真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 郭立言さんの証言

2015年02月08日 | 国際・政治

 2015年1月31日、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」という言葉で有名な、元ドイツ連邦共和国大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が亡くなった。私は、安倍総理に、このヴァイツゼッカー氏の言葉の意味をしっかりかみしめてもらいたいと思う。安倍総理の「未来志向」とやらは、この言葉の意味を無視して、不都合な過去をなかったことにしようとするものではないかと思うからである。私たち日本人は、いろいろな意味で「過去に眼を閉ざ」してはならないと思うのである。

 戦後世代はもちろん、直接戦争に関わらなかった人間は、戦時中に南京でいったい何があったのか知りたいと思っても、南京攻略戦で虐殺や略奪に係わった元日本兵の多くが沈黙を守ってきたために、戦後70年が経過する現在も、その実態を正しく認識しているとは言えない。そして、その歴史的意味が国民に共有されているとは言えない状況にある。
 しかしながら、関係者がその記憶を封印したまま亡くなり、当時を知る人たちがどんどん少なくなる中で、懸命にそうした記憶を甦らせ、記録し、公にしようとする取り組みが進められている。大事なことだと思う。

 口を閉ざす元日本兵や、不都合な過去を否定したい関係者の気持ちも分からないではない。でも、南京で虐殺や略奪があったことは否定できない事実だと思う。下記のような中国側被害証言は少なくないし、そうした中国側被害証言と合致する日本側の文書資料や元日本兵の証言も、数は少ないが相当数集められている。日本の将来を心配して語りはじめた元日本兵や、熱心に聞き書きに取り組む戦後世代の努力に報いて、記憶の呼び戻しに苦しみつつ語る元日本兵、当時の事実を知る関係者も出てきているからである。

 下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「郭立言さんの体験」と題された部分を抜粋したものであるが、文章の中に「18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ…」とある。その「中島部隊」とは、南京陥落後、南京城内の掃討にあたった中島今朝吾師団長が率いた第16師団のことであろう。
 
 そしてその中島今朝吾師団長の日記に「捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム、時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ」とか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ…」とか、「後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル」というような記述がある〔437 捕虜(俘虜) 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍NO1 参照〕。

 第16師団(中島部隊)は投降してきた中国兵を捕虜とはせず、国際法に反し殺害していたということであろう。
 特に、下記証言にも出てくる、「草鞋峡」における虐殺は、様々な立場の人が語っている。だから、 「今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています」というような主張は、不都合な証言や資料を無視するもので、国際的には通用しないのである。
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                    中国人生存者の証言
 郭立言さんの証言

 郭立言さんは、南京事件当時、21歳。中学を卒業後小学校の教師をしたことがあるが、日本軍が南京に来たころは、学芸中学の事務主任の仕事をしていた。住居は中華門内の本匠(大工)町にあり、家族は両親と男ばかりの兄弟6人であった。父は50歳過ぎで裁判所の書記、長兄は23歳で電気工、次男は郭さん、三男の弟は18歳で、肉屋に働いており、あと3人の弟のうち2人は小学生、末の弟は未就学児であった。

 郭さんは、現在71歳。すでに定年となり、南京市平北路紅旗新村10憧1号に住んでいる。細面の顔は色つやもよく元気そうで、あごの白髪と澄んだ目が印象的である。ひと通り、自分の体験したことを語り終わったとき、「当時を思い出すと、すぐに涙がでる」と言って、目を光らせていた。その体験は難民区の状況と崇善堂の手伝いなどを伝えていて貴重である。(聞き手=笠原十九司、由井正臣)

 1937年12月、南京陥落の数日前(多分、12月7日か8日頃)、日本軍が南京にせまったので、郭さん一家は、父の知り合いをたよって、難民区(国際安全区)内の鼓楼樓病院裏の興皋旅館に避難した。持ち物は布団とわずかな衣類に米だけで、家財道具はいっさい残してきた
。避難した旅館は数百人の人が逃れてきていたが、その中に知人は一人もいなかった。両親と6人のきょうだい、計8人の一家は一部屋で生活していた。

 13日に日本軍が城内を占領すると、建物が焼かれ、銃声が難民区内にまで聞こえてきた。あとで知ったことだが、郭さんたちが住んでいた本匠町一帯の1000戸の家はすべて焼き払われ、残っていた住民はほとんど殺されてしまった。もちろん、郭さんの家も焼かれ、家財道具はいっさい失われていた。

 日本軍が入城してから数日後、5人の日本兵が郭さんたちの避難している旅館にやってきた。彼らは男たちに銃を突きつけ、一人ひとり、頭に軍帽のあとがないかどうか、手のひらに銃を持ったタコがないかどうかを調べ、銃と軍服を捨てて逃げ込んだ一人の国民政府軍の兵士を見つけ出すと、その場で銃殺してしまった。当時、郭さんは頭を短く刈っており、日本兵に銃を突きつけられて兵士かどうかを訊ねられたが、かつて教師をしていて手が白かったので、難をまぬがれた。しかし、恐ろしさのあまり、3日間は食事が喉を通らなかったという。

 それからしばらくして、18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ、兵隊に捕らえられ、南京から40キロも離れた句容まで連行された。その句容で雑役夫として使われていたが、4~5日して逃げ帰ってきた。そこで家族は相談し、兄、郭さん、それにその弟は青年であり、このままここにいるのは危険だということで、3人は寧海路21号の”ガラスの花園”(温室)に身をかくした。そこで十数日身をかくすのだが、その間、こっそり街へでかけて、店からメリケン粉などを買ってきて、「ソ」というパン・ケーキのようなものを焼いて生活していた。

 この温室の向かいが、寧波同郷会館であったが、そこには武器をすてたたくさんの国民政府軍兵士が収容されていた。そこへ十数台のトラックをもって日本軍が乗りつけ、1台に70~80人の中国兵を積んでつれ去った。これらの兵士は、上新河から草鞋峡につれていかれ、各グループが並ばされて銃殺されたという。

 またここで郭さんは、14歳~16歳ぐらいの女の子が6人の日本兵に暴行されるのを目撃した。女の子は歩けなくなってしまったが、両親は娘が暴行される傍で涙を流す以外に方法はなかった。
 もうひとつ郭さんが見たのは、清涼山虎踞にあった二つの大きな「万人塚」である。それは郭さんの家の墓地のすぐ近くで、山のように虐殺された死体がつまれていた。

 その後、郭さんは人の紹介で国際安全区(難民区)の仕事を手伝うようになった。安全区はアメリカ人など、外国人が主となって働いていたが、その「国際救済委員会」の事務所は寧波路二号にあり、スパーリングという人がいたのを覚えている。そこでの仕事は、郭さんは若かったのでお茶を売ったり、水を売ったりする雑用であり、暴行を受けた人たちの面倒をみたりした。この仕事は、同胞にたいする同情もあったが、なによりも国際救済委員会の腕章をつけていれば安全であり、自分の命を助けることが第一の目的であった。安全区にある金陵神学院などは、目印として赤い旗をたて、その間を麻紐などで囲っていたが、南京占領後の2ヶ月間ぐらいは日本兵が出没し、名は安全区だったが、実際は「非安全区」であった。城内が平穏になったのは日本軍の憲兵が出るようになってからであった。ほんとうに社会が安定したのは、4,5ヶ月してからであったという。

 その間、郭さんの父は慈善団体の崇善堂の仕事を手伝っていた。父が崇善堂の仕事を手伝うようになったのは、責任者の周一漁と以前からの知り合いで、周にたのまれたからである。父はその仕事を無料で手伝ったが、仕事は4、5ヶ月続いた。崇善堂の行った死体埋葬の数は数万人に及んだという。父がその数を知ったのは、埋葬隊の人びとに賃金を支払う会計の仕事をやっていたからである。

 郭さんの家が焼かれてしまったので、後になって石鼓路にあった周の家にしばらく住まわせてもらっていた。また、当時郭さんは現在の奥さんの陳光秀さんと婚約中であった(陳光秀さんの証言は本ページのひとつ前)。
 郭さんにとって、南京事件の体験は大変ショックで、それ以来、周期的に脳神経がおかしくなり、病院に通っているという。

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