小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

今年最後の中山道ウォークは

2021-12-28 | ウォーキング

連日最低気温がマイナスを記録するような冬日が続いています。この寒さは45年ぶりだとか。冬になっても最後まで咲いていたベゴニアがついにこの寒さで無残な姿になってしまいました。
窓辺にあるシクラメン、シクラメンと言えば、反り返った花弁が特徴的ですが、今年頂いたシクラメンはクラシカルドレスという品種で反り返らず下を向いて咲いています。


このタイプの咲き方をプロペラ咲きというのだそうです

今年も残すところあと3日となりました。今年はコロナ感染による緊急事態宣言解除の隙間に、中山道を木曽の山の中から美濃の國とよく歩きました。
先週末も今年最後の中山道ウォークを美濃から近江の國へ進める予定でいました。ところが数年に一度という大寒波襲来の予報にビビり、でも滋賀県彦根市出身の友人に琵琶湖周辺は年内はほとんど雪は降らないという心強い情報を得てスタートすることにしました。
1日目は関ケ原宿、関ケ原さえ越えてしまえばと軽い気持ちでした。しかも関ケ原を通過する時は汗ばむほどの暖かさ(もっとも激寒を予想して着ぶくれ状態)でした。
今須峠を越えて今須宿、柏原宿と一日目の予定をクリアし5時過ぎに宿泊の米原のホテルに着きました。

ところが、翌日から3日間大雪が予想されるというテレビの大雪警報のニュースに、無理はやめようと急遽、翌日からのホテルのキャンセルと新幹線の切符の変更をしました。
翌日は滋賀県醒井宿から午前中に帰路につきました。夕方には彦根市が数年に一度の積雪40センチを超えたというニュースを見て、予定を変更したことに胸を撫でおろし、あんなに穏やかだった街道を思い出して、付近の住民のご苦労に思いを馳せました。

新年が明けたら、今回歩いた赤坂宿から醒ヶ井宿までを記録していきたいと思います。次の中山道ウォークは来春桜の咲くころを予定しています。
一年間応援ありがとうございました。

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冬至のころ

2021-12-22 | ガーデニング

今日は冬至、昼間の時間が一年で最も短く太陽の高さも最も低く、いよいよ厳しい寒さがやってきます。
温暖化と言われて久しく季節を感じることが少なくなってきた現代ですが、でもこの太陽の高さだけは変えられない、冬至はそんな貴重な日なのかもしれません。
季節の節目も感じることなく過ぎてしまう昨今、せめて今日は入浴剤ではなく柚子湯に入って、かぼちゃの煮物でも食卓に出そうかなと思っています。

霜対策で、冬の間家の中に入れていた鉢物を運び入れるのが
年々、大仕事になってきました
今冬からは、ビニールハウスで冬越しです

小さな葉ボタンのリースを作りました

先週末、久しぶりに孫を連れて
大森海岸の品川区民広場にある「しながわ水族館」に行ってきました
小さな子にとってはこのくらいの規模の水族館がちょうどいいのでしょう
アザラシはちょっと苦手だけどイルカはかわいいそうです

海の生き物も小さくてきれいな色のが好き
ペンギンもお気に入りのぬいぐるみみたい・・・だそうです



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第17回中山道ウォーク(加納宿~赤坂宿)第3日目(11月28日 晴)

2021-12-11 | 街道歩き

岐阜駅前のホテルに泊まりました。久しぶりに大きな都会にでた感じがします。ストリートライブで歌う若者を見て、若者が多い印象でした。
8:00 ホテルスタート

8:20 立派な門構えの脇本陣跡がありました

皇女和宮御仮泊所跡 江戸に向かう皇女和宮の心情を歌った直筆
「遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」
 中山道中、皇女和宮は訪れた先々で歌を残しています

8:45 阿賀多神社 加納の一里塚跡(江戸日本橋より百六里目)
加納宿の街道にはとにかく秋葉神社が多かったのが印象的でした。
神仏習合の火除け・火伏の神として当時は火事が多かったことで造られたのではと思います
9:20 多羅野(だらり)八幡宮
中山道の宿間で旅人の往来の休憩所となって、多羅野(だらり)餅が売られていたそうです
今も鳥居脇に休み処があって、私たちも小休止を取りました
秋葉神社と八幡神社、天満神社が同境内に祀り,催事は賑やかなことでしょう

10:00北野神社 祭神は菅原道真
立派な参道でした

10:18 河渡橋
長良川に架かる「河渡の渡し」は、川の行き来で賑わっていたようです
遠くに雪をかぶった伊吹山が、橋下には鏡のようにゆったりと流れる長良川が

10:28 河渡(ごうど)宿入口
橋を渡り、対岸を土手沿いに歩きます

土手脇に小祠が祀られていました(中山道はこの祠を目印にこの土手を下ります。)

10:50河渡宿の街並み
11:00河渡の一里塚跡(江戸日本橋より百七里)
長良川の川幅は広く、宿場も長良川土手近くにあったので
絶えず水害が絶えなかったという記録が残っていました

11:45 代官所跡と五六川
このあたりに幕府の直轄地である代官所(陣屋)を設けたと説明版にありました
高札場跡もすぐ先にあり、次の宿場美江寺の東口にあたります

五六川の名前は美江寺宿が江戸日本橋より数えて五十六番目の宿場ということに由来しています

12:00 美江寺一里塚跡
美江寺の境内に江戸日本橋より百八里目の一里塚跡と高札場がありました

暖かいおそばが食べたいと思いながら食事をとれるところを探しましたが、近くの街道沿いはどこもランチを食べるところがありませんでした。疲れたこともあって、美江寺の境内で朝調達したパンとおにぎりを食べました。ボランティアの方によって、とてもきれいに清掃されたお寺でした。

12:30 美江寺の町並み
宿場の中では規模も小さく、泊まる旅人も少なかったようです
二階の虫籠窓のある大きな元庄屋と問屋を兼ねた本陣跡

12:40 犀川
美江寺の外れに犀川が流れ
広重の木曽街道六十三次はこの辺りを描いたのだろうと言われています

しばらく行くと街道は県道と合流します。付近は大きな浄水場公園になっていて、市民の運動公園も併設されているようでした。中山道は公園の中を通りながら両側に田んぼが広がる農道を進んでいきます。
このあたりは、当時は杉並木だったようです。
13:20 揖斐川 堤防に向かって進むと伊勢湾にそそぐ揖斐川(いびがわ)を渡ります。「呂久川」とも呼んでいたようです。堤防下の良縁寺は、呂久の渡しで舟年寄りを務めた墓標のあるお寺でした。

13:40 小簾梅園
皇女和宮が降嫁の折、揖斐川を渡る舟中から眺めた紅葉した楓の美しさに
「落ち行く身としりながら もみじ葉の人なつかしく こがれこそしれ」と詠まれました
皇女和宮の歌はどんな状況下においても素直で自然で心に沁みるものでした
今まさに公園内はもみじで真っ赤に染まりみごとでした

この公園内のお休み処でボランティアの方から柿を持って行かないかと勧められました
私のザックはもうパンパン、柿など入る余地はありません。が、夫のリュックを見ると
まだほんの少し隙間が・・・
もう疲れているくせに欲張りな私たちは有難く頂いてきました
とっても重かったのに夫は頑張りました・・・
この美江寺の地は柿が名産で「富有柿」の発祥の地なのだそうです
それにしても帰宅してから、大きな柿がたくさんでびっくり、とても美味しかったです

14:20
平野井川を渡り土手の上をしばらく歩きます。「中山道七回り半」と書かれた道標を見ながら七つの曲がりを過ぎます。周りはまた何もない国道沿いに進みます。やがて右方向に「岐阜経済大学」の大きな校舎が見えてきました。
15:00
道は田んぼと比較的新しい住宅の中を右折左折を繰り返しながらやがて名鉄養老線の「東赤坂駅」の線路を横切ります。当初はここでこの日の行程を終える予定でしたが、次のJRの駅まで頑張ることにしました。

15:20 池尻の一里塚跡(江戸日本橋より百十里)

抗瀬川のホタルの碑
国内最大のゲンジボタル(大垣市天然記念物)が生息してるのだそうです

15:15 時の鐘モニュメント
赤坂宿の「時の鐘」モニュメントが宿場町らしい風情でした

赤坂港会館脇のイチョウが見ごろに色づいていました

15:30 JR美濃赤坂駅
予定していた宿場赤坂宿になんとかたどり着きました
岐阜県大垣市の大垣駅と美濃赤坂駅を結ぶその間たった3駅の美濃赤坂線
駅舎は1919年(大正8年)駅開業以来のままというレトロな木造駅舎に
鉄道ファンがよく訪れているようでした

日に数本しかないダイヤなのに、16:07分発に間に合ったのは幸運でした
大垣で乗り換え名古屋で食事を終えて、18:30の新幹線で帰宅しました
(総歩行数:34309歩)

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第17回中山道ウォーク(鵜沼宿~加納宿)第2日目(11月27日 晴)

2021-12-06 | 街道歩き

8:30 鵜沼宿スタート
前日はとっぷり日も暮れていたので「鵜沼宿」の道標に気が付きませんでした。

JR鵜沼駅よりスタートですが鵜沼宿の入り口に戻ります。高札場が復元されていました

9:00 鵜沼宿の街並み
常夜灯の脇に大きな柳の木があり、宿場の中心に入ります
町は明治24年の濃尾震災で壊滅な被害にあったものの
その後再築されて当時の面影を残す雰囲気のある町でした

立派なうだつの上がる商家と菊川酒造
明治4年の創業の菊川酒造の倉庫群は登録有形文化財となっています

9:20 茗荷屋梅田屋住宅
濃尾地震の壊滅的打撃の中で唯一残った旅籠

9:45 衣装塚古墳
宿の西出口先に岐阜県最大の円墳がありました(円墳としては県下最大)

10:00 津島神社と皆楽座

鳥居奥の拝殿で村芝居が上映され
回り舞台は文化財になっているのだそうです

まもなく国道21号と合流し、歩道もない交通量の激しい道路を進みます。この辺りの地名を各務原(かがみはら)市と呼び、往時は鵜沼宿を出ると加納宿まで一面の野原だったそうです。現在は幹線道路となって食事をするところも多く、少し早めのランチをゆっくり取りました。(昨日の疲れか、二人ともあまり調子がでてきません。休むところがあるとすぐ休みたくなります)
三柿野超交差点で国道とのY字路となり、旧道に入り交通量がだいぶ少なくなった気がしました。

12:30 六軒の一里塚跡
この辺りは「六軒茶屋」と呼ばれています
茶屋が六軒並んでいた名残から、ここの一里塚を「六軒一里塚」と呼びます

先の神明神社の馬頭観音は三面六臂の穏やかな顔でした

13:20 各務原市民公園
中2日目ともなると、なんとなく歩く足も重くすぐに休みたくなります
今までのような山の中ではなく、広い道路の街中を歩いているせいかもしれません

旧岐阜大学の敷地跡が市民公園となっていて、ここでまたゆっくり休憩をとりました
メタセコイアの黄葉が素晴らしかったです

13:50 新加納宿場
鵜沼宿と加納宿間が四里十町(17.4km)もあったことから休憩所を設ける必要があり
間の宿として新加納宿と立場がありました


15:30 庵看板と細畑の一里塚
旧道を進み長森細畑を過ぎたあたりに、廂の上に由緒ある古い看板がありました
ほとんど読めなかったのですが「明治水」と記されているようです
庵看板(いおりかんばん)というのだそうです

江戸日本橋より百五里目  珍しく両塚が残っていました

15:40 伊勢道追分 長屋門
旧道はやがて二股に出て、延命地蔵堂のとなりに「左 伊勢名古屋ちかみち 右 西京加納」とありました

先の「領下」という集落には立派な長屋門もありました

16:00 加納宿碑
陽も傾き始め、小春日和の暖かだった日差しも寒さを感じる頃
いよいよこの日の最後の宿場、加納宿に入ってきました

「御鮨街道」とも呼ばれているこの道は、
長良川で獲れた「鮎のなれ鮨」を将軍家に献上する主要路であったところから

16:15 加納宿東番所跡
現在のJR岐阜駅の南側が加納宿にあたり宿の東の入口は6つの枡形になって
宿の東西には番所が設けられていました

浄土真宗本願寺派の善徳寺

中山道加納宿の中心に差し掛かってきましたが
JR岐阜駅にも近く宿泊予定のホテルも近かったので
この日の行程をここまでとしました。(総歩行数:32474歩)

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第17回中山道ウォーク(伏見宿~太田宿~鵜沼宿)第1日目(11月26日 晴)

2021-12-04 | 街道歩き

前回の中山道はアップダウンも大きく体力もそれなりに消耗しましたが、ヤッターという気持ちもありました。
3日間歩くことにちょっと自信がついて、そこで2人の年齢を考えると、体調のいい時に少しでも中山道を先へ進めようと言うことになり、本格的な寒さが来る前に今回も2泊3日で決行することにしました。

11月26日 新横浜発7:21の新幹線ひかりで名古屋経由、名鉄広見線で「明智駅」に10:18着
この明智という地域は明智光秀生誕の地でゆかりの史跡も多いようでした。

10:30本陣跡スタート
伏見宿は木曽川を控えて、荷の集積地として、また「太田の渡し」の川止めなどが続くと
賑わっていたようですが、本陣1の小さな宿場町です

正岡子規は松山への道中、伏見宿に泊まり句を残しています

11:00 上恵土神社
神明神社と白山神社が合祀されていて、常夜灯が二つ並ぶ鳥居がありました

11:20 恵土の一里塚 
江戸日本橋より九十七里目 碑には「これより30メートル先」と刻まれています
なぜかこの先の一里塚には当時の雰囲気を残す一里塚が少なかったように思います

12:00 ランチ
しばらく交通量の激しい国道20号線を歩きます
今までランチには用意してきた(朝、コンビニで調達)サンドウィッチやおにぎりを食べることが多かった
のですが、さすが交通量が多いだけに、大手チェーンのレストランも多く、私たちは久しぶりにマックに入り
ハンバーガーとサラダのランチを取り、しっかりここでスマホの充電もできて助かりました        

12:45 太田橋
「今渡の渡し」はかって宿屋や茶屋が軒を連ね賑わっていたようです
昭和2年までは渡し船で木曽川を越えていたと記録にも残っています
「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と言われた中山道三大難所の一つでした

現在は交通量も多く車道のわきに人橋もあって難なく越えることができます
が、さすがに長い川幅でした
渡った対岸は「太田の渡し」と呼んで、太田宿に入ります
しばらく豊かな水量を湛えながらゆっくり流れる木曽川の土手を歩きます

13:15 古井の一里塚 土手下に江戸日本橋より九十八里目の一里塚跡がありました

木曽川の土手から下りて宿場に入ります
太田宿は古い町並みや枡形が残り、宿場の雰囲気もよく残っていました(花屋さんも古民家風)

13:45祐泉寺
宿場の火事でも焼失を免れた「火伏観音」があります
境内に芭蕉の句碑や坪内逍遥、北原白秋の歌碑が残っていました

14:00 古い町並み
永楽通宝の看板のある民家 江戸時代には茶屋と酒の販売を営んでいたそうです

旧太田脇本陣「林家住宅」 板垣退助がここに投宿した翌日岐阜で暗殺された

本陣の先の西の枡形を折れ木曽川の土手にもどり
日本ライン下りをまたしばらく歩きます
対岸は奇岩と紅葉が美しく日本ライン下りの趣がでてきました

この土手道は日本ラインロマンティック街道と呼ばれて
飛騨木曽川国定公園の景勝地となっているそうです。

15:30 岩屋観音
この土手道の終点から国道に戻り、しばらく歩くと右手に岩にへばりつくような細い道に入ります
さぞ当時は木曽川の川岸は難路だったのだろうと思います
やがて右手に「岩屋観音」があり、岩窟の中に観音堂がありました

15:40 うとう峠入口
線路踏切入口に見落としてしまいそうな案内板「うとう峠入口」があり
ここは単線の線路を渡るしかありません。鬱蒼とした山道に入ります
ところがここで大きな間違い、すぐにまた「うとう峠」という案内板に従って
丸太の階段状の山道を直登してしまいました

こんな急な山道が続くのかと・・・
それでも両側の木々に道しるべの赤いひもが結んであったので間違いないと思いました
ところが山の頂に出ても標識はなく道を見失ったかと思いましたが
また赤い道しるべに沿って、下りると中山道の「うとう峠」に出ました

16:40 うとう峠の一里塚
どうも山に沿って回っていた道を峠越えしてしまったようでした
この間30分ほどでしたが、日暮れが迫って辺りが薄暗くなって、とても心細い思いでした

鵜沼宿の入り口で日も暮れました
この日はJR高山本線で鵜沼駅から美濃太田駅戻りホテルに入りました
(総歩行数 36443歩)

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