真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ニカラグアに対するアメリカの影響力行使と日米合同委員会・・・

2022年12月09日 | 国際・政治

 先日、岸田首相が2023年~27年度の5年間の防衛費について、総額43兆円とするように浜田防衛相と鈴木財務相に指示したという報道がありました。
 ふり返れば、2021年8月、防衛省は中国の軍事力拡大に対応するため、前年度に引き続き高水準の防衛費が必要と判断し、2022年度予算の概算要求額を、前年度の要求額の5兆4898億円と同水準の5兆4000億円台とする方針を発表していました。それが今回、5年間総額43兆円(年間8兆円を超える)防衛費にするようにという岸田首相の指示ですから、驚くべき増額だと思います。
 そして、防衛費の大幅な増額や敵基地攻撃能力の保有にも増して驚くのが、防衛費の増額を、首相が防衛相や財務相に指示したという逆転現象です。通常、防衛予算は、防衛省がさまざま状況を踏まえ、要求するものだと思います。部分的には、首相が指示することもあるかもしれませんが、 5年間とういう長期の防衛費を首相が指示するということはかつてなかったことではないかと思います。
 だから私は、「天の声」があったのだと思います。「天の声」は、日米合同委員会や、日米のCIA職員、また、そうした人たちと考え方を共有する人たちからもたらされるアメリカの意向です。したがって、岸田首相を問い詰めても、何も答えは返ってこないだろうと思います。
 また、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設計画を巡り、最高裁は先日、県側の上告を棄却する判決を言い渡しました。この最高裁の判決も、「天の声」があって、どうすることもできないのだろうと思います。
  
 今回は、「エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章」田中高氏編著(明石書店)から、ニカラグアに対し、アメリカがどのように関わってきたのかについて記述された部分を中心に抜萃しました。
 下記の抜粋文には
” ここで一点指摘しておく。ひとつはソモサ王朝の形成に果たしたアメリカの役割である。いうまでもなく国家警備隊の創設からソモサ政権の発足に至るまで、アメリカの意向が強く反映している。
 とか
ロナルド・レーガン元大統領は、コントラ(反政府武装ゲリラ)に格別の愛着を持っていた。なんとなれば彼はかつて「自分もコントラである」と公言してはばからなかったからである。レーガン政権は発足直後から旧ソモサ体制時代の国家警備隊のメンバーを中心とするコントラに秘密援助を開始した。1984年までに支出した金額は1億ドルを超えると報じられた。85年7月には、議会で侃々諤々の議論の末、2700万ドルの人道援助がコントラに支出されることが正式に承認された。
 というような記述があります。アメリカは、ニカラグアの独裁政権発足を支援したり、革命後のサンディニスタ政権転覆のために、コントラ(反政府武装ゲリラ)を援助したのです。
 アメリカが、他国に対し、このような法を無視した影響力を行使する国であることを踏まえて、ウクライナ戦争をとらえ、日本の問題を考える必要がある、と私は思います。
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                  34 サンディーノ将軍の抵抗運動

 革命政権時代(1979~90年)、アウグスト・セサール・サンディーノ(Augusto Cesar Sandino)は文字通りニカラグアの英雄であった。マングアだけでなく国中の町の至るところに、彼の肖像画が掲げられ、彼の思想を伝えるおびただしい数のパンフレットや書籍が、町中に置かれてあった。政権政党であったサンディニスタ民族解放戦線党(FSLN)の名称はもちろん彼の名前に由来しているし、サンディーノの思想を研究し実践する目的で設立された国立のサンディーノ研究所なる組織もあった。サンディーノとはいったいどのような人物で、どのようなことを成し遂げたのか、まずは時系列で彼の人生を紹介することにしたい。
 ・・・
メキシコから帰国したサンディーノは「アメリカ帝国主義打倒」を掲げて、民族解放解放運動に身を投じていくが、その思想はマルクス・レーニン主義を教条的に受け入れたものではなくて、すぐれてニカラグアの精神風土、土着習慣、この国のを取り巻く国際環境に根ざしたものであった。ニカラグアという小国(=善)に侵攻したアメリカという大国(=悪)が、「善対悪」という素朴な二元論で説明された。サンディーノはまたこの二元論によって、封建的な大土地所有制がもたらす富の偏在(=悪)にも着目して、土地解放(=善)を唱えた。彼は当時の知識人や活動家が好んで用いたコミンテルンの難解な用語を使うことを避けて、宗教的な用語や、わかり易い平易な言葉で農民、労働者、学生たちに語りかけたのである。
 サンディーノが活躍するのは1912年~25年、26年~33年の二度にわたりニカラグアに侵攻してきたアメリカ海兵隊との戦闘である。当時自由派(=党)と保守派(=党)の対立が続き、国内は混乱していた。1923年から32年までの10年間に、6人の大統領が乱立している。そのなかでサンディーノとの関係が深かったのは、自由党のホセ・マリア・モンカーダ(Jose Maria Moncada 1929~1932年大統領)である。
 1926年12月に海兵隊が大西洋岸のブルーフィールズ、プエルト・カベサス、リオ・グランデなどを占領し、「中立地帯」を宣言したことなどで、サンディーノ、モンカーダ、ファン・パウディスタ・サカサ(Juan Bautista Sacasa 1933~36年大統領)などの主だった自由党のメンバーはこれに対抗すべく武装蜂起する。1927年5月、アメリカの特使ヘンリー・スチムソン(Henry・L・Stimson 1929~33年国務長官)の仲介で、モンカーダと保守派のアドルフォ・ディアス(Adolfo Diaz 1911~16年大統領)との間で休戦協定が結ばれる。モンカーダはこれを受けて、北部の山岳地帯でゲリラ戦を続けていたサンディーノに、休戦すべく電報を送る。これへのサンディーノの返事が、その後たびたび引用されることになる、次のようなものであった。
「こうとなったからには、私のもとにきて、私を武装解除なさい。私はここであなたを待ちます。私は如何なる条件にも譲歩しません。私は自分を売ることもしないし、降伏もしない。(no me rindo)。私は自分の義務を果たし、私の抵抗は将来、血をもって記録されるでしょう」。この言葉のなかでスペイン語で紹介した部分が、革命政権時代に、アメリカとの内戦を鼓舞するスローガンによく利用されたのである。
 サンディーノ率いるゲリラ部隊(正式名称ニカラグア民族独立防衛隊、サンディーノは将軍の肩書を好んだ)は3000~6000人の兵士を率いて海兵隊との戦闘に善戦した。またメキシコやエルサルバドル、アルゼンチン、ドミニカ共和国、コスタリカ、コロンビア、ベネズエラなどからの参加者もいて、ラテンアメリカの反米抵抗運動のはしりという性格も持ち合わせた。参加者にはエルサルバドル、の著名な革命家である、ファランド・マルティ(Farabundo Marti)の名前もある。
 このようなサンディーノのゲリラ戦に手を焼いたアメリカ政府は、、ルーズベルト大統領(在1933~45年)の善隣友好政策という新たな外交要素も加わり、1933年、海兵隊の撤退を決める。同時に国家警察隊を創設し、この司令官に親米的なアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(Aastasio Somosa Garcia)を置いた。他方1932年の選挙で大統領に選出されたサカサは翌33年1月、海兵隊の撤退を条件としたサンディーノとの和平合意に成功し、3週間後にはゲリラ部隊の武装解除が行われた。
 ところが、34年2月、サンディーノは彼の弟ソクラテスと部下の将軍2名とともいにソモサ支配下の国家警備隊の手によって暗殺されてしまう。彼の遺体の行方は現在もあきらかにされていない。かくしてニカラグアの悲劇的な英雄の足跡の歴史が、半世紀後にはアメリカのレーガン政権とサンディニスタ革命政府との間で繰り返されることとなったのである。
