真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 フィリピン

2014年06月15日 | 国際・政治
 山本七平は、その著書「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)で、「マニラ埠頭の罵声と石の雨を」思い出しながら、敗戦後の日本軍の撤退を、”字義通りに「石をもって追われた」のであった。”と書いている。そして、小松真一氏『虜人日記』の中の、まったく同じような内容の文章を引用している。

 ”・・・「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロウ」「人殺し」「イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)」憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投
げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・
・”

 これが、「アジア人のためのアジア」・「大東亜共栄圏」・「東亜新秩序」などをスローガンに軍を進め戦った「日本軍」に対する、また、「日本国」に対するフィリピン人の偽らざる評価なのであろう。敗戦後の日本軍の撤退は、「護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた」というようなものだったのである。日本軍によって、「自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出した」フィリピン人が、マッカーサー率いるアメリカ軍の再上陸を、拍手をもって迎えたということも頷ける。

 そして、それは、下記に抜粋したフィリピン小学校4年生読本『歴史』(1977年版)の中の「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです」や「しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。」の文章に集約されおり、フィリピンの歴史教育の一部になっているということである。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の「フィリピン」に取り上げられている高等学校用『フィリピンの歴史』高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』から、私が記憶しておきたいと思った項目を、いくつか選んで抜粋したものである。また、最下段は、フィリピン小学校4年生読本『歴史』の中の文章である。
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高等学校用『フィリピンの歴史』(タガログ語)テオドロ・A・アゴンシリオ著 ナショナル・ブックストア発行 1981年版

               第17章 太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
 1939年、ヨーロッパで戦争が始まったとき、フィリピンの国情は必ずしも悪い状況ではなかった。しかしマヌエル・L・ケソン(フィリピン国民党党首・コモンウェルス政府大統領)は、フィリピンの美しい空に暗雲がたちこめるのではないかと感じた。民族主義者で、作家で、知識人、そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは、日本が一番危険ではないかと考えた。1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから、日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もしアジアで戦争が起こったならば、ドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように、日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないか、というおそれを抱いた。ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万のフィリピン軍の動員を計算した。フィリピンを攻撃することは、どんな国にも容易にできないだろうと考えた。なぜなら、攻撃側は多くの兵隊と武器を失うだろうからである。ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して、指揮官にマッカーサーを任命した。フィリピンの兵隊は13万であった。そのフィリピンとアメリカの軍隊の連合体をユサッフェ(アメリカ極東軍)─USAFFE(UnitedStates Armed Forces in the Far East)といった。



宣戦布告
 1939年ヨーロッパで戦争が始まってから、日本はドイツ、イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国ぐにを枢軸国という。1941年7月、日本はインドシナ(現在のベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じた。アジアにあるイギリスやオランダの植民地、例えばマレーシアやインドネシアが危険であるように、フィリピンも危険と考えたからである。アメリカは、主権を持った国家同士であるということで、日本に対して相互に理解しあおうと提言した。しかし、日本はそれを拒否した。

 日本とアメリカの関係は険悪になった。2ヵ国の関係改善のため、日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし両者がハル国務長官と交渉しているあいだに、日本はハワイにあるパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。日本は宣戦布告をしないで、アメリカの軍事施設を奇襲したのである。ハワイ時間12月7日だった。奇襲の結果、計5000名のアメリカ海軍将校と兵隊が死傷した。翌日、ルーズベルト大統領は議会で宣戦を提案した。日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告した。米英2ヶ国も日本に宣戦布告した。相互の宣戦布告で、ここに太平洋戦争が始まったのである。



日本の侵略
 真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アメリカは日本の飛行機を撃ち落しにかかったが、日本は各地に攻撃をしかけてきた。アパリ、ダバオ、バギオ、タルラックなどであり、夜にはマニラが爆撃された。とき同じくして、日本はアパリ、リンガエン、アティモナン、そしてラモン湾に上陸した。日本がクラーク基地を爆撃したとき、アメリカは防衛することもできず、飛行機は破壊されてしまった。しかし、フィリピン人は、それにひるむことなく、以前と同じように心には希望を失わず団結した。・・・(以下略) 

 
日本軍はなにをしたか
 ケソンはコレヒドールを発つ前に、ホルヘ・B・バルガスとホセ・P・ラウレルに日本に占領された自国のことを頼んだ。日本軍がマニラを占領したときに、バルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置され、それぞれの長にフィリピン人がなった。しかしどの省にも日本人がいて、フィリピンの一挙一動を監視していた。1943年初頭、日本は、フィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして日本は、フィリピンの憲法制定のためフィリピン独立準備委員会をつくった。日本はフィリピン独立言以前に、政党活動をすべて禁止し、そのかわりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設けた。この組織は新しいフィリピン大統領を選出したが、これは日本の支持によるものだった。
 1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルは共和国大統領に就任した。その同じ日、ラウレルは日本と軍事協定(日比同盟条約)を結ぶことを強制された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対し、もともと非協力的であったからである。フィリピン人は、フィリピン全国の学校で教えられた、アメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であった。



ゲリラ
 フィリピンの戦いは、バターンとコレヒドールの陥落とともには終わらなかった。ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した。ゲリラの数は、町や市の市民が加わったり、また隠れてゲリラになる者もいたので増え続けた。日本軍の残酷さ──とくに地方での女性に対する邪悪な扱い──は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は有罪無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や、日本軍が接収した刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。

 一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与えた。市民はまた、ゲリラに兵力、兵営、武器、艦船の数など日本軍の状況を伝えた。このためオーストラリアにいたアメリカ軍は、フィリピンのどこを攻撃しなければならないかがわかっていた。
 フィリピン全土でさまざまなゲリラ・グループが発生した。軍人出身のゲリラ・リーダーもいれば、民間人のリーダーもいた。パナイ島ではトーマス・コンフェソールが民間人リーダーで、マカリオ・ペラルタ大佐が軍人出身のリーダーであった。レイテ島では、ルペルト・カンフレオン大佐が並ぶもののないリーダーであった。ミンダナオ島では‥(以下略)



アメリカ軍の帰還
 自由への道は長く険しかった。オーストラリアのアメリカ軍は、日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月、アメリカ軍は、フィリピンにいた日本軍に対して容赦ない砲撃をしかけた。フィリピンの人びとはひそかに喜んだが、日本軍はフィリピン人の心まで征服することはできなかった。

 ・・・(以下略)

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高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』レオディビコ・C・ラクサマナ著 フェニックス出版社 1987年版

              第11章 日本のフィリピン占領

死の行進
 16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちが、バターンで武器を捨てた。降伏後、彼らは勝利者である敵の残忍な扱いを受けた。飢え、渇き、病い、疲労で極度に衰弱してにもかかわらず、彼らは、バターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまでの全行程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中、フィリピン人約1万人、アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車につめ込まれて、ターラックのキャパスにあったオンドネル・キャンプにつれてゆかれ、全員が収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族のもとに帰れたのは、ごく少数であった。


日本の軍政
 日本軍マニラ侵入の翌日、1942年1月2日、日本の軍事政権がフィリピンの政治・経済・文化活動を指揮するため設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ、第2・第3にタカギ、ワイチ各陸軍少将が就任した。
 東京からの命令を実行して、日本の軍事政権は、いくつかの規定を定め、無力なフィリピン人は、それに従わざるをえなかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラ施行された。戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器すべてが没収された。日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人を1人殺害すれば、有力なフィリピン人を2人射殺するという軍の布告が出された。連合国軍の武装解除された兵隊は逮捕され、ロス・パニョスとサント・トマス両大学、およびその他の収容所に拘禁された。


 すべてが日本支配下に置かれた。銀行、教会、工場、印刷所、学校、劇場は軍当局の厳重な監視を受けた。フィリピン国旗の掲揚は全面的に禁止された。国歌およびアメリカの歌を歌うことも許されなかった。日本の軍票がフィリピンの通貨に代わって配布された。

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参考資料

フィリピン小学校4年生読本『歴史』(タガログ語)コンコルディア・C・ロゲ、フロレンチア・B・バウティスタ編 レックス・ブックストア発行 1977年版

 フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです。
 日本軍は、来たばかりのころは、自分たちはフィリピンの友だちだといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
 日本人は、アメリカ人と関係あるものすべてを取り除きました。英語の代わりに日本語にしました。
 彼らはまた、人びとの食糧や家財道具をはじめ、乗りものや大きな家々をも取り上げました。多くの人びとが生活に困り、お腹を空かせていました。彼らはまた、捕らえた人びとを拷問し、殺しました。しかしフィリピン人は、マッカーサー将軍が、戻ってくることを信じていました。将軍がそう約束したからです。

 ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人びとは、山にこもりました。そしてマッカーサー将軍がフィリピンを救い出してくれるのを待ちました。ゲリラと日本軍はしばしば闘い、ゲリラは人びとの希望となりました。
 日本兵は、ゲリラに復讐するため、フィリピン人のスパイを使いました。これらのスパイは、ゲリラを偵察しました。
 日本人は、スパイがゲリラとみなした人びとに、とても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、要塞に閉じこめました。捕まった者たちに、仲間の名をいわせました。
 罰せられ、殺された者たちの中には、アバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、アントニオ・エスコーダ氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
 しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。

 

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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