安倍総理は8月に「戦後70年の談話」を発表するという。そして、「(歴代政権が)重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権として70年を迎えてどう考えているのかという観点から談話を出したい」と述べた。過去の植民地支配と侵略についても「痛切な反省と心からのおわび」を表明した村山富市首相の戦後50年談話の文言をそのまま用いることに否定的な考えを明らかにしている。
まさに不都合な歴史の修正につながるものではないかと心配である。
下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「陳光秀さんの体験」と題された部分を抜粋したものである。第Ⅱ部現地調査の記録「五人の体験史」の部分を担当した編者の一人、本多勝一氏は、この時の南京取材で6人から聞き取りをしたが、そのうち5人の証言は法廷での「反対尋問」に耐えうる証言と判断し、「ここに報告します」と書いている。「陳光秀さんの体験」を読んで、その意味がわかるような気がした。ただ、「見た」とか「聞いた」というような単純な証言ではなく、自分の家族や親戚、また近所の人たちがおかれた状況や行動を細かく証言しているからである。こうした証言を個人的に創作することは極めて困難であろうし、創作の場合、関係者にあたればすぐに創作の事実がわかってしまうからである。
また、今見逃せないのが、イスラム国による後藤健二さんと湯川遥菜さんの殺害に関して、安倍総理が「テロリストたちを絶対に許さない」「その罪を償わさせる」「どれだけ時間がかかろうとも、国際社会と連携して犯人を追い詰め、法の裁きにかける強い決意だ」などと強気なコメントをしていることである。日本の植民地支配や侵略の事実には目を瞑り、こうしたコメントを発表することはいかがなものかと思う。
イスラム国は、「日本政府へのメッセージ」ではっきりと安倍総理を名指しし、
”日本政府へ。おまえたちは邪悪な有志国連合の愚かな参加国と同じように、われわれがアラー(神)の恵みによって権威と力を備え、おまえたちの血に飢えた軍隊を持つ「イスラム国」だということを理解していない。
アベよ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺りくする。日本にとっての悪夢が始まるのだ。”
と言っていることなど、安倍総理は意に介さないようである。ふたりの殺害は残酷極まりない行為であるが、そこに至る過程を無視してよいものであろうか、と思う。イスラム国に結集する人たちは、生まれときからテロリストだとでも言うのだろうか。私は、下記のような指摘を目にして、考えさせられ、過去の歴史を無視して進もうとする安倍総理の「未来志向」とやらが、いよいよ危ない気がしてならないのである。
・第1次世界大戦後、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」によってアラブ地域を分割したことが、今も尾を引いている。イギリスやフランスの国益を反映させるかたちで、イスラム地域の実態にそぐわない秩序づくりをしたことが、こうしたテロを生む遠因といえる。
・第2次世界大戦後、欧米がパレスチナにおけるユダヤ人国家「イスラエル」の建設を支持したことは、アラブ人に様々な犠牲と混乱を強いることになった。
・全ては2003年の米ブッシュ政権のイラク攻撃から始まった。今イスラム国を統治しているのは、イラクのフセイン政権を支えた官僚のプロである。
・昨年、イスラエル軍がパレスチナ自治区を激しく空爆するとともに、ガザ地区へ侵攻した。名目はハマスやイスラム聖戦のロケット弾攻撃に対する反撃であるというが、イスラエル軍は、F-16戦闘機やアパッチ攻撃ヘリなど、アメリカから最新兵器を導入し、圧倒的な戦力を利用して攻撃した。ガザ地区のみで2158人以上の死者をもたらしたという。学校や病院まで爆撃し、子どもたちも多数犠牲になった。イスラエル人が一方的にハマスやイスラム聖戦の暴力にさらされてきたのでやむを得ないとする考え方があるが、占領という暴力の中で、大勢のパレスチナ人が差別され殺害されてきた事実は無視されている。
・イスラエルは『武器密輸やテロのためのトンネルを破壊している』と主張してるが、実態は無差別で徹底的な破壊であった。ガザ東部のシュジャイヤ地区では、住民が退避しきれていないのに空爆や砲撃が繰り返され、何百軒もの家々が全壊した。瓦礫の下に遺体が埋まるという状況になった。最初から子供をターゲットにしたとしか思えない攻撃も繰り返された。そもそも東京23区の半分ほどの面積のガザは人の出入りが厳しく規制され、難民キャンプも飽和状態。避難するにも避難する場所がないのだ。だから、大勢の人たちが死んだ。
・アフガンのタリバーンは遠くから見れば危険なイスラム原理主義かも知れないが、近くで個々を見れば飢えた孤児である。
でも、安倍総理は、日本人ふたりがイスラム国に拘束され身代金を要求されている最中にイスラエルに行き、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦いに取り組む」とイスラエルとの連携を発表し、「イスラム国と戦う国々を支援する」と宣言した。そして、ふたりが殺害された後、海外では安倍総理の発言が 「Japan:We will never, never forgive' ISIS」などと繰り返し報道されている。そうした安倍総理の姿勢は、日本国憲法の精神に反するものであると思う。
後藤健二氏も「対テロ戦争」などというような武力による解決など求めてはいなかったはずである。日本は、イスラム国空爆を繰り返すアメリカを中心とした有志連合などに同調することなく、日本国憲法の精神に則り、毅然として平和的解決を追及するべきだと思う。それが、国際社会における日本の信頼を高め、中東の親日的感情を取り戻すことにつながると思うのである。
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郊外農村での集団虐殺と強姦
──陳光秀さんの体験──
南京市から東へバスで30分ほどの許巷村(現在の西郷村)に、当時20歳(数え齢、以下同)の陳光秀さんは住んでいた。55~56歳だった農民の父をはじめとする家族は次の9人である。
祖父(父系)・父・母・当人・弟(16)・兄夫婦・姪(メイ、兄夫婦の娘。7~8歳)・妹。
ほかに姉もいたが、幼いうちから童養媳(トンャンシー)として近くの他家に嫁いでいた。
この村へ日本兵が初めて現れたのは、旧暦11月8日(新暦12月10日)の夜明けである。陳光秀さんがまだ寝ていたとき、親戚の青年がかけこんできて叫んだ。──
「二嬸(アーシェー)、二叔給打死丁!(アーシューケイタスーラ)(おばさん、おじさんが殺された!)」
母がとびだしていった。光秀さんは寝台の下にかくれた。父は夜明け早々に農作業場へ牛の餌の草はこびに行っていたのだ。兄はこのときどこかへ出かけて留守だった。光秀さんはずっとかくれていたので現場を見ることができなかったが、このとき次のような事件が起きたことを母から聞いた。
父が草はこびに行った農作業場は、数軒ほど離れた家の近くにあり、脱穀などの収穫作業に主として使われていた。ここで両脇に草束をかかえた父が歩き出したところへ、一人の日本兵が中国人の青年をつれて現れた。この兵隊は通信兵らしく、このとき電話線を取り扱っていたようだ。青年は24~25歳の顔見知りで、近くの村から徴発されて手伝わされているのだった。
日本兵が父になにか日本語で言った。わからないので黙っていると、日本兵はいきなりピストルで撃った。弾が左腕の外側から斜めに内側へと貫通したので、父は2~3歩よろめいてから尻もちをつくような格好になった。そこへさらに日本兵が近づいて突き倒し、胸を撃って即死させた。日本兵はそのまま行ってしまった。光秀さんの家に急を知らせた親戚の青年は、この農作業場のすぐそばの家の住人である。
もう安全と知らされてから光秀さんが農作業場へ行ってみたとき、父はすでに柩に入れられていた。殺されたときの様子は、日本兵に徴発されてきた青年から母が聞いたものだった。
こんなことでは安心して村にはいられないので、若い女性たちだけでもすぐに山へ避難することになった。光秀さんの家では、当人と妹と嫂(アニヨメ)が避難する女性たちの群れに加わった。嫁いでいた姉も一緒だ。柩の父の姿はほんの一瞥(イチベツ)しただけのあわただしい出発だった。避難先の山までは、村から2時間あまり歩いた。
ところがあくる日(12月11日になって、妊娠していた嫂が産気づいた。避難した女性群のなかには村の産婆さんもいたので、光秀さんと姉も手伝って計4人で500メートルほど離れた場所へ移った。ここで出産したのだが、当然ながら生まれたての赤ん坊は大声で泣く。日本兵が聞きつけて山にはいってくれば、村の若い女性たち全員に強姦や殺人の被害がおよぶ。(このときの様子を語る光秀さんは、声を押しころしたヒソヒソ声で、のどにつかえるような苦しげな告白だった。)本当にかわいそうだったけれど、嬰児は殺すことにした。みんなが助かるためには、ほかにどうしようもなかった。そばにあった「この机より大きな石」(と光秀さんはお茶のセットをのせた小卓を示す)の下へ、頭から下向きに押し込んで息をとめた。そのまま上に小石を積みあげ、死体はすっかりかぶせて元の避難所へもどった。
女性たちが山から村へ帰ったのは、日本軍の南京城占領の翌日にあたる14日である。留守中の12日ころ、光秀さんの兄は日本兵に徴発されてどこかへ連行されていた。あくる15日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家を焼かれないし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。
許巷村は200戸ちかくあって、その多くは道路沿いに東西に細長い街村状に並んでいた。16日の午後、村はずれで見張りに出でていた親戚のおじが「日本軍が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男あたちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の道の両側に並んで出むかえた。光秀さんは寝台の下にかくれ、その前に木の肥たご(糞尿を運ぶ桶)を置いた。農家ではこの肥たごを、夜はそのまま便所にしている。こうすれば少しでも兵隊どもを遠ざけると思ったからである。2軒西どなりの家から逃げてきた「石」姓の童養媳(トンャンシー)も一緒に寝台の下へかくれた。
