小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

第12回後半 中山道ウォーク(長久保宿~和田宿~下諏訪宿)2020年10月18日

2020-10-27 | 街道歩き

10月18日 昨日の雨はすっかりあがり、天高く秋の空が広がっていました。

7:10 出発
この分なら雨の心配もなく、穴の開いているトレッキングシューズでもなんとかなりそうと、民宿で用意してくれたお弁当の大きなおにぎりを持って出発です。
民宿の主人に昨日の到達地点まで送ってもらいました。

7:30 唐沢の一里塚跡
国道から脇道を上がると唐沢の一里塚跡がみえてきます。日本橋より51里目で左右の両塚が残っている一里塚は道中でもとても貴重なのだそうです。


道幅の狭い古道に深山の趣があり、
早朝もあって心身清められる思いがありました。

7:50 和田峠登り口
いよいよ峠を目指して登り始めます。


昨日降った雨でたっぷりと草木は湿っていたのですが、
靴にはほとんど影響なく快適な滑りだしでした。

峠を往来する人馬の無事を祈って祀った三十三体観音

この前日に、長久保宿のバス停で会った男性が熊と鉢合わせになり、熊に背中を見せたらいけないので少しずつ後ずさりして熊との距離をあけて難を逃れたとか、民宿ではなるべく2人の場合は話をしながら、単独行だったらラジオを付けながら行くといいと聞いていたので、熊除けの鈴を鳴らしながら、私は非常時の笛を持っていたのでこれも鳴らしながら歩きました。


日差しはとっても暖かく柔らかで、こんな平和な山なのに・・・と思いながら

8:45 接待茶屋跡
茅葺屋根の永代人馬施行所で旅人に無料で粥と焚火、牛馬には桶一杯の煮麦を施したと案内板に書かれていました。


一度国道を横切って再び山中に入ると、避難小屋もありました。

9:30 名水
長い登り坂の脇に水量の多く勢いのいい和田川が流れています。

近年長和町が設置したゴミ無し童地蔵が鎮座していて、人の姿かと思わずドッキリ

9:45 広原の一里塚
江戸日本橋より52里目 こんもりとクマ笹に覆われた一里塚跡でした。

10:00 東餅屋
苔むした石畳を過ぎて国道に出ると東餅屋跡がありました。江戸の頃には5軒の茶屋があったそうで、ここで旅人のお腹と喉を潤して一息入れたのでしょうか。


すでに廃屋となっている「東餅屋ドライブイン」
営業していたころは名物力餅も売られていたようです。
落葉樹の黄葉が見事でした。

10:10 ヘアピンカーブのビーナスラインを4か所ほど横切ります。
うち1か所はパイプトンネルを潜ります。沢の脇に人ひとりがやっと通れるこれも中山道でした。

10:40 長い坂を登りきったと思ったら、和田峠の頂上に着くことができました。


正面に見えるのは雪を被った霊峰木曽御嶽山

当時無事に和田峠にたどり着いた旅人の思いは・・・
私は民宿で用意してくれたおにぎりを食べました。
美味しかったこと!

下諏訪へむかって厳しい急坂の始まりのガレ場は賽の河原

11:20 石小屋の石垣
和田峠の西側は急坂で風雪の時は大変難渋し、この村の名主が石小屋を建てて人馬の避難や荷置場として施していたということです。この急坂を牛馬や重い荷物を担いだ旅人や、皇女和宮を乗せた籠が通ったこと自体、驚きです。


急坂から周りをみれば深いカラマツ林が続き、穏やかな秋の午後を感じました。

11:50 西餅屋立場跡
東餅屋同様、4軒の茶屋があり旅人で繁盛していたようです。


道祖神・牛頭天王

12:00 西餅屋の一里塚跡
江戸日本橋より53里目、このあたりのガレ場は崩落を繰り返していたようです。


 現在も道幅は狭く左側は深く削られていました。
(写真は振り向いて撮ったので右側)

まもなく国道142に合流し、この後は交通量も多く、諏訪まで下りが続くのでスピードを出す車も多く、疲れた足には堪えました。

14:00 木落し坂
諏訪の御柱祭りは有名ですが、この諏訪大社下社の春宮と秋宮に立てる御柱8本は7年に一度、この坂から滑り落とすという神事で有名な「木落し坂」 


江戸日本橋から54里目の桶橋の一里塚跡  桶橋茶屋跡 

      石仏石塔群・芭蕉句碑

まもなく国道から諏訪市内に向かって旧道に入ります。

14:50 諏訪大社下社春宮
人家も多くなってきた頃、「諏訪春宮」が右下にみえてきました。広い境内を回り込むようにして、この日のゴール「諏訪大社春宮」に到着しました。

もうヘトヘトだったので参拝は次回に回し、下諏訪駅から16:10の特急あずさで帰宅しました。なんとか難所和田峠を、長い道のりでしたがトラブルなく越えることができ一安心しました。頑張った穴のあいたトレッキングシューズと棒のようになった私の足を褒めてあげたい!

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第12回前半 中山道ウォーク(長久保宿~和田宿~下諏訪宿)2020年10月17日

2020-10-22 | 街道歩き

中山道ウォークも2018年秋に日本橋を出発してからちょうど2年、前回で江戸日本橋より48里目(中山道は67宿、139里)を通過し、この2年間でやっと道中3分の1をを通過したことになりました。
街道の中でも、もっとも長い中山道を歩こうということ事態、当初は実行不可能かと思ったのですが、今回中山道最大の難所和田峠を越えるところまで行けたことで、もうリタイアはなくのんびり京都を目指すしかないかと思うようになりました。

 

10月17日 JR長野新幹線東京駅726発、上田駅には9:01着でした。その後バスを2回乗り継いで、前回の宿場長久保のバス停(四拍)に着いたのが1043、なんと自宅を朝6時に出てから5時間弱かかったことになります。

長野県長和町の天気予報は、2,3日前までは「曇り時々晴れ」の天気予報だったのに、着けば本降りの雨、こんな遠くまで来てしまったのだからもう前へ進むしかありません。

 

身支度を整えて1100スタート

 

この日の予定は和田峠の麓まで。翌日峠を越えて下諏訪へ下りるためには、和田宿近辺で1泊しないと下諏訪までの長い距離を1日では歩くことはできないと判断しました。数年前までは和田宿の旅籠が宿を提供していたようですが、現在は民宿1軒のみ。すでに予約をしてあったので、まず民宿によって荷物を置きリュックの中を軽くして出発することにしました。宿の主人が行けるところまで行ったら、夕方には車で迎え、翌日にはまたその場所まで送ってくれるというサービス付き、ほんとに現代人ならではの峠越えと言えます。

 

1200 民宿「みや」を出発


空は重そうな雨雲が覆い、雨が上がる気配はまったくありません。

 

1220 青原地区 


馬頭観音群
国道142号線は交通量も多く水しぶきも容赦なくかかってきます。


茅葺屋根のバス待合所
青い中山道道標が目立ちます。
行く先々で、この道標が中山道を間違えなくエスコートしてくれます。
(これは長野県管轄か、岐阜県に入ると違う道標になるのかな?)

 

1235 旧和田村 


良質な土壌を生成するミミズに感謝する「ミミズの碑」
石仏石塔群

 

このあたりからトレッキングシューズを履く私の足元が・・・。靴の底を見ればなんと穴が、ここから雨水が入り靴下は見る見る濡れてもう惨めなこと、長年履き慣れているとは言え、靴底の点検を怠ってきたことに後悔!足はどんどん冷えてきて、なんとか次の和田宿で雑貨店を見つけて長靴でもあればと一縷の望みをかけて歩きました。

 

1307 49里目の上組の一里塚跡

 

1330 和田宿へ入る

「是より和田宿」と書かれた自然石


                
八幡神社 茅葺きの入母屋造り

 

1400 和田宿街並み

和田宿は約1600メートルの中山道最標高の和田峠を控え、次の宿場下諏訪宿まで約22キロあったために多くの旅人で賑わい旅籠も28件もあったようです。いまでも面影の残る建物が多く、その街道筋は当時にタイムスリップしたようでした。

江戸時代には質屋と両替商を営んでいた
今でも「よろずや」と呼び、店の主人は「昔でいうコンビニ」ですと


懐かしい看板     赤い長靴      ティータイム  

 

街といっても、人っ子一人歩いていません。この雨ですから・・・、私はなんとか雑貨店らしい店を探し、店番をしていたおじいさんに女性物の長靴がないか聞いてみたところ、奥からつぶれた箱の中から真っ赤な長靴を持ってきてくれました。それは30年以上も昔に履いたようなデザインで、「どうせ売れないから500円でいいよ」と、「これで半日は歩ける」捨てる神あれば拾う神ありの心境で喜びました。

暖をとるために入った休憩所で飲んだ珈琲についていたお菓子は、この地域の特産ダッタンそば粉で出来た蒸しケーキ

 


和田宿本陣跡


皇女和宮も宿泊したという上段の間などは失われてしまったが、本陣跡として公開されています。
街は本陣のある中町を中心に問屋・本陣・脇本陣・木問屋などが集中し、旅籠や茶店、商屋などで賑わっていたようです。



建物は1階より2階が出ている出梁つくりの格子がついています。



 

15:00 鍛冶足の一里塚跡
和田宿を過ぎて、国道142号線との交差点に50番目の一里塚跡があり、その後旧道は依田川沿いの細い道に入っていきます。


村落の循環バスは一日に数本、和田峠の入口近くまで来ているようでした。

雨はいよいよ激しく唐沢地区に入っていきました。あたりも薄暗くなってきたので、民宿に電話をして迎えに来てもらいこの日の行程を終えました。

 

民宿ではとても暖かいもてなしを受け、この日の同宿者は3組でした。翌日和田峠を越える予定は私たちを入れて2組、宿の主人に熊と出合った場合の対策など、いろいろ話を聞いて翌日に備えました。(続く)

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第11回 中山道ウォーク(望月宿~芦田宿~長久保宿)2,020年10月1日

2020-10-09 | 街道歩き

前日はあんなに秋晴れだったのに、翌101日の天気予報は午前中は雨の予報でした。でも運よく、すでに雨は夜明けに降ったようで佐久平の駅前のバス(751発)に乗る頃には空もだいぶ明るくなっていました。

8:15 先回のゴール地点望月宿のバス停に着くことができました。

825 スタート

ほぼ1年ぶりに訪れた望月宿の街の様子は変わりなく、懐かしい感じさえしました。

宿の中ほどに本陣跡などが集中し
いまでも旅館を営んでいる建物や屋号など、当時の面影を忍ぶことができます


問屋を兼ねた本陣跡

 鳥居に主連縄のかかる大伴神社

すでに田んぼは色づき、コスモスが咲き乱れていました

9:15 茂田井(間の宿)

廃校となった小学校跡地を過ぎ、まもなく間の宿で栄えた「中山道茂田井入口」に差し掛かり、茂田井の集落に入ります。

神明社

村の名主を祀った「神明社」は
すっかりセンダ草(引っ付き虫)で覆われていました


大きな蔵元があり門には杉の葉でできた「酒林」が下がっていました


若山牧水歌碑 若山牧水もこの地を何度か訪れて歌を残しています

白壁が続く道筋の古壁に高札場跡の案内板がありました。

この辺りから勾配のきつい坂が続きます
大きな石を割って街道を開通させたところから石割坂と呼ばれていました


白壁にコスモスがよく似合います


2メートル以上もある馬頭観音
日本橋から46里目の茂田井の一里塚跡、わずかに盛土が残っていました

 

10:10 芦田宿入口

芦田川を越えると常夜灯が設置された芦田宿の入口となります。


現在の芦田宿は「立科町」と呼び、当時をしのぶ建物が今も現存し
生活の営みを感じることができました。

蛇石様

大きな石に蛇が這った後のようにみえる「蛇石」
お参りすると乳呑児の夜泣きが治ると言われたとか

 

10:30 土屋家本陣跡
立派な門構えの屋敷で芦田宿の開祖であり問屋も兼ねていました。
門の左側には高札場跡、住宅を兼ねているようですが「見学はご自由に」の案内板に、中の建物を見学しました。本殿御殿は大名が宿泊を今に伝える建物で中山道唯一と言われているそうです。

土屋家本陣跡

 

11:00 松並木

芦田宿のはずれから急坂を登りきると、中北道標「←笠取峠2.3km →塩名田130km」と道標があり、江戸時代から有名だった「笠原峠の松並木」が笠原峠へと続きます。

 

枡形の男女双体道祖神と松並木


当時の松並木は峠までの15丁(1600メートル)続いたと言われますが、
今でも見事な松並木が続きます。
やがて松並木は国道と合流するといよいよ笠原峠の登山道がはじまります。

 

11:15 笠取峠

まもなく塚木が赤松であったといわれる笠取峠の一里塚(日本橋より47里目)を通り頂上へと向かいます。


笠原峠頂上(標高887メートル)

峠の名の由来は、風が強く、旅人の傘を吹き飛ばすところから

 

中山道旧道は消滅しているところも多く国道142号線沿いに歩いて行くと、何箇所かは「中山道元道」の道標に従って細い山道に入り、この道標を見落とさないように注意を払いながら進みました。


下りはつづら折りの坂を右に左にと進むと、馬頭観世音と野仏が草むらのなかに鎮座していました。ここが中山道?と少し不安になりながら薄暗い山林を進んでいきました。

 

12;50 松尾神社

まもなく、松尾神社の境内に入って行きます。この神社は酒造守護の神として信仰を集めていたのだそうです。本殿は総檜造り、欄干には見事な彫刻が施されていました。

再び旧国道に合流して、長久保宿に入っていきます。

 

13:00 長久保宿

街道はまっすぐ続き、旅籠らしい家が残る趣のある街並みでした。


一福処「濱屋」は現在民俗資料館となっていました。
一階部より二階部を突き出させた「出梁造り」が特徴的な総二階建て

中山道最古の本陣と言われている竹内屋本陣跡

屋根に当時の本うだつがのこる、県内最古の町屋

 

まだ先へ進むことができそうでしたが、そろそろ帰路の長野新幹線上田駅へのバスの時刻が気になりだしたのでバスセンターに寄って、どの辺りのバス停まで進み折り返すことができるのかバスの時刻を調べてから進むことになりました。

 

次の宿場「和田宿」に向かいながら、黄金色に色づいた田んぼと澄んだ秋空に白い雲、コスモスの花がどこの家の庭先でも揺れて、気持ちのいい街道歩きの一日でした。

四拍バス停から、長久保経由、長野新幹線駅上田を16:30に乗って帰路に付きました。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第11回 中山道ウォーク 前泊で小諸「懐古園」

2020-10-05 | 街道歩き

中山道街道歩きも、道中最大の難所「和田峠」越えを目前まで歩いたのが昨年の11月。厳しい冬を回避して、この春再開する予定でしたが、誰も想像することができなかったコロナによる自粛生活。再スタートすることもできずに11カ月が過ぎてしまいました。

やっと衰えた体力を奮い立たせて先回の望月宿から旧中山道ウォークを繋げることにしました。

先回は新幹線の佐久平から帰路に着いたので、今回は佐久平のホテルに前泊して翌日(101日)に再スタートを切ることにしました。

前日はお昼に佐久平に着きそのまま小諸線に乗り換えて、小諸の「懐古園」を訪れました。

秋の空は高く爽やかで、巡る季節に変わりないことにほっとしますが、このウィズコロナの状況下では、人々はみなマスクをして行く先々で手洗いと消毒を心掛け、新しい生活様式のコロナ時代であることを旅先でも実感しました。

まだ子供が小さかったころに蓼科山の帰りに懐古園に立ち寄った記憶はあったものの、当時は園内の遊園地と動物園の記憶のみで小諸城の記憶がほとんど残っていなかったので、とても楽しみにしていました。

懐古園は小諸の駅前から城郭がはじまります。

大手門は小諸駅を挟んで懐古園とは反対側にあり
「瓦門」とも呼ばれ、国指定重要文化財になっています。


線路を越えて寄木造りの二層の城門「三の門」を潜ります。

正面にある「懐古園」の大額は徳川家康の筆と言われています。



小諸と言えば島崎藤村の千曲川旅情ぐらいしか知らず、今回はこの島崎藤村の小諸での軌跡を知ることができました。

島崎藤村は恩師である小諸塾の塾長木村熊二のすすめで、明治32年から約6年間に渡ってここ小諸塾に赴任して国語と英語の教鞭を執っていました。
小諸義塾記念館では、当時の教育へ傾けた教育者の資料が揃い、その情熱の深さを感じることができました。

藤村記念館


黒門橋と北丸跡の弓道場

紅葉には早かった様ですが楓に覆われ紅葉の頃は素晴らしいと思います

天守閣は寛永3年の落雷で焼失した後、
徳川の政策により再建されなかったため現存するのは天守台のみ

写真からは少し無理のある
「小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子 かなしむ」

水の手展望台からは千曲川が見えました


夕方には佐久平のホテルに戻り、翌日の街道歩きのコースタイムなどを確認しました。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする