小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

東海道五十三次 池鯉鮒宿(愛知県知立市)から宮宿(名古屋市)まで 後編

2007-04-03 | 旧東海道歩き
2日目(4月1日)のスタートは、名鉄名古屋本線「本笠寺駅」から。予定では昨日、宮宿(熱田)まで歩く予定でしたが、今回のコースは東海道の街道と名鉄線の鉄道が常に付かず離れずほとんど並行にあったことで、いつでもリタイアできるという気楽さから、寄り道が多くなり、思ったより歩数が進みませんでした。
本笠寺駅の東側にある笠寺一里塚は、他の一里塚と比べ、塚を覆うように榎木の根が張り、その大きさに圧倒されました。案内板には、市が200万円かけて、老木を補修して蘇らせたと書かれていました。


鳴海宿から宮宿へと歩き進めると、満開の桜の中に笠寺観音が見えてきました。雨に濡れていた観音に笠を差しかけた下女のやさしさが縁で、後に藤原兼平の妻になったという「玉照姫」の話が言い伝えられているお寺で、境内はなかなか賑わっていました。


名古屋市の市街地近くなると、当時の面影はすでになく、史跡の立て札だけをたよりにすすみます。まもなく熱田神宮の杜を右前方に見ながら、新堀川と掘川の合流点に到着します。ここは、当時宮宿と桑名宿の間を船で渡った「七里の渡し」、高櫓風の常夜灯が渡しの在りかを示します。宮から桑名までは、昔なら渡しで七里の船旅だったそうです。所要時間は、2時間とも5時間とも、時には7時間掛かったという記録もあるそうですから、昔の旅は、ほんとにたいへんだったのでしょう。



今回の街道歩きはここまで。名古屋名物「味噌カツ弁当」を買って、新幹線の人となりました。あぁー、楽チン、楽チン。
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東海道五十三次 池鯉鮒宿(愛知県知立市)から宮宿(名古屋市)まで 前編

2007-04-02 | 旧東海道歩き
400年前に江戸と京都を結んだ東海道を、地図を頼りに歩き始めて丸3年。やっと先週末に日本橋から332キロ地点に立つことができました。珍道中の相棒の夫と2人で、休日の土曜日から日曜日を利用して、大きな支障もなく4分の3までを踏破することができました。
池鯉鮒(ちりゅう)は、現在の愛知県知立市。この地名は神社の池に鯉と鮒が一緒にいたところから付けられたそうです。今でも街の商店の屋根には、屋号や昔の看板が掲げてあって、何代も家業が受け継げられている様子が伺えます。


知立市を過ぎると豊明市、国道1号線をしばらく進むと「阿野一里塚」左右1対のまま残っている珍しい一里塚がありました。現在は小さなベンチが置かれていて、菜の花と桜が静かに咲いていました。


しばらく進むと織田信長が今川義元の陣地を急襲して討ち取った場所といわれている桶狭間古戦場跡。小さな公園となっており、ここでも満開の桜が出迎えてくれました。


有松の町に入り、いよいよ名古屋市に入ったことになります。古い町並みが軒をつらねていて、うだつの軒が建物の風格に色を添えています。このうだつ「卯建」は「うだつがあがらない」の語源とも言われているだけに、当時はこの二階の壁面から突き出た袖壁は、火除け壁ともよばれて防火の役目を果たしていたそうです。裕福な商家はこの「うだつ」をあげた家を競って造ったそうです。


この伝統絞りの町並みは揃って「ありまつ」という絞りの暖簾を掲げて、「絞りの街」として観光に一役買っているようです。


有松に続く「鳴海宿」、ここも木綿の鳴海絞りが伝統産業として今も続いているという話ですが、有松が宿場としての街の景観を当時に近い形で残っているのに比べ、鳴海はすでに現在の住宅地として整備されて、面影をほとんど残していないのが少し残念でした。
この日は、名古屋に住む義妹夫婦に迎えにきてもらって、名古屋名物「ひつまぶし」を食べ、その後はライトアップされた桜の中の名古屋城を見て、久しぶりに楽しいひとときを過ごしました。(つづく)
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街道筋の小さな庭

2007-02-08 | 旧東海道歩き

古い佇まいをのこす東海街道筋の家並みは、時間がゆっくり流れ、長い時代を積み重ねた暮らしを垣間見ることができます。プランタの花もよく手入れがされていました。


垣根越しの蝋梅が、ほのかな香りを放って静かに咲いていました。


菜の花が、私が住んでいる横浜よりひと足先に、満開を迎えています。


陽だまりに、少し早過ぎたといったような表情で申し訳なさそうに、この地(知立市)の花であるカキツバタが咲いていました。
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赤坂宿~藤川宿~岡崎宿~知立まで

2007-02-06 | 旧東海道歩き
2月3日から2日間かけて、赤坂宿(日本橋から77里地点)から、旧東海道を知立まで歩きました。だんだんスタート地点が遠くなり、小田原を朝8時8分の新幹線に乗り豊橋から、名鉄名古屋線に乗り換え赤坂駅に降り立ったのが10時30分、随分遠くに来たものだと改めて思いますが、それだけ京都に近づいたわけで、到達点三条大橋も現実おびて来たようです。
2月3日 
午前10時30分 赤坂 大橋屋
赤坂宿のたたずまいを今に残すのが旅籠大橋屋で、現在でも旅館として現役で、風情のある建物が往時のまま残っていました。

午後1時 法蔵寺
徳川家康が幼少時代に過ごしたという家康ゆかりのお寺で、本堂の墓地には新撰組隊長の近藤勇の首塚がひっそりと木漏れ日の中にありました。

午後2時30分 藤川宿
家康伝説を色濃く残している藤川宿。安藤広重も描いた宿場入り口「東棒鼻跡」の柳の木は、今もまっすぐに伸びたしなやかな枝ぶりでした。

午後4時 天然記念物 岡崎源氏蛍発生地
旧東海道を歩いていると、各地で芭蕉の句碑を見ることができるのは、芭蕉がいかにきめ細かく歌を残したかがよくわかります。「草の葉を落ちるより飛ぶ蛍かな」乙川に西に傾いた太陽が長く射していました。

2月4日
午前9時 岡崎二十七曲がり
岡崎城の防衛上、外敵に城までの距離を長くするために設けられた「二十七曲」の屈折、これも旧東海道。まるでクイズを解くように歩きました。

午前11時 知立市松並木
大気汚染に逃れたのでしょう、きれいな松並木が続いていました。冬の間の養生でしょうか。まるで腹巻を巻いているようにも見えました。

午後2時 無量寿寺
在原業平が東下りの途中に立ち寄って歌を読み、「伊勢物語」の「八橋の杜若」でも有名なお寺。そういえば、あの京都の銘菓八橋にもカキツバタのイラストがあったような・・・。

午後3時 名鉄名古屋本線・知立駅
名鉄を乗り継いで、新幹線三河安城駅から帰路へ。お天気に恵まれ、なんとか2日間を歩き通すことができました。
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現代版旧東海道見聞記 ゴミ問題

2007-01-08 | 旧東海道歩き
ゴミ問題は、私たちにとってもっとも身近な環境問題であり、行政の取り組みが問われている問題でもあります。旧東海道を歩いていると、街道は現在の公道でもあるので、道端にあるゴミの収集場所には、ごみの減量・分別・リサイクルなどを呼びかける表示に、それぞれ市町村による取り組み方の違いがあって、興味深いものがありました。浜名湖の西部、湖西市のゴミの収集場所には、注意書きが日本語でないものもありました。きっとこの地域には外国人が多く居住しているのでしょう。いろいろな文化的な背景をもった人たちが、生活者として排出するゴミの行方を一緒に考えていくことの必要性を思いました。遠い昔なら各家で穴を掘り、ゴミを埋め、それがまた肥料になってうまく自然と循環ができていたのでしょう。などと、現在地球規模となったゴミ問題をいろいろ考えさせられる旧東海道歩きとなりました。


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旧東海道の街道に咲くオキザリス

2007-01-06 | 旧東海道歩き
暮れに歩いた旧東海道(白須賀宿から二川宿あたり)の道すがら、野性のオキザリスを2種類見つけました。やはり、私が住んでいる横浜より気候が温暖なのでしょう。街道沿いの庭先には小菊などもまだ咲き残っていました。オキザリスは種類も多く、葉の形、花の色も変化に富んでいますが、このオキザリスは葉もクローバー形で園芸種と比べて原型に近いものなのでしょう。陽だまりに肩を寄せ合うように咲いていました。


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現代版旧東海道見聞記

2006-10-13 | 旧東海道歩き
旧東海道を歩いていると、どこも町は一様にきれいで、それぞれの佇まいは、都会とはまた違った暖かい印象を受けました。それは多分、街道を歩いていると、隣人のような生活が玄関先や庭の様子から感じ取ることができるからでしょうか。
今回も街道筋にあるゴミの収集方法を撮って見ました。浜松市新居町はビンの色別収集、ビンの色によって再利用の方法が違うのですね。

少し前の話になりますが、袋井市の場合はこんなにたくさんの分別になっていました。その徹底ぶりには感心しました。
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見付宿(磐田)~浜松宿~舞坂宿

2006-10-10 | 旧東海道歩き
見付宿(磐田)~浜松宿~舞坂宿
東海道五十三次歩きもなんと4ヶ月ぶり、梅雨時や暑い夏を避け、台風が来ればリタイアし、当時の旅人から比べるとなんと軟弱な・・・とそんな声も聞こえて来そうですが、やっと秋晴れに恵まれたこの連休にJRの磐田駅を降りたって旧東海道を京都に向かって繋ぐことができました。
「あばれ天竜」と呼ばれた当時の天竜川は、洪水を繰り返していたようですが、今では水量も少なくグリーンベルトがどこまでも広がっていました。

この季節はどこを歩いても「村の鎮守の神様の~」と笛や太鼓に合わせて素朴な秋祭りが催されていました。舞坂近くの神社では、直径1メートルほどもあるかと思われる太鼓を若い衆が代わる代わる敲く様はなかなか勇壮でした。

舞坂の松並木は排気ガスの汚染を免れているのでしょうか。整備されてとても気持ちのいい街道でした。当時はこんな松並木がどの街道にも続いていたのでしょう