外は騒然となっているが、かくれているので何が起きているのか分からない。しばらくすると、光秀さんの家の戸口の石にすわっていた通称「蘇老太(スーロータイ)」という40歳くらいの女性が、一人の日本兵につかまって家の中へ連れこまれた。(「自分はもう年寄りだから大丈夫と彼女は油断していたのです。当時は40歳ならもう年寄り、50歳なら死んでもいい齢(トシ)でした」と光秀さん。)2~3軒離れた家の蘇仁発の妻である。
その日本兵は、光秀さんのかくれている寝台に蘇おばさんを押し倒した。日本兵の足と皮靴が見える。恐怖のあまり、蘇おばさんは声も出ないようだ。母親も室内にいて、入口ちかくの寝台わきにかくれないでいたので、強姦は母の眼前で行われた。しかし42~43歳の母は白内障であまり見えなかった。寝台のきしむ音だけを光秀さんは聞いた。
日本兵が去っても、寝台の下の2人はそのままかくれていて、夜もそこに寝た。おじが「もう大丈夫」と知らせに来たのは翌日17日の朝だった。その間に村で行われた以下のような惨劇を、虐殺の奇跡的生存者をはじめ多くの村人からきいた。
村人たちが、「歓迎大日本」の旗とともに出迎えたところへ到着した日本軍は、歓迎に応ずるどころか、その旗を奪って近くの積み草にさすと、男たちを並べていろいろ検査した。帽子のあとなどをみて兵隊かどうか調べたらしいのだが、結局は兵役年齢に相当すると勝手に判定された若者が全部選ばれて100人くらいになり、そのなかに弟の陳光東(16)もいた。細長い村の中では比較的西の方の家の者が多かった。
約100人のこの青年たちを、日本軍は少し離れた道路ぞいの田んぼに連行した。殺されるのではないかと老人たちが心配してあとをついていった。すると日本軍は、ブタやニワトリの徴発に応ずるようにと、それぞれの家へ追い返した。
田んぼに連行された青年たちは、たがいに向きあってひざまずく格好で二列に並ばされた。この田んぼは陳家のもので、約0.8ムー(50平方メートル弱)のせまい面積だった。青年たちの列の一部は、L字状に道路ぎわの土手ぞいに並ばされた。そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺殺した。死にきれず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。
この集団の中に、無傷で生きのびた例が一人だけいた。炭鉱労働者の崔義財である。青年らの列が一斉に刺されたとき、たまたま崔は刺されなかったのだが、刺された他の青年らと一緒に倒れ、まわりの血しぶきを浴びたまま死んだふりをしていて気づかれなかったのだ。ほかに劉慶志と時先の2人は、刺されたけれど急所をはずれていたため、あとで手当をして助かった。100人ほどのうち生存者はこの3人だけだが、いずれもこの数年内に老齢で亡くなった。
集団虐殺が行われたのは午後4時ごろだった。午後5時ころになって「沈」の妻(35~36歳)は夫のことが心配になり、様子を見るため虐殺現場のそばの「史」家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫も弟も殺されて、彼女は声をあげて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見付け、虐殺現場に近い池のそばへ連行し、強姦してから殺した。
さきに陳光秀さんの寝台で強姦された蘇おばさんの家には、15~16歳になる童養娘(トンヤンシー)がいた。この少女は3人の日本兵につかまって、光秀さんの伯父(母の兄)・時魏官の家へ連行され、輪姦されて下腹部がはれあがり、ひどい出血でたてなくなった。
光秀さんの嫂(アニヨメ)は、山中での不幸な出産事件のあと避難先から帰ったが、産後の病状が悪くて寝ていた。日本兵は彼女も強姦しようとしたが、下がそんな状態とわかってあきらめた。しかしこの嫂は一週間ほどのちに死んだ。
光秀さんの母は9人の子供を産んでいたが、男の子ばかり4人が死に、育った5人のうち光東は最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東も夫も殺されたため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭にはれものもでき、翌年の春死んだ。
集団虐殺や強姦などで地獄絵と化した許巷村は、これでは今後どうなるか見当もつかないので、若い女性はみんな避難することになった。あくる17日、光秀さんも妹をつれて、棲霞というところにアメリカ人がつくった避難所へ、ほかの30人ほどの女性たちとともに行った。この日は光秀さんの誕生日(満19歳)であった。
陳光秀さんは以上のような体験を語った。
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