小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

どこまで欲張り

2015-05-28 | ガーデニング

爽やかな5月の季節のはずが夏日が1週間ほども続き、5月としては記録的な暑さに、
夏バテや熱中症などがすでにニュースとなっています。

ただ季節は、5月の代表的な花であるバラとクレマチスが花盛りを迎えて、どこの植物園や庭園も
賑わっているようです。
我が家にはクレマチスはこの2種類しかないのですが、蔓の誘引がうまくいって今年はよく咲いてくれました。

夏野菜も苗が園芸店に並ぶとどうしてもほしくなってしまい、プランターにミニトマトを2鉢だけ買い求めました。
生育がこの陽気で速く、あれよあれよという間に花が咲き、枝が伸びて、実も付きだしてしまいました。

トマトの栽培はワキ芽を摘んで一本仕立てといわれていますがすでに遅し。
しかもせっかく花が咲いているのに摘んでしまうのは、もったいない!

そこで、家庭菜園をやっている友人のアドバイス。2本仕立てにして背をあまり高くしないようにしたら、
同じように収穫ができるのではと、これはいいアイデアと2本だけ主枝を残して支柱を立てました。


それで、摘んだ枝はさらに挿し芽をしたところ、順調に根が付いたようです。
こちらは2本立てと欲張らずに枯れずに順調に大きくなってくれたら十分、ただ花が咲いてくれたら御の字、
もしかして実が付いてくれたら言うことなし・・・と、どこまで欲深いのだろうと我ながら呆れています。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

境川の源流へ

2015-05-19 | 小さな旅

季節外れの台風の動きが気になったり、南からはすでに梅雨入りが発表されたりと、めまぐるしい天候の変化に、
季節感をじっくり味わう間もなく、季節は進んでいます。

先週は、ウォーキング仲間と境川河口から52キロの最終地点境川源流へ行ってきました。
この川は文字通り相模の国と武蔵の国を流れる川で、神奈川県から東京都町田市を流れる2級河川になります。

最終日、横浜線相原駅から出発です。
この日は夏日で日差しが強かったのですが、それでも風は爽やかでウォーキング日和の快適な一日でした。

交通量の多い町田街道沿いを、川は蛇行を繰り返しながら川幅はどんどん狭くなって、川床が見えるほど
澄んでいきます。


水源のある山並みが大きくなるにつれて、川の源流が近いことを感じさせ、水路はずんずん山の中に入っていきます。

やがて、大地沢青少年センターの敷地となり、木道を歩きながら自然観察やフィールドアスレチック、
キャンプ場などの施設も整っていました。


更に奥に踏み進んでいくとすでに川は沢となり、2つの沢が合流した地点には源流の標識があり、
湧水の流れを確認することができました。

大きな川幅も、水流の激しい川も、すべてがこの源流の一滴から始まるのかと思うと、感慨深いものがありました。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥州街道2日目 氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿

2015-05-11 | 街道歩き

5月3日、ホテルで目を覚ましたら、昨日の歩き疲れか足の筋肉疲労が残っていました。
けれど今日の行程はさらに長く、大田原市までを目指しているので、6時50分ホテルを出発しました。
奥州街道は今までの街道歩きと違い、鉄道が通っている駅が遠く、駅間の距離もあるので、
なんとかその日の予定行程までは辿り着かなくてはならないということになります。

連休の朝早い氏家の町は静かで、豊かな用水路から田んぼに流れ込む水音だけが聞こえてきます。


門がまえの大きな家が続きます。特に立派な長屋門を備えた滝沢家は、明治時代に紡績業を営んだ旧家で
陸軍の大演習が行われたときに明治天皇の休息所であったと、門の前に記録が残っていました。

しばらく続いた家並みが途切れる頃、あたりは田園地帯に変わります。


この先に日本橋から32番目の「狭間田一里塚」があり、民家の敷地内には祠が祭られて現存されていました。
氏家地内には一里塚が2か所あったということですが、1か所は消滅してしまったそうです。

目の前にこんもりとした小高い山道の、弥五郎坂が見えてきました。
この坂は、江戸を出て初めての本格的な坂だったようですが、今では左手にゴルフ場、
右手には喜連川早乙女温泉と書かれた施設がありました。

この山越えは、旧街道からさらに古道を通って行くこともでき、お天気もよかったので山の中へ踏み込んでみました。
木漏れ日が漏れ、滅多に人も通らない木立の中、小鳥たちが頭上を飛び交い、足元ではなんとニリンソウに
出合うことができました。


古道を抜けると細い田んぼの一本道、さあ左か右なのか、地図を見ながら迷っていると、農道を通り過ぎた
軽トラックの農家の方が引き返して来て、親切に現在地を教えてくれました。
土地の方はほんとにみんな親切で、歩いているとよく声をかけてくれます。
農作業の手を休めたおばあさん(?)に、「どこまで行くの」と聞かれ、「大田原まで」と答えたら、
何度も「へぇー、元気だね」と感心され、私は腰を屈めて田んぼに入っているおばあさんの方が
もっと元気ですごいな~と感心しているのにと思いました。
いよいよ喜連川宿へ一息となりました。

荒川に架かる連城橋を渡ると奥州街道20番目の宿場喜連川宿に入ります。

ここは、友人の持つ温泉付きの別荘があり、何度かお邪魔したことがありました。喜連川温泉地として、
近辺には保養センターや国民宿舎もあるようです。
喜連川藩主足利家の菩提樹である龍光寺に寄り、境内には喜連川藩主の廟所が残されていました。

喜連川宿の本陣跡は、現在「街の駅本陣」というコミュニティールームになっていて、建物自体は、大正期に立てられ
現存する警察庁舎として、全国でも珍しいものだそうです。
建物の前庭には自噴している井戸があり、喜連川が地下水の豊かな地であることが理解できます。

喜連川宿は県道74号線と旧奥州街道114号線の追分で、喜連川を後にします。
やがて内川に架かる金竜橋を渡ると、次の宿場佐久山宿に向かいます。

街道の道端にはほっとするような双体道祖神があり、広い庭には鯉のぼりが泳ぎ、一面の田んぼは
今が田植えの真っ盛り、この広大な景色に疲れと暑さに重くなる足もわずかながら軽やかな気持ちにもなります。

この先、街道は緩いカーブを続けながら、長い登り坂になります。当時は険しい峠越えだったのでしょうか。
坂を下りると南和田、曾根田集落と続きます。

さくら市をやっと過ぎて、大田原市へと入ります。
ここは与一の里、あちこちの看板に那須与一が弓を射る絵が目立ち、奥州街道21番目の宿場・佐久山宿に入ります。
佐久山宿は、那須与一の兄泰隆が佐久山城を築いた場所でその城址も残されていました。

                              那須連山が近くはっきり見えるようになってきました。

田んぼは一層広く大きく、ここは栃木の穀倉地帯!この田んぼを見ていると、四季を通して農家の方の丹精込めた
おコメ作りを思います。そしてお米こそが日本ブランド、未来へ向けて大切にしていかなければと思いもしてきます。

佐久山宿を出ると、箒川にかかる岩井橋を渡ります。次の宿場は2日間の街道歩きの最後大田原宿になります。
この街道沿いには道祖神なども多く目立ちました。ただ、ほとんどは風化も激しく読みとれないものでしたが。

箒川一体は豊かな伏流水が湧いているところで、生息しているイトヨ(糸魚)は天然記念物に指定されているもので、
この清流を見ているとうなずけます。

間もなく大田原市親園に入ります。
この地区はかっての間宿でもあり、名木「与一の松」があり、周りも豪農や豪商の佇まいが多く目立ちました。

今日のゴールが間近になってきました。大田原宿に向かい百村川に沿った長い長い一本道が続きます。
実は、この大田原宿への3キロの道のりが私にとっては一番長く辛かったように思いました。
目的地も見えて、気持ちも緩んだのでしょう。

                               武家の守護神 八幡神社

大田原市に入り、この日の行程を終えました。ところが、帰路に着くJR東北本線の西那須野駅へのばす便が
ありません。近くの床屋さんが親切にタクシーを呼んでくれました。
今回の旅は、訪れた土地の方の暖かさに触れた街道歩きでもありました。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥州街道1日目 宇都宮宿~白沢宿~氏家宿

2015-05-07 | 街道歩き

今年のゴールデンウィークは、お天気に恵まれ、雨を心配することなく出かけられたのはラッキーでした。

日光街道を踏破したのがちょうど1年前、今年も連休を利用して奥州街道をスタートさせました。
街道歩きも、それなりに歩くスタイルができ、人力だけで歩き切るという楽しみももちろんですが、
歩かなくては気が付かない道端の草花や、人々の生活、その土地の食べ物、景色、
そして道祖神、馬頭観音など、歩きながら長い歴史を感じるのも街道歩きの楽しみです。

奥州街道は、青森の三厩宿に至る途方もない距離ですが、幕府の道中奉行が管理していた道筋は
白河宿までということで、とりあえずここまでを目的地としました。
すでに日光街道を踏破しているので、奥州街道の起点は、宇都宮宿からになります。

朝7時の新宿湘南ラインに乗り、宇都宮駅着が9時30分。
宇都宮駅からバスに乗り、日光道中と奥州街道の分岐点(追分)伝馬町に降り立ったのが10時。

追分のスタート地点

                                ニ荒山神社門前町のオリオン通り

ニ荒山神社の門前町として栄えた宇都宮の繁華街を通り、田川に架かる幸橋を渡ります。

                              橋の上には当時の橋の模様が描かれたレリーフ

川の向かいには醤油醸造業と肥料商を営んでいた旧篠原家があり、国の重要文化財に指定され、
当時の豪商の姿を今に伝える貴重な建造物が残されていました。

旧街道は現在の国道10号線となり、交通量も激しく、現在においても重要な交通の要衝であることがわかります。
東北新幹線のガードを潜るとやがて鳥山道との追分になり、白沢街道(国道125号線)をまっすぐ進みます。

この辺りには、古い家が多く見事な長屋門や四脚門をみることができます。
江戸時代の豪農や富裕な庄屋の名残りなのでしょうか。

長屋門 : 門の両側の長屋は使用人の部屋や農機具の収納場所として使用


四脚門 : 柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てたもの


いくつかの集落を過ぎ、街道はまっすぐに北に伸びて行きます。
宇都宮市海道町あたりは八重桜の並木道が続き、すでにサクラの季節は過ぎて、おおかた花は散った後でしたが、
盛りの頃はどんなに見事だったことかと思います。


爽やかな風を頬に感じながら、しばらく気持ちのよい街道歩きを楽しみました。
日光街道と大きく違うのは、緩やかな道のアップダウンが多いことでしょうか。
当時は今の坂と違い、足場の悪い山道を歩いていたことと思います。
目前に見えた稚児坂は、奥州奉行を任ぜられた初代の伊沢家景が奥州の任地に向かう途中、
同行の我が子を亡くし、白沢地蔵堂に葬ったと言われています。
地蔵堂を過ぎるといよいよ白沢宿に入ります。

白沢宿
白沢宿は、日光道中と別れてから奥州街道最初の宿場で、町の至る所に古い歴史を感じることのできます。
それぞれの家の玄関には屋号を記した木札が掛けられていました。

80段登った先に白沢村の村社白髭神社、ここは白沢宿の産土神で、振り向けば鬼怒川が流れる平野が広がっていました。

鬼怒川などの水利にも恵まれて、道路の両側に水路があり、以前は生活用水としても使われていたのでしょう。
水車が回っていました。

外敵を侵入しにくいように街道を直角に曲げた枡形道を右に折れて、白沢宿出口を後にします。
宇都宮市の何と広いことか、鬼怒川に架かる阿久津大橋を渡り、やっとさくら市に入りました。
さくら市は平成17年に氏家町と喜連川町が合併してできた市です。
上流側の鬼怒川

鬼怒川に架かる阿久津大橋               鬼怒川下流側

すっかり回りが田園風景に変わり、鬼怒川を本流とした水路がいくつも交差し合いながら、田園を潤していました。

まもなく街道左側に勝山城址が、ここは鎌倉末期に氏家氏が築城し、その後宇都宮氏の一族によって北方防衛の
拠点だったと記されていました。
現在は、勝山城址の中には、近代的な建物さくら市ミュージアムがあり、氏家出身の荒井寛方の作品が
展示されているようでした。

さくら市ミュージアム                          勝山城址本丸跡

すっかり日も西に傾き始め、田植えを終えた田んぼにも夕暮れが迫ってきました。
街道はこの田んぼの中の一本道を氏家宿と進みます。

お伊勢の森                       追分・道標

田んぼの真ん中に伊勢神宮を勧請して建てられたというお伊勢の森があり、当時はこんもりとした森の中に
あったのでしょう。すでに名前だけの跡となっていました。

氏家宿はまもなく、追分を左折して、氏家の市街に入っていきます。暗くなる前になんとかこの日の行程を終えて、
今夜の宿泊地に着くことができました。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする