小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

東海道五十三次 四日市宿~亀山宿(後編)

2007-10-17 | 旧東海道歩き
二日目の出発地点は、近鉄内部(うつべ)線の四日市駅から3駅先の「南日永駅」。午前8時30分、小さな無人駅に降り立ちました。このあたりは、新しい住宅が多く昔の面影はほとんどありませんでしたが、伊勢参宮道と東海道の追分があり、当時はどんなに賑わっていたかと思います。


江戸幕府が街道の1里ごとに交通の目安として設けた一里塚、「日永の一里塚」は、民家と民家の間に挟まれた格好で、碑だけが残っていました。


やがて、小さな集落を過ぎると、日本武尊が剣を杖かわりにして越えたと伝えられている「杖衝峠」、松尾芭蕉も「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と残している当時の急坂は、長い年月にカーブも緩やかになったのでしょう。難なく越えることができました。


四日市を過ぎ、鈴鹿市に入ると、やがて石薬師の宿場。この石薬師には明治の歌人「佐佐木信綱」の生家があり、街道沿いには信綱が残した歌がプレートに書かれて行く先々に立ち、街ぐるみでこの地が育んだ歌人の偉業を大切に伝えている様子を伺うことができました。


街道は、国道一号線と平行だったり、交差したりと付かず離れず進むことが多いのですが、時には寸断して、田んぼの中を進むこともあります。広重の「庄野の白雨」の絵を連想させる田園風景は、この季節、実りの秋を迎えて、神社の境内では笛と太鼓の音に合わせて獅子が舞っていました。



まもなく庄野宿にさしかかると連子格子の古い家が軒を連ねて、その静かな街並みは往時を偲ばせてくれます。


本日の終着である亀山宿に入ったのは午後3時過ぎ、街道沿いの畳屋、油屋、髪結屋といった表札から、職人や店屋が軒を連ねていたことがわかる家並みが続いていました。

関西本線「亀山駅」を午後4時に出て名古屋駅に到着。次回はいよいよ鈴鹿越え、昔は最後の難所と言われていましたが・・・もうひとがんばりとなりました。

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