小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

旧東海道ウォーク 石部宿~京都三条大橋まで

2008-06-16 | 旧東海道歩き
長かった旧東海道歩きもいよいよ最終回となりました。歩いて訪れた街の風情、忘れられない土地のおいしい食べ物、挨拶を交わしてくれた街道沿いの人々、ひとつひとつが思い起こされ、やっと京都三条大橋に辿り着けるという喜びと、ついに終わってしまうという寂しさが交錯し、最終日は感慨深いものがありました。

最後の旅は、50番目の宿場石部から。新横浜から京都駅まで新幹線、JR草津線に乗り換えて石部まで、所要時間はおよそ2時間40分。
今回は、大阪在住の長男が最後を一緒に歩くことになりました。
石部は「京立ち石部泊まり」といわれ、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であったと言われています。石部の街道には、今も当時の古い街並みが残っています。その中で少し趣きを異にした大きな建物、史跡「旧和中散本舗」は、家康がここ野洲郡に滞在中、腹痛を起こしたときにここの薬で治ったと言われています。江戸時代の豪商であった様子が伺えます。


まもなく、51番目の宿場草津に入り、東海道と中山道の分岐点である追分見付につきます。「右東海道いせみち 左中山道美のぢ」と彫られた石の道標が立っていました。その昔、さぞこの街道は行き交う旅人で賑わったことでしょう。

草津宿の本陣は、昔のままの遺構を伝える建物で、りっぱなものでした。

草津宿あたりから京都に続く街道の街並みは、今までの格子が紅殻の格子に変わり、甍も深く軒を並べ、都に近いことを伺わせます。


西へ進み行くと、大きな擬宝珠を持った瀬田の唐橋を渡ります。今でこそ鉄製の橋ですが、瀬田川は、緩やかになみなみと水を湛えながらゆっくり流れ、何隻ものカヌーが滑っていました。


石山寺へは、この唐橋から1.5キロほどでしょうか。紫式部は源氏物語の構想をこの寺で練ったと語り継がれています。


京阪電車の線路と付かず離れず進むと、街道は膳所(ぜぜ)の城下町に入り、街道は鍵型を繰り返して進みます。いよいよ大津に入って、お茶した喫茶店で土地の人とおしゃべりに花が咲き、今宵の宿JR大津のホテルに付いたのはもう夜8時近くになっていました。

6月8日、朝8時にホテルを出発。少し寄り道をして琵琶湖まで足を延ばしました。日本一の湖は私の想像を遥かに越えて、遠くは霞み、ただ広い水面が広がっていました。


大津の宿場を過ぎると、路面電車が走る大きな道路はゆるやかにカーブしながら高度を上げていくのがわかります。この先に百人一首でも歌われた、「これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」があり、越えるといよいよ京都山科地区へと続きます。ここには悲運の琵琶法師蝉丸を祭った蝉丸神社があり、逢坂山は今でも山の深さを感じることができます。


ひなびた街道沿いに「日本一のうなぎ かねよ」があり、昔伊勢から運ばれてくるうなぎに旅人は立ち寄ったのでしょう。今でも遠くから食べにくる人も多いと見えて、手広くやっている様子でした。


いよいよ街道は京都山科区に入り、ほどなく五条の別れ道標があり、三条大橋も間近かと思うと心躍り、一刻も早くという気持ちと、最後なんだから、ゆっくりゆっくり楽しもうという思い、気持ちがなかなか抑えきれなくなってきました。


まず、天智天皇陵に寄り、新緑のまぶしい楓のトンネルの中を通りながら大きく深呼吸しました。ところが、終点近い旧東海道は、最後の最後になって、道幅はぐっと狭くなり、道しるべもなく、旧東海道で一番狭くわかりづらい場所だったのではと思われました。
三条大橋まであと1.5キロの地点に蹴上駅の先に南禅寺があり、ちょうどお昼になったことでもあり、湯豆腐を食べて南禅寺境内にある琵琶湖疏水の流れる水路閣で一休みしました。


京阪の線路に沿って三条通を進むと、前方に三条大橋の信号が見え、日本橋からの長い旅の終点三条大橋にたどり着くことができました。

日本橋から133里9町、4年かけた旅は、述べ34日間でゴールにたどり着くことができました。やったー! そしてやれやれ。
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長い旅の終点 京都三条大橋

2008-06-09 | 旧東海道歩き
4年前の5月の連休に、日本橋を出発し、京都三条大橋を目指して歩き始めた旧東海道の旅も、昨日やっと三条大橋に着き、鴨川の河原に下りてビールで乾杯となりました。梅雨の最中、雨にも降られず、無事完歩することができ長い旅を終えることができました。なんとか仲良く歩きとおした夫にまず感謝、そして応援してくれた家族と友人達に感謝です。まずは報告まで!
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東海道ウォーク 関宿~坂下~土山~水口~石部宿

2008-04-11 | 旧東海道歩き
東海道五十三次の街道歩きも終盤戦。今回始めて2泊して5つの宿場を歩きました。好天に恵まれ、鈴鹿峠あたりの桜は3分咲きでしたが、満開の桜に迎えられながら、なんとも贅沢な街道歩きとなりました。
2008年4月5日
午後の新幹線を名古屋で下り、JR関西本線に乗り換えて関駅に。前回関宿まで歩いているのでこの日は、夕方に現地入り。平日の夕方の関の街道は、人もまばらで静かな夕闇がせまっていました。
宿から見た満開の桜は、山も湖も、おぼろげな白さで包み込んでしまったようにみえました。


4月6日
いよいよ最後の難関、鈴鹿峠が迫っています。街道右手には、狩野元信が山の景観に惹かれて筆をとったが、あまりにも激しく変化する天候に筆が追いつけず、筆を投げ捨てたと言い伝えられている筆捨山が見えました。この日はくっきりとその名峰を写真に収めることが出来ました。


坂下宿は鈴鹿峠直下の山間の宿場で、現在も民家は少なく、まだ春休みの小学校の校庭には桜が満開に咲いていました。


坂下宿のはずれに片山神社があり、ここから鈴鹿峠への山道が始まります。道は深い森の中に入り、眼下には国道がヘアピンカーブを繰り返しながら高度を上げていくのがわかります。


さすがに鈴鹿峠あたりは、まだ早春の趣きがあり、峠を下った土山宿は梅がちょうどみごろでした。鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われたように鈴鹿峠を境に天候が大きく変わったのでしょう。

水口宿へと続く街道は、鈴鹿山中から発した野洲川に沿って、その広い河原は春の陽光に白く光り、当時の旅人もこの景色に、鈴鹿峠を無事越えてどんなに安堵したことかと思われます。

2日目は水口宿まで、時刻はすでに夕方6時をまわっていました。

4月7日
水口は東海道50番目の宿場町であり、多くの旅籠があった様子が今もなお色濃く残っています。一方で徳川家光が将軍家の宿館として築いた水口城もありました。

このお城の近くで見た一本の桜は圧巻でした。


石部宿へと続く街道は、古い街並みが息づくと同時に、都市の近くであることを伺わせる新興住宅も目立ち、活気づいた街の印象を受けました。
途中川底が道路よりも高い天井川の下のトンネルを通りました。ただ、川は今、枯れているようでした。


さすが近江の国、どこの家の玄関にも信楽のタヌキが愛嬌のある姿で出迎えていました。



午後2時、石部駅に着いて、3日間のウォーキングの終着となりました。
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東海道ウォーク 鈴鹿越え

2008-04-07 | 旧東海道歩き
この週末を挟んだ3日間、去年の11月以来4ヶ月ぶりに、東海道最後の難所鈴鹿峠を越えて、いよいよ近江の国に入りました。お天気に恵まれて、うららかな春の陽射しの中を坂下宿、土山宿、水口宿そして石部宿までを歩きました。あとゴールの京都三条大橋まで、52番目の宿場草津宿、最後の大津宿を残すのみとなりました。4年あまりかけた長い旅もいよいよわずかかと思うと一抹の寂しさを感じながらも、無事に完歩できるように気を引き締めていかなければと思いました。また、近いうちに街道の様子を記していきたいと思います。
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東海道五十三次  鈴鹿の関宿の街並み

2007-11-28 | 旧東海道歩き
鈴鹿の関があった関の街に足を踏み入れると、当時にタイムスリップしたような連子格子の古い家並みが続きます。しかも、この街並みは電柱を取り払い、当時の宿場の街並みが見事に再現されています。すでに国の伝統的建造物群保存地区に指定され、ここに住んでいる人々の歴史景観保存への努力を街の随所に感じることができます。


銀行もポストも街にしっくりなじんでいます。



鉄の馬繋ぎが残っている軒先


旅人のお茶請けとしても、当時からあった餡入りの白玉団子のお店。


関の地蔵院、その中に安置されているお地蔵さんは「振袖着せて奈良の大仏さん婿にとろ」と鈴鹿馬子唄にも歌われるほど美しい木造のお地蔵さんだということですが、お堂の深いところでは姿をみることは出来ませんでした。


この歴史的な家々が残る街を歩いていると、今も昔と変わらない人々の暮らしの営みを垣間見ることができます。


来年、雪が解ける頃に、鈴鹿の峠を越え、近江の国に入る予定です。
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東海道五十三次 亀山宿~関宿(前編)

2007-11-27 | 旧東海道歩き
先週の連休を利用して、日本橋から104里半、46番目の宿「亀山宿」から「関の宿」まで歩いてきました。旧東海道ウォークも後半になると往復に時間がかかるので、できれば何泊かしたいところを、ちょっと介護の始まった三四郎(小さな庭の管理犬)を置いて家を空けることができなくなったこともあって、今年最後の旧東海道は日帰りとなりました。
JR関西本線亀山駅に降り立ったのは、すでにお昼近く、空は曇天、時々冷たい雨が降り出していました。
亀山の古い城下町を過ぎたあたりに、亀山城址の石垣が見えてきました。残っているのは石垣と多聞櫓だけですが、「胡蝶城」とも呼ばれるほど美しく風格のある姿でした。


亀山城近くに亀山藩家老職の加藤家の長屋門と土蔵の古い佇まいが残っていました。


亀山宿のはずれにある野村の一里塚は、当時は道の両側に対で植えられたもので、現存は片方だけですが、当時よりもひとまわりもふたまわりも大きくなったりっぱな椋の古木でした。


東海道は鈴鹿川岸に沿って続き、思ったより交通量の多い土手からは、遠くに鈴鹿の山並みが灰色に煙っていました。


街道沿いの古屋には、時の流れを感じるレトロな看板がまるでスクラップのように貼られ、中にはこの秋、政権交代したばかりの前総理のものも一緒に並んでいました。


どこも色とりどりの菊が花盛り!その中に元気なダリアが咲いていました。


関の宿へと続きます。
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東海道五十三次 四日市宿~亀山宿(後編)

2007-10-17 | 旧東海道歩き
二日目の出発地点は、近鉄内部(うつべ)線の四日市駅から3駅先の「南日永駅」。午前8時30分、小さな無人駅に降り立ちました。このあたりは、新しい住宅が多く昔の面影はほとんどありませんでしたが、伊勢参宮道と東海道の追分があり、当時はどんなに賑わっていたかと思います。


江戸幕府が街道の1里ごとに交通の目安として設けた一里塚、「日永の一里塚」は、民家と民家の間に挟まれた格好で、碑だけが残っていました。


やがて、小さな集落を過ぎると、日本武尊が剣を杖かわりにして越えたと伝えられている「杖衝峠」、松尾芭蕉も「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と残している当時の急坂は、長い年月にカーブも緩やかになったのでしょう。難なく越えることができました。


四日市を過ぎ、鈴鹿市に入ると、やがて石薬師の宿場。この石薬師には明治の歌人「佐佐木信綱」の生家があり、街道沿いには信綱が残した歌がプレートに書かれて行く先々に立ち、街ぐるみでこの地が育んだ歌人の偉業を大切に伝えている様子を伺うことができました。


街道は、国道一号線と平行だったり、交差したりと付かず離れず進むことが多いのですが、時には寸断して、田んぼの中を進むこともあります。広重の「庄野の白雨」の絵を連想させる田園風景は、この季節、実りの秋を迎えて、神社の境内では笛と太鼓の音に合わせて獅子が舞っていました。



まもなく庄野宿にさしかかると連子格子の古い家が軒を連ねて、その静かな街並みは往時を偲ばせてくれます。


本日の終着である亀山宿に入ったのは午後3時過ぎ、街道沿いの畳屋、油屋、髪結屋といった表札から、職人や店屋が軒を連ねていたことがわかる家並みが続いていました。

関西本線「亀山駅」を午後4時に出て名古屋駅に到着。次回はいよいよ鈴鹿越え、昔は最後の難所と言われていましたが・・・もうひとがんばりとなりました。
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東海道五十三次 桑名宿~四日市宿(前編)

2007-10-12 | 旧東海道歩き
秋晴れに恵まれた10月6日、旧東海道ウォークは日本橋から96里(約377キロ)離れた「桑名宿」が今回の出発点、自宅を6時20分に出発して、名古屋まで新幹線、近鉄名古屋線に乗り継いで「桑名駅」に降り立ったのが10時15分、随分遠くへ来てしまったようだけど、京都にはぐっと近づいた感じがします。

10:30 桑名七里の渡し場は、伊勢国の東の入り口。その昔、船から降りる旅人にとって、この一の鳥居が「お伊勢参り」への出発点だったそうです。どんなに心が弾んだかと当時がしのばれます。


10万石の城下町であった桑名には、海に向かって桑名城がそびえ立っていました。今は掘りも船だまりとなって、石積みされた城壁がわずかに残っているだけでした。


街道沿いの街並みは、当時の面影こそありませんが、、静かな佇まいの東海道らしい道が続いていました。


土手には彼岸花がな真っ赤に染まり、立ち寄った古寺の庭先に白い彼岸花の鉢が午後の秋の陽を浴びていました。


午後の陽が傾き始め、遠くに四日市のコンビナートが海蔵川の川下に見えるといよいよ四日市宿の入り口。安藤広重も描いた四日市宿はきっとこのあたりかも知れないと、当時を忍ぶその風景は、どこまでも伸びやかに広がっていました。


「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」の石造りの道標は、「もうひとがんばり」と疲れた足取りを励ましているようにも見える、どことなくユーモアのあるりっぱなものでした。

近鉄「四日市」の駅に着いたのは、夕闇も迫った午後6時、第1日目はここで宿を取り、ビールで取りあえず乾杯となりました。(つづく)

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東海道ウォーク

2007-10-08 | 旧東海道歩き
確か桜が満開の頃、宮(名古屋)の渡しにたどり着いたものの、野暮用の多い現在の旅人は、「七里の渡し」を渡れぬまま、6ヶ月も過ぎてしまいました。この連休で宮と桑名を結ぶ航路をスキップして、やっと近鉄名古屋線の「桑名駅」に降り立ちました。この2日間、訪れた土地の食べ物はおいしく、行き交う土地の人々はやさしく、笛や太鼓が奏でる秋祭りの鎮守の杜を横に見て、コスモスと彼岸花の咲く街道を「亀山宿」まで歩き進めることができました。詳しくは、近いうちにまた記録していきたいと思います。
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「清明」の頃の街道

2007-04-05 | 旧東海道歩き
二十四節気のひとつ「清明」は、万物が晴れ晴れとした明るさにあふれ出している時期を呼び、今年は本日4月5日に該当するそうです。
先週末歩いた旧東海道の街道筋は、菜の花が咲き乱れ、桜はどこも満開で、まさに「清明」という言葉にぴったりの季節を感じることができました。

どこに行っても桜が満開でした。


遠くから見たときはルピナスかと思ったほど、りっぱなメネシアの花壇でした。


ハナ大根とオキザリスとボケの花、すばらしいコントラスト!


楓の花、これも満開!
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