカ、イギリス、李承晩軍に殺されたということである。アナク(安岳)市では、調査団のメンバーは、戦前は農民銀行の倉庫であったが、アメリカ軍が牢獄に変えた建物をおとずれた。それは、、それぞれ、長さ4メートル、巾3メートルの5つの監房に区切られていた。証人たちは、これらの監房はいっぱいになって、すわることができなかったといった。
スンサン・リ(崇山里)街194番地の一農婦ハン・ナクソン(韓洛善)は、かの女の夫キム・ボククアン(金奉寛)と義弟キム・ボククオン(金奉均)が1950年11月10日につかまり、この牢獄に投げこまれたと調査団に話した。この逮捕は二人のアメリカ人と4人の李承晩軍の兵隊によって行われた。かの女は逃げだしてかくれた。かの女は、また次のように話した。かの女の夫や義弟その他の4人は、みんな農民か労働者であり、どこかの役人であったり、労働党員であるものは一人もいなかった。多くの子供たち──その中には2才の子供もいた──が、母親といっしょにこの牢獄に入れられた。囚人たちは、15日間食物なしで監禁され、鉄棒でなぐられた。これらの殴打はアメリカ軍将校の命令で、李承晩軍の兵隊によって行われた。1951年11月25日、婦人や子供をまじえた囚人たちは、丘につれだされ、堀の中に生き埋めにされた。
もう一人の証人キム・サンイエン(金相延)──かれはセサン・リ(世山里)街172番地に住んでいる──という年配の男は、次のように話した。かれの12人の家族は、息子、息子の妻、孫二人もまじえて全部つかまった。最初は、かれ自身が何が起こったのかわからなかった。後になってかれらは丘につれて行かれ、殺されたことを知った。市が解放されてから、かれは、かれらの死体をさがしに行き、息子と息子の妻がいっしょに縄でしばられている遺骸を見つけた。どの死体にも傷がないので、キム・サンイエン(金相延)は、かれらが生き埋めにされたのだと判断した。かれの息子は国営工場で働き、突撃労働者であったというので逮捕された。かれ自身も、10月18日につかまったが、同29日に釈放された。最後に、かれは団員たちに、かれ自身常日頃信仰ぶかい人間であったので、キリスト教徒であるアメリカ人の善行を期待しており、このような残虐行為をアメリカ人がやるなどとはとても想像できなかったと語った。
調査団のメンバーは、それからもう一つの監獄をおとずれた。ここでも、団員たちは、囚人がすわったり、横になったりする余地がなかったということをきかされた。囚人を殴るためにつかった道具を見せられたが、それらはアメリカ陸軍の野球用バットと同じ物であった。(このバットは証拠品としてもって帰った)。監房の外側の廊下には、血痕がはっきりと見られた。
……(以下略)
以上には、黄海道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
1951年5月26日
第四章
平安南道南浦(日本帝国主義時代の鎮南浦)と、江西の調査報告。
1951年5月22日──23日。
参加者、ジレット・ジーグレル(フランス)、フアトマ・ベン・スリマン(チュニジア)、アバシシア・フオデイル(アルジェリア)、リ・チケ(ヴィエトナム)、イダ・バツハマン(デンマーク)、カーテ・フレロン・ヤコブセン(デンマーク、オブザーヴァー)。
南浦は爆撃をうけるまえ、6万人の人口をもっていた。いまではほぼその半分が町から出ていった。
われわれは、平安南道人民委員会委員長ソク・チヤンナム(石昌男)から、南浦にはぜんぜん軍需工業はなく、おもな工業はガラス、繊維、製陶、化学肥料であったという報告をきいた。もちろん、南浦は黄海に面する海港ではあるが、商業上でも、軍事上でも港としては重要でない。というのは、海が浅いからである。
市には2万の建物があった。工業大学、農業大学、劇場が一つずつあったが、今ではみんなこわされてしまった。市の13の病院には、ぜんぶ赤十字の印をつけておいたが、焼夷弾でひどくこわされ、そのたった一つに修繕がきくだけである。26の学校のうち、つかえるのはたった2校しかのこらず、小っぽけな教会たった一つが、やっと破壊をまぬがれた。
南浦のアメリカ軍占領は、1950年10月22日から12月5日までつづいた。その間に、たくさんの建物がやかれた。いっさいの食糧が破棄された。占領中、アメリカ軍は1151人の人を野獣的に殺した。そのうちの半分以上は、女子供であった。
南浦はたえまなく爆撃されたが、一番ひどい爆撃は1951年5月6日のそれであった。わたしたちは市内を乗りまわし、また方々で車をとめて調査した。見わたすかぎり、ほとんどすべての家が完全にこわされて、地面の爆弾穴、ガラクタの山、いく本かの煙突が、以前そこに家のあったことをやっと示していた。残った建物はひどい被害をうけていた。わたしたちが立ち止まったところでは、どこでも、わたしたちのまわりに人々があつまって、かれらの最近の悲劇、かれらの近親の死亡と家の焼失のことをわたしたちに話し、アメリカ軍に拷問されて、うけた傷を見せてくれた。
市内のヨンドン・リ(永洞里)地区は、生存者の一人がいったように、墓場にかわってしまった。それぞれの家族ごとに3─4人、ときには10人の家族をうしなった。一部が岡の上にあるこの地区では壁は一つものこっておらず、木々は黒焦げの幹がひかっているだけであった。一つの爆発穴のふちにたって、リ・タンエアウ(李東華─42才)という男はいった。「ここにわたしの家がありました。5月の爆撃のとき、家族の6人、家内に、2人の子供、3人の親類──をなくしました。わたしたち朝鮮人はわが国をまもります。どうか、国際婦人連盟は朝鮮のこの事業をまもって下さい。」キム・スヨン(金水永)というもう一人の男は、かれの家族10人をみんななくした。かれはいった。「朝鮮人はみんな一人のように団結しています。わたしは、わたしの感情をうまく表現できませんが世界はきっとわかってくれるでしょう。」
ほかの人たちは復讐をさけんでいた。
この同じほかの地区では、わたしたちは、ひどい火傷の治療をする臨時病院をおとずれたが、それは深い地下につくってあった。それは、広さ1メートル半ばかりの低いむきだしの廊下で、岩をくりぬいて17台の寝台をおくだけの場所であった。
……(以下略)
上記には、平安南道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
第五章
1951年5月22日から24日まで、代表者の一団
リウ・チニャン(中国)
ジエルメン・アンネヴァル(ベルギー)
エリザベエタ・ガロ(イタリア)
ミルセ・スヴアトソヴア(チェッコスロバキア)
は、江原道文川郡のマズエン(万先)村(平壌から150キロ、元山から48キロ)と、おなじく江原道の元山港を視察した。
代表団は平壌、江東、山東の諸郡を通過したが、これらはほとんどみんな焼けうせていた。また代表団は有名な温泉地陽徳を通過した。陽徳はいまではガラクタと廃墟のかたまりにすぎなくなっていて、その中には、中学校の残骸もまじっていた。わたしたちは、夜農民が畑をたがやしているのをみた。というのは、ひる間たがやすと、アメリカ機が機銃攻撃をくわえるからである。畑はていねいにたがやされていた。
マズエン・リ(万先里)では、農民たちは、夜しか仕事ができないのに、春の百姓仕事がふつうよりも早目におわったと、わたしたちに話した。
マズエン・リのまわりで、代表団は、山や森や田畑や村におちてきたアメリカの焼夷弾で、ひろい山林地帯がやけてしまっているのを見た。
マズエン・リの住民がわたしたちに話したところによると、5月23日の夜、アメリカ機が村に3つの爆弾をおとし、いく軒かの家をこわしたということである。
キム・ソンイル(金松律)という農民はつぎのような話をした。アメリカ軍は1950年10月14日から12月5日まで、マズエン・リを占領していた。かれらは人民軍と5日間戦ったのち、村に侵入してきた。占領期間中、かれらは人民軍に包囲されていたので、自分たちの陣営を有利にするため、ふきんの村々をやきはらい、逃げなかった住民をつかまえ、マズエン・リにこしらえた仮監にぶちこんだ。数日してから、かれらはいく人かの婦人を釈放したが、かの女たちは山に逃げこむか、自分の家の廃墟のなかにかくれてしまった。みんなでおよそ5百人が投獄され、54人が殺され、76人が元山におくられ、いまだに行方がわからない。
……(以下略)
この章には、北江原道をおとずれた調査団のメンバーの全員が署名した。
第六章
調査団のつぎのメンバーからなる一団は、朝鮮北部を視察した。
ヒルデ・カーン(ドイツ民主共和国)
リリー・ヴェヒター(西ドイツ)
バイ・ラン(中国)
トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
旅行は平壌から介川、それから煕川、江界、満浦にゆき、平壌にひきかえした。
平壌から介川にゆく途中、調査団のメンバーは4つの小さな町──それはほとんどかんぜんにこわされていた──と、その他たくさんの焼けうせた村や農民の住宅を見た。
メンバーは、旅行の全行程で、こわれていない町は一つも見なかったし、被害をうけていない村もすくなかった。
調査団のメンバーは6つの山火事をみたが、そのうち2つは自分らの面前で火がついた。
── 一つは平壌と介川のあいだで、もう一つは煕川と介川のあいだで。両方の場合とも飛行機の音がきこえ、調査団のメンバーは、地面から火柱のたつのをみたが、そのすぐ後でもえさかる火が見え、それは突然急速にひろがりはじめた。メンバーは、火が木の枝にもえうつるのを見た。この旅行の途中、調査団のメンバーは、山火事で黒くなった山腹をたくさん見かけた。
……(以下略)
この章には、介川、煕川、江界、満浦をおとずれた調査団のメンバーの全員が
1951年5月27日署名した。
結論
調査団のメンバーが、朝鮮の各地でいろいろの調査をしたのち、調査団は、つぎのような結論にたどりついた。
朝鮮の人民は、アメリカ占領軍から無慈悲で系統的な絶滅作戦をうけているが、これは人道の原則に反するばかりか、たとえばハーグやジュネーヴできめた戦争法規にも反するものである。それはつぎのような方法でやられている。
(a)食糧、食糧貯蔵と食糧工場の系統的な破壊によって。森林や熟れた作物は焼夷弾で系統的にやかれ、果樹は切りたおされ、野良で家畜をつかって働いている農民は低空をとぶ飛行機から機銃掃射を浴びて殺されている。こういう方法で、朝鮮の人民ぜんたいが飢餓の運命にさらされている。
(b)町から町を村から村を、つぎつぎに系統的にこわすことによって。これらの町や村の大多数は、どんなに想像をたくましくしても、軍事目標とは考えられないし、工業中心地とさえも考えられない。この系統的な破壊目的は、まず第一に朝鮮人の斗志をうちくだくこと、第二にかれらを肉体的に消耗させることであるのは明らかである。この止むことのない空襲で、住宅、病院、学校などが計画的にこわされている。灰のかたまりになってしまった町。生きのこった住民が防空壕のなかにすむほかない町にさえ、なお爆撃はつづいている。
(c)国際法で禁止されている兵器を系統的につかうことによって。つまり焼夷弾、石油爆弾、ナパーム弾、時限爆弾、それに低空をとぶ飛行機から市民をたえず機銃掃射することによって。
(d)朝鮮人を残虐にみなごろしすることによって。アメリカ軍や李承晩軍が一時占領した地域では、占領期間中に、数十万の市民、老人から子供までまじえた家族のぜんぶが、拷問され、打ち殺され、焼かれ、生埋めにされた。そのほか数千数万人は、せりあうような監獄のなかで、飢えと寒さで死んでいった。これらの人びとは、何の罪もなければ、取り調べも、裁判も判決のいいわたしもなく、監獄にぶちこまれたのである。
これらの大衆的拷問と大衆的虐殺は、ヒトラー・ナチスが、その一時占領したヨーロッパでやったより以上のものである。
質問をうけたすべての市民のした証言は、これらの犯罪のほとんど全部が、アメリカ軍の兵隊や将校がやったものであり、そうでない場合でもアメリカ軍将校の命令でやられたものであることを示している。だからこれらの残虐行為の全責任は、朝鮮のアメリカ軍総司令官、つまりマッカサー将軍、リッジウェイ将軍、そして自分のことを国連軍といっている侵略軍のその他の司令官が負うべきものである。これらの残虐行為は、前線の将校の命令によってなされたものであるがその責任は、自分の軍隊を朝鮮におくり、その国連代表が朝鮮戦争にさんせいの投票をした政府にもある。
調査団は、朝鮮にたいしてやった犯罪の責任者は、1943年の連合国宣言にきめてある、戦争犯罪のかどで告訴されねばならぬし、おなじ宣言に定めてあるように、世界の人民によって裁判されねばならぬと自分たちは確信をあきらかにする。……(以下略)
この報告書は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語の5カ国語でつ くった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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