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                 35 ソモサ独裁の誕生と崩壊

 ニカラグアにはかつて、三人のソモサ大統領がいた。それはアナスタシオ・ソモサ・ガルシア( Aastasio Somosa Garcia ニックネームはタチョTacho。1896年生1956年没。1937~47年、1951~56年の二度にわたり大統領)、ルイス・ソモサ・デバイレ(Luis Somoza Debayle 1922生、67年没。1956年~63年大統領。タチョの長男)、アナスタシオ・ソモサ・デバイレ( Aastasio Somoza Debayle ニックネームはタチート Tachito 1925年生、80年没。1967年~72年、1974~79年の二度にわたり大統領。タチョの次男)の三人である。
 ラテンアメリカの政治史には、長期にわたる独裁政権の例はいくつもある。ドミニカ共和国で31年間君臨した、トルヒヨ、(Rafael Leonidas Trujillo Molina)大統領の例はあまりにも有名である。しかしそれでも、親子三代で42年間に及ぶソモサ王朝の独裁の記録にはかなわない。そもそもこのような王朝はどのようなメカニズムでスタートし維持されたのだろうか。
 王朝の土台を築いたのはタチョである。彼はマナグアとグラナダの中間にある町サンマルコスで生まれた。父親は保守党の国会議員で、中規模のコーヒー園主だった。彼の人生を大きく変えたのは、アメリカでの生活だった。フィラデルフィアにある実業学校を卒業したことで、当時のニカラグア人には珍しいバイリンガルとなった。さらに彼は熱烈なアメリカ文化の信奉者で、ニカラグアの内政介入に強い関心を持っていたアメリカの歴代政権と利害を共有することになった。加えてニカラグアの名門で自由派のデバイレ家の娘(サルバドーラ・デバイレ)と結婚したことで、タチョの社会的なステータスは上昇した。
 1926年に保守党のディアス政権を武力で倒した功績で、タチョは将軍の肩書を授与される。モンカーダ政権時代(1929~32年)には外務次官の要職につく。この時代に彼の卓越した英語能力が遺憾なく発揮された。とくに後日国務長官に就任するスティムソンはタチョをかなり評価していたようで、強力にバックアップした。アメリカは海兵隊の駐留に反対するサンディーノの反米ゲリラ闘争のエスカレートに頭を悩ませていた。そこで海兵隊の撤退と引き換えに、国家警備隊の創設を画策した。直接統治から間接統治への転換を選択したわけである。そしてその間接統治の要になる役割を、タチョが担うことになる。
  国家警備隊という暴力装置をコントロール下においた彼は自由党(PLN)から立候補し、形ばかりの選挙を経て、1937年大統領に就任する。反対政党をたくみに操りあるいは弾圧して、事実上の一党独裁体制を築いていく。さらに貪欲に利権を手中にしながら、第二次世界大戦中のアメリカからの各種援助やドイツ人、イタリア人の財産を没収して私腹を肥やした。タチョは1956年、レオンでニカラグア人青年の凶弾で殺害された。この時彼の遺産は、1億ドルから1億5000万ドルにのぼると推定された。ソモサファミリーはニカラグアで最大の地主となり、食肉加工、サトウキビ生産、セメント会社、ミルク加工、繊維、政府系金融機関、公共交通機関などの事実上のオーナーとなって行った。こうした国家の私物化(小型家産国家の成立)が後に国民の憎しみの対象となり、1979年の社会主義革命へと結実していく。
 ここで一点指摘しておく。ひとつはソモサ王朝の形成に果たしたアメリカの役割である。いうまでもなく国家警備隊の創設からソモサ政権の発足に至るまで、アメリカの意向が強く反映している。しかし第二次世界大戦前後にかけてアメリカが独裁政権を支援し擁護したのはニカラグアだけではなかった。エルサルバドルでは、伝説なマクシミリアーノ・エルナンデス・マリティネス政権が1931年から44年まで続いている。グアテマラではホルヘ・ウビコ・カスタニェダ政権が1931年から44年まで続く。ホンジュラスでも11933年から49年までティブルシオ・カリアス・アンディノ政権が続いた。いずれも軍人出身で将軍の肩書を持つ独裁者たちである。
 1929年の大恐慌の出現から第二次世界大戦までの間、中米諸国はアメリカの経済圏に組み込まれながら、従属的な発展のパターンを進んでいく。そのプロセスで、アメリカにとっては中米諸国の「政治的安定」が何よりも大事だった。たとえ民主的な手続きを経なくても、継続して政権を維持し、アメリカの権益と外交政策に従順な態度を示せば、独裁政権でもこれを支持したのである。このあたりのことは、かつてフランクリン・ルーズベルトがタチョを「あの男はろくでもない輩だ。でも「われわれの側のろくでもない輩だ」と評したことに端的に表れている。
 問題はニカラグアの場合この独裁政権が、異例の長さにわたって続いたことであろう。1960年代から1970年代にかけては、都市の中間層の経済力がかなり伸びてきて、ソモサ王朝への反対も強力なものになっていく。王朝は盤石とはいえなかった。それでも何とか79年まで持ちこたえた。その原因はどこにあるのか。このことについてもう少し考えてみる前に、タチョの後継者となった二人の息子の末路をたどることにしたい。
 長男ルイスはソモサファミリーのなかでももっとも穏健な思想をもっていたようである。アメリカで教育を受けた後帰国すると、弟のタチートとは対照的に軍務には関心を示さずに、政治家の道を歩んだ。PLNの国会議員の後に国会議長となり、父が暗殺された後に大統領に就任した。ソモサ王朝批判への懐柔策ではあったが住宅建設、社会保障制度、土地改革などにも一定の成果をあげている。さらに言論の自由や反政府的活動家の釈放も実施した。ルイスの目指した体制は、メキシコ型の一党独裁体制だった。形式的にはソモサ一族ではなくて、PLNによる統治をめざした。そうすることによって、世論の批判をかわそうとした。この点で国家警備隊の実権を握り、力による支配に強い関心を寄せていたタチートと鋭く対立した。1963年、ルイスは45歳の若さで心臓発作により急逝した。
 ソモサ王朝の最後を締めくくるのは次男のタチートである。彼はアメリカの名門士官学校ウエスト・ポイントを卒業後、ニカラグアに帰国すると同時に国家警備隊に入隊。大統領だった父の意向を受けて、短い間にトップにのぼり詰めていく。タチートは父と同じく、ソモサ王朝の権力の源泉が武力=国家警備隊にあることをよく認識していたようである。ニカラグアには、先進国にあるような上意下達の近代的な組織は(教会を除いて)ほとんど存在しない。国家警備隊はある意味でじつによく整備された組織であった。軍隊ばかりでなく、諜報・治安機関であった。厚遇を条件に兵士の相互監視を厳しくし、密告を奨励した。ソモサに「批判的な隊員はすぐに逮捕され厳罰をくわえられた。その結果ソモサ体制への忠誠度は高かったのである。
 タチートは1967年、兄の死を受けて大統領に就任する。ルイスとタチートの両方の時代を知るニカラグア人の多くは、弟(タチート)の時代になってから独裁体制がひどくなったという感想を述べる。反政府勢力への容赦のない弾圧が行われ、人権侵害について国際的にも糾弾された。タチート自身は対立する政党の保守党に国会の議席の40%を配分したり、アメリカとの友好関係を維持しようと腐心する。こうしたなかで1972年のマナグア大地震が、この国の形そものもを大きく変えてしまった。首都は消滅してしまった。この時のタチートの行動が、国民の根強い不信感、憎悪を生むことになる。国際社会から送られてきた善意の救援物資を、タチート(=国家警備隊)が横領したという噂がマナグアだけではなく世界中にひろがった。加えてマナグア郊外の自分の所有地に、官庁を新たに建設したりした。はなはだしい国家の私物化が大地震を境に進んでしまった。
 かくして1979年7月のサンディニスタ革命を迎えることとなる。タチートは一時期家族とともにマイアミに避難するが、その後パラグアイに亡命し、80年9月に暗殺された。ソモサ王朝がなぜかくも長期間にわたって続いたかについては、さまざまな要因があると思われる。政治的には最大の反政府勢力であった保守党が、ソモサに抱きこまれてしまったこと。あるいはアメリカも結局、ソモサ一族に決定的な引導を渡すまでの役割は果たそうとしなかったこと、なども要因のひとつではあろう。
 ただ直接的な有力な要因は、なんといっても国家警備隊という諜報・治安組織を家族で支配していたことではなかろうか。権力のよりどころをどこに求めるのか、ということは民主的な制度のもとであれば、民意、すなわち自由かつ公正な選挙で選出された代表議員による多数決による議決である。それを支えるのは、三権分立の大原則であろう。しかしニカラグアではそうしたプロセスは発達しなかった。私兵化した軍隊が国家装置の中心に置かれ、反政府勢力への弾圧を行った。暴力がソモサ王朝を継続させた、大きな要因のひとつであろう。そしてソモサ一族はこのことを(他の中米のどの独裁者よりも)よく認識していたのである。
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                 38 レーガン大統領とコントラ

 ロナルド・レーガン元大統領(Ronald Wilson Reagan 1981~1989年在任)は、コントラ(反政府武装ゲリラ)に格別の愛着を持っていた。なんとなれば彼はかつて「自分もコントラである」と公言してはばからなかったからである。レーガン政権は発足直後から旧ソモサ体制時代の国家警備隊のメンバーを中心とするコントラに秘密援助を開始した。1984年までに支出した金額は1億ドルを超えると報じられた。85年7月には、議会で侃々諤々の議論の末、2700万ドルの人道援助がコントラに支出されることが正式に承認された。
 よくよく考えてみると人道援助とはいえ、アメリカという超大国が政府として公式に武装ゲリラに資金提供するのだから、かなりきわどい話である。しかも対コントラ援助はさらにエスカレートして、86年6月には援助額は1億ドルに跳ね上がった。このうち7000万ドルが軍事援助で残りの3000万ドルは食料・衣料・医薬品などの人道援助とされた。この時も議会でアメリカの民主主義の根本にまでさかのぼるような、原理原則論が闘わされたが、結局承認された。そしてなぜか当時、一般世論や議員たちは高尚な(?)議論に明け暮れていたためか、この費用を誰がどのようにして捻出するのか、という基本的な問いを発することはなかった。これが後述するように、イラン・コントラスキャンダルを生み、レーガン政権は窮地に立たされることになる。コントラについてもう少しくわしく説明すると、これは統一した組織というよりも、おおよそ三つのグループの寄せ集めであった。最大の規模を誇っていたのは、ホンジュラス領内に秘密基地を有していたFDN(ニカラグア民主軍)である。総兵力は1万4000人くらいで、旧ソモサ時代の国家警備隊のメンバーが主力であった。創設にはアルゼンチンの軍事顧問やCIA(アメリカ中央情報局)の軍事援助があった。組織の主導権を握っていたのは、政治面では実業家出身のアドルフォ・カレロ(Adolfo Calero)、軍事面ではエンリケ・ベルムデス(Enrique Berumudes 国家警備隊元大佐)という二人の人物であった。
 さらにARDE(民主革命同盟)というゲリラ組織が82年9月に結成された。ARDEの主たる活動拠点はコスタリカとニカラグアの国境地帯であった。兵力はFDNよりもずっと少なくて、1000人から2000人程度であった。ARDEが有名になったのは、組織の中心人物がエデン・パストーラ(Eden Pastora)だったからである。パストーラはサンディニスタ革命の英雄であり、78年8月に国家宮殿を占拠して、ソモサ体制下の閣僚や議員など多数の人質をとり、ソモサ政権に痛手を負わせた作戦の指揮官であった。革命後は国防大臣のポストのついていた。しかし路線上の対立から政権を離れ、こともあろうに反革命武装闘争に身を投じた。非常に個性が強く、剛直でもあったが、理想家肌でカリスマ性も備えていて、国民に人気があった。パストーラの強い個性の影響もあり、ARDEとFDNとの連携はあまりよくなかった。
コントラを構成していた三番目のグループは、大西洋岸に居住していたミスキートと総称される先住民族であった。もともと大西洋岸のセラヤ地区とよばれる一帯は、1678年から1894年までイギリスの保護下に置かれていて、人種的にも文化的にも、多数派であるスペイン系の国民とは異なる性格を持っている。言語も土着化したクレオール語などで、中央集権的な国家建設を目指していたサンディニスタ政権の路線とは鋭く対立した。彼らはKISAN、MISURASATAなどの独自の反革命ゲリラ組織を結成した。それぞれ1000人くらいの戦闘員を抱えていた。前者はホンジュラスに、後者はコスタリカとニカラグアとの国境地帯に本拠地を置いていた。
 コントラはだいたいこの三つのグループで構成されていたが、上述のようにその目的あるいは目標はそれぞれかなり異なっていた。FDNはいってみれば旧ソモサ派の残党の集まりだし、ARDEはパストーラの個人的な手勢とという趣である。ミスキートは問題の根が深くて、現在でも大西洋岸の自治の動きと中央政府とは微妙な関係が続いている。(大西洋岸は独自の議会を持っていて、自治権もある程度は認められている。
 コントラの最大公約数が、反革命政権ということだけで、アメリカとの利害は一致した。アメリカにとっては、革命政府を打倒することが、最優先事項となった。コントラ法案可決へのなみなみならぬ意気込みが、このことを物語っていた。しかしここに罠が潜んでいた。イラン・コントラ事件である。アメリカと敵対関係にあるイランに対して、武器商人を通して秘密裏のうちに武器を売却し、その利益をコントラやイスラエルへの秘密援助に充てるというスキャンダルを、政府が正式に認めたのは86年11月のことである。その後1年余りにわたり上院・下院の合同調査委員会が設置され、政界を揺るがせる事件となった。4ヶ月間で32人の証人が証言台に立ち、テレビ中継された。この渦の中で、国家安全保障担当の大統領補佐官であったロバート・マッカーファレン(RobertC・McFarlane)
が自殺するという痛ましい出来事も起きた。
 調査のプロセスで明らかになったのは、ジョージ・シュルツ(George P.Shulz)国務長官や国防長官であったカスパー・ワインバーカー(Casuper Weinberger)など政権の中枢にいた人々が反対したにもかかわらず、国家安全保障会議の若手スタッフの独断専行で、秘密取り引きが実行に移されたということである。その中心人物は海兵隊のオリバー・ノース(Oliber North)中佐であった。彼は証言台に立ち、武器取り引きにかかわったことを率直に認めた。のみならず、そのことがアメリカの国益になるという信念を持っていたと証言した。アメリカ人がレバノンで人質となる事件が起きていて、武器売却はその見返りであるという主張もされたし、武器を売却した相手が、イラン内の対米穏健派で、彼らの発言力を増すために実行した、という説明もなされた。しかしながら秘密取り引き自体が、アメリカの民主主義の伝統の根幹を揺さぶるものであるという事実は否定しようもなく、レーガン大統領は厳しく非難された。
 ちなみにノース中佐は、アメリカの一部保守派から英雄視された。1994年にヴァージニア州の上院議員選挙に共和党から立候補したが落選した。ラジオのパーソナリティやコラムニストとしても活動している。一方コントラの活動はこの事件以後、かなりの組織上の改編を余儀なくされた。三つのグループは国民抵抗軍(RN)という統一組織に組み替えられた。また指導部も交代した。
 ニカラグア内戦はもはや、実際に従軍したり家族が犠牲となった人びとを除いては、歴史上の出来事になってしまったようだ。大多数の日本人には、いまや縁もゆかりもない史実なのではないかと思う。もともとそのようなことがまるで存在しなかったかのように。とはいえたとえば映画の世界では、まだまだテーマになっている。イギリス人の映画監督で社会派の作品で有名なケン・ローチ(Ken Loach)は1996年制作の『カルラの歌(Carla’song)』のなかで、内戦中のニカラグアの様子を見事に再現している。マナグアのバスターミナルのセットの出来具合などは、本当に当時の様子そのままである。グラスゴーでバスの運転手をしているジョージが偶然ニカラグア人女性のカルラに出会い、二人はニカラグアを訪問する。そしてカルラの元恋人アントニオの変わり果てた姿に出会う、というストーリーである。内戦時代のニカラグアの雰囲気をつかむには大変よい内容だと思う。ビデオにもなっている。一見の価値がありである。

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