goo

三・事務所の移転

大幡が、ほとぼりが冷めたからと昭和60年3月下旬に退院して来て自分が倒産会社に復帰する為にした様々な工作はことごとく吉野に見破られ、仕掛けた方策も次から次へと外され、最終的にとった吉野追い出し作戦も、問題外視され、かくなる上はと毎日向かいの自宅から事務所に顔を出し、なんだかんだと嫌がらせをして私の足を引っ張り始めた。

5月頃のある日、突然に社長の選挙をやると言いだしたのである。全社員を集めて大幡光二郎と吉野永人のどちらが社長にふさわしいか選挙で決めるのだと言う。滑稽さを通り越し、情けなくなった。

『選挙などやる必要はない。私の連帯保証分を全部肩代わりする人をあなたが連れてきて、私と入れ代わるならそれでいい。どうぞあなたが社長をやんなさい』とワザと大幡に言ってみた。

「馬鹿言え、そんなもの知るか!お前が勝手に自分で保証人を抜いて来い!」と言う、これが大幡光二郎の本心なのである。

倒産の意味も、そこへ至った原因も、再建の方法も、受注の対策も、それをやりこなす施策も、金融策も、連帯保証人の責任と意味も、何もかも解かっていない、大幡夫婦揃って倒産以前のやりたい放題的な発想がほんの少しも改まっていないのである。

もとより、神経の病だから仕方がないと言えば、そうなのかも知れないが、それにしても異常に過ぎるのである。信金に事情を打ち明け、大幡の自宅から車で10分程の離れた場所に事務所を設ける為、土地を手配し、新たな融資で215坪を買い求めた。石巻市門脇三ツ股の地である。

昭和63年7月、その場所に建坪80坪の平屋建て事務所兼一部倉庫建築の地鎮祭を催した。施工業者は昭和55年に大幡の社宅を建てた、社長が津田勝洋君(生徒会長)という私と中学の同級生の津田工務店であった。吉建工業は文字通り新たな場所での業務を開始すべく前進し始めたのである。

元々、経費の節約、無駄の排除と言う観点からは事務所新築はどうか?と思うこともあったが、毎日毎日の業務で、大幡の側からなされる妨害の数々は、折角順調にスターとを切った株式会社吉建工業にはまことにやるせなく、また、許せない障害事案でもあった。

大幡は私の三番目の兄である、吉野軍旗を大幡の自宅へ呼び、「吉野に経営を任せた結果、大幡の会社が倒産に追い込まれたのであり、少なくてもその責任を取らせるために、吉野永人を訴える」のだと言い出した。

軍旗兄は、全ての事情を知っていたゆえに,

「吉野が潰したと言うのはおかしい、会社を潰す男が、会社の再建などできるはずが無い。あなたこそ都合が悪く成ると入院して知らぬ顔、吉野が債権者の間を飛び回って、同意書を貰い、新しい会社を作ってこれから一生懸命やろうとしている。

それなのに、何故黙って見守ってやれないのか!?足元でごちゃごちゃと吉野への妨害をやめろよ!。黙って大幡の借金払いをしてもらえば一番得するのはあんた方夫婦だろう」とたしなめられても駄目だった。

いよいよ大幡建設工業へ戻る為の打つ手なしと思ったのか、大幡はあやしげな連中と組んで事業をやるらしいと言う噂が聞こえてきたが、いかなることに成ろうとも、少し懲らしめのために放って置こうと思った。

本当に大幡のためを思って我々のように協力をしている者と、大幡の持っている可成りの金(会社再建のために私に少しでも出してくれればどれほど助かったか知れないが大幡は一円も出さなかったし、逆に大幡夫婦への給料をもっと上げろと騒いでいたのである)目当てに近寄ってくるいい加減な者達の違いを、口で何度言っても大幡夫婦には解ってもらえない(余計な金など一円もないと開き直っていた)ので、実際に彼らと付き合ってヒドイ目(喰い物にされる)に遭い、思い知る以外にないのだと諦めて様子を見ることにした。・・・社長名が違う、へ続く。




コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )