「朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀」萩原遼(文藝春秋)には衝撃的な記述が多い。金日成「すりかえ」説もその一つである。朝鮮戦争時、米軍が北朝鮮から奪取した北朝鮮内部文書をもとに構成され、多くの取材に基づいて書かれているため説得力があるが、にわかには信じがたい記述である。抵抗なく受け入れるためには、私には少々時間が必要であるが、戦争がもたらした欺瞞のひとつなのだろうと思う。戦争とは、かくも醜く、惨たらしく、そして欺瞞に満ちたものなのだということを教えられたような気がした。
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第1章 世紀のすりかえ劇
キム・ソンジュ青年
ソ連の占領政策に使われたのが、ハバロフスクのソ連極東方面軍の下にあった第88旅団特別狙撃旅団にいた朝鮮人隊員キム・ソンジュであった。かれは1941年に日本軍の討伐部隊に追われて満州からソ連領に逃げこんでいらいこの旅団に属し、ソ連軍の大尉であった。
かれは、朝鮮が解放された1ヶ月後の1945年9月ソ連軍の船でひそかに元山を経て平壌に運ばれ、金日成将軍にすりかえられて民衆の前に姿をあらわす。現在の朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席その人である。
・・・
ソ連軍は朝鮮占領をスムーズにおこなうために、その手足となってはたらく朝鮮人指導者を必要とした。36年間も日本の植民地にされて独立を渇望していた朝鮮人民の指導者はなによりも抗日の闘士でなければならなかった。
キム・ソンジュは1912年、北部朝鮮の平安南道大同郡の比較的裕福な小ブルジョアの家庭に生まれ、7歳のとき漢方医であった父親の仕事の都合で郷里をあとにして満州に渡り、中国人のなかで育ち、中国人学校に通い、朝鮮語よりも中国語が堪能であった。1931年、19歳とき、中国共産党に入党、同党の満州省委員会の指導下で抗日遊撃闘争をおこなった。遊撃隊時代には最盛時200人くらいのゲリラ隊員をひきいてたたかった経験もある。だがこれでは中隊長ていどの実績でしかない。新生朝鮮の指導者として押し出すには経歴が貧弱すぎる。
そこで考えつかれたのがすりかえ劇であった。このキム・ソンジュ青年を、シベリアから北満、東満の曠野ににかけて白馬にまたがり長駆して日本軍を打ち破る伝説的な英雄金日成将軍として売りだし、新生朝鮮の首班として占領行政を推進させようと考えた智恵者が平壌のソ連軍司令部にいたのだろう。
88旅団のなかには他にも朝鮮人隊員はなん人もいたのになぜキム・ソンジュがその役を引きあてたのか。かれが満州時代から使っていた仮名がキム・イルソンであった。これは1920年代から朝鮮民衆のあいだに伝説的に語りつがれている抗日の英雄金日成将軍とたまたま音が同じである。漢字をあてると同音異義のため金一星とも金日星とも金一成とも金日成ともなる。そこに目をつけてある種の謀略的詐術が考えつかれたのではないだろうか。
その詐術の背景説明として、朝鮮における”金日成将軍伝説”についてのべておく必要がある。
1910年朝鮮は日本の完全な植民地に転落したが、その5年前の1905年、第二次日韓協約をおしつけた日本はすべての朝鮮軍を武装解除し解散させた。愛国的な軍人の多くは憤然として祖国をあとにし、北満、東満、はてはシベリアにまで根拠地を移して日本軍とのたたかいを続けた。そのなかで1920年代から一人の勇敢な抗日の闘士の名が遠雷のように国内にまできこえてきた。金日成将軍である。苦難に沈む植民地下の民衆にとって、その名は希望であり、光明であった。「いつか、金日成将軍が日本を打ち破って凱旋してくる」という祈りにも似た気持ちで待ち続けた。こうしてひとつの伝説が生まれ、人びとの心に刻まれていった。
金日成将軍とは、かつて実在した抗日の闘士の一人であったし、また複数の闘士の集合名詞でもあった。事実と伝説がないまざって作られたひとつの像であった。それにあやかろうとしてみずからの名をキム・イルソンと称した者もいた。キム・ソンジュ青年もその一人であった。
キム・ソンジュ青年が新生朝鮮の首班に選ばれたもう一つの理由は、1945年までの数年間88旅団でソ連軍人として服務した経験からである。ソ連軍当局者はこの間じっくりと観察する時間をもつことができた。かれは88旅団の第一大隊長をつとめており、スターリンとソ連共産党にたいする忠誠度もすでにためされていた。としも1945年には33歳であり、小まわりのきく若さと体力をもちあわせていた。カンもよくききわけもよかった。ソ連占領軍としては使いやすい存在であったのだ。他の同僚や先輩をさしおいてかれに白羽の矢がたてられた。
歴史の証人・兪成哲(ユ・ソンチョル)氏
・・・
一方、朝鮮民主主義人民共和国は、現在の国家主席の金日成、実はキム・ソンジュが満州からソ連に逃げこんだことも、88旅団にいたことも、ソ連軍の大尉であったことも、さらにソ連船でソ連軍にかかえられて平壌にこっそり運ばれてきたこともすべてひた隠しにしている。
それどころか、逆に史実をねじまげて、1945年8月9日にはついに日本にたいして最終攻撃命令を下し、無敵の関東軍を撃破して祖国を解放し、民衆の歓呼のなかを凱旋した──といっている(1983年、朝鮮労働党中央委員会党歴史研究所編『金日成主席革命活動史』)。
満州に、終始ふみとどまっていたという以上、ハバロフスクの88旅団に勤務中の1942年に生まれた長男のキム・ジョンイル(金正日)も満州で生まれたことにしないとつじつまが合わない。そのため中国と朝鮮の国境にそびえる雄峰白頭山で生まれたことにし、密営のおかれたと称する白頭山の一角を正日峰と名づけ、念のいったことに、ここで生まれたと称してわざわざ丸太小屋までつくり、組織された見学者がひきもきらず訪れるしまつである。
こうした虚偽をあばき、ゆがめられた歴史をただす体験者の証言が、ソ連崩壊の2年ほど前からではじめた。重要なのは兪成哲氏である。氏は1917年、旧ソ連ウズベク共和国タシケント生まれの朝鮮族の三世である。ソ連軍人として88旅団に配属されて金日成のロシア語通訳をつとめた人。解放後、金日成とともに同じソ連船で帰国し平壌に入り、新生の金日成政権を支えた一人である。朝鮮戦争では朝鮮人民軍作戦局長(中将)として、南進計画を立案するなど軍の要職にあったが、1959年金日成の死に瀕する迫害を逃れて、生まれ故郷のタシケントに一家5人で亡命した。
・・・(以下略)
すりかえの日
・・・
さきの兪成哲氏もこのとき会場にいた。かれは平壌入りをして憲兵司令部に配属された。当日は会場の警備をかねながら世論収集とよぶ人心の把握を命じられている。
「私(兪成哲氏)は会場をまわりながら民衆の反応をさぐったのですが、金日成の演説がはじまると、人びとは『にせ者だ』『ロスケの手先だ』『ありゃ子どもじゃないか。何が金日成将軍なもんか』と口ぐちにいいだしたのです。そのまま会場から出て行く人たちもいた。 というのも、かれがあまりにも若すぎるのと、かれの朝鮮語がたどたどしかったからです。」
・・・(以下略)
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第1章 世紀のすりかえ劇
キム・ソンジュ青年
ソ連の占領政策に使われたのが、ハバロフスクのソ連極東方面軍の下にあった第88旅団特別狙撃旅団にいた朝鮮人隊員キム・ソンジュであった。かれは1941年に日本軍の討伐部隊に追われて満州からソ連領に逃げこんでいらいこの旅団に属し、ソ連軍の大尉であった。
かれは、朝鮮が解放された1ヶ月後の1945年9月ソ連軍の船でひそかに元山を経て平壌に運ばれ、金日成将軍にすりかえられて民衆の前に姿をあらわす。現在の朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席その人である。
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ソ連軍は朝鮮占領をスムーズにおこなうために、その手足となってはたらく朝鮮人指導者を必要とした。36年間も日本の植民地にされて独立を渇望していた朝鮮人民の指導者はなによりも抗日の闘士でなければならなかった。
キム・ソンジュは1912年、北部朝鮮の平安南道大同郡の比較的裕福な小ブルジョアの家庭に生まれ、7歳のとき漢方医であった父親の仕事の都合で郷里をあとにして満州に渡り、中国人のなかで育ち、中国人学校に通い、朝鮮語よりも中国語が堪能であった。1931年、19歳とき、中国共産党に入党、同党の満州省委員会の指導下で抗日遊撃闘争をおこなった。遊撃隊時代には最盛時200人くらいのゲリラ隊員をひきいてたたかった経験もある。だがこれでは中隊長ていどの実績でしかない。新生朝鮮の指導者として押し出すには経歴が貧弱すぎる。
そこで考えつかれたのがすりかえ劇であった。このキム・ソンジュ青年を、シベリアから北満、東満の曠野ににかけて白馬にまたがり長駆して日本軍を打ち破る伝説的な英雄金日成将軍として売りだし、新生朝鮮の首班として占領行政を推進させようと考えた智恵者が平壌のソ連軍司令部にいたのだろう。
88旅団のなかには他にも朝鮮人隊員はなん人もいたのになぜキム・ソンジュがその役を引きあてたのか。かれが満州時代から使っていた仮名がキム・イルソンであった。これは1920年代から朝鮮民衆のあいだに伝説的に語りつがれている抗日の英雄金日成将軍とたまたま音が同じである。漢字をあてると同音異義のため金一星とも金日星とも金一成とも金日成ともなる。そこに目をつけてある種の謀略的詐術が考えつかれたのではないだろうか。
その詐術の背景説明として、朝鮮における”金日成将軍伝説”についてのべておく必要がある。
1910年朝鮮は日本の完全な植民地に転落したが、その5年前の1905年、第二次日韓協約をおしつけた日本はすべての朝鮮軍を武装解除し解散させた。愛国的な軍人の多くは憤然として祖国をあとにし、北満、東満、はてはシベリアにまで根拠地を移して日本軍とのたたかいを続けた。そのなかで1920年代から一人の勇敢な抗日の闘士の名が遠雷のように国内にまできこえてきた。金日成将軍である。苦難に沈む植民地下の民衆にとって、その名は希望であり、光明であった。「いつか、金日成将軍が日本を打ち破って凱旋してくる」という祈りにも似た気持ちで待ち続けた。こうしてひとつの伝説が生まれ、人びとの心に刻まれていった。
金日成将軍とは、かつて実在した抗日の闘士の一人であったし、また複数の闘士の集合名詞でもあった。事実と伝説がないまざって作られたひとつの像であった。それにあやかろうとしてみずからの名をキム・イルソンと称した者もいた。キム・ソンジュ青年もその一人であった。
キム・ソンジュ青年が新生朝鮮の首班に選ばれたもう一つの理由は、1945年までの数年間88旅団でソ連軍人として服務した経験からである。ソ連軍当局者はこの間じっくりと観察する時間をもつことができた。かれは88旅団の第一大隊長をつとめており、スターリンとソ連共産党にたいする忠誠度もすでにためされていた。としも1945年には33歳であり、小まわりのきく若さと体力をもちあわせていた。カンもよくききわけもよかった。ソ連占領軍としては使いやすい存在であったのだ。他の同僚や先輩をさしおいてかれに白羽の矢がたてられた。
歴史の証人・兪成哲(ユ・ソンチョル)氏
・・・
一方、朝鮮民主主義人民共和国は、現在の国家主席の金日成、実はキム・ソンジュが満州からソ連に逃げこんだことも、88旅団にいたことも、ソ連軍の大尉であったことも、さらにソ連船でソ連軍にかかえられて平壌にこっそり運ばれてきたこともすべてひた隠しにしている。
それどころか、逆に史実をねじまげて、1945年8月9日にはついに日本にたいして最終攻撃命令を下し、無敵の関東軍を撃破して祖国を解放し、民衆の歓呼のなかを凱旋した──といっている(1983年、朝鮮労働党中央委員会党歴史研究所編『金日成主席革命活動史』)。
満州に、終始ふみとどまっていたという以上、ハバロフスクの88旅団に勤務中の1942年に生まれた長男のキム・ジョンイル(金正日)も満州で生まれたことにしないとつじつまが合わない。そのため中国と朝鮮の国境にそびえる雄峰白頭山で生まれたことにし、密営のおかれたと称する白頭山の一角を正日峰と名づけ、念のいったことに、ここで生まれたと称してわざわざ丸太小屋までつくり、組織された見学者がひきもきらず訪れるしまつである。
こうした虚偽をあばき、ゆがめられた歴史をただす体験者の証言が、ソ連崩壊の2年ほど前からではじめた。重要なのは兪成哲氏である。氏は1917年、旧ソ連ウズベク共和国タシケント生まれの朝鮮族の三世である。ソ連軍人として88旅団に配属されて金日成のロシア語通訳をつとめた人。解放後、金日成とともに同じソ連船で帰国し平壌に入り、新生の金日成政権を支えた一人である。朝鮮戦争では朝鮮人民軍作戦局長(中将)として、南進計画を立案するなど軍の要職にあったが、1959年金日成の死に瀕する迫害を逃れて、生まれ故郷のタシケントに一家5人で亡命した。
・・・(以下略)
すりかえの日
・・・
さきの兪成哲氏もこのとき会場にいた。かれは平壌入りをして憲兵司令部に配属された。当日は会場の警備をかねながら世論収集とよぶ人心の把握を命じられている。
「私(兪成哲氏)は会場をまわりながら民衆の反応をさぐったのですが、金日成の演説がはじまると、人びとは『にせ者だ』『ロスケの手先だ』『ありゃ子どもじゃないか。何が金日成将軍なもんか』と口ぐちにいいだしたのです。そのまま会場から出て行く人たちもいた。 というのも、かれがあまりにも若すぎるのと、かれの朝鮮語がたどたどしかったからです。」
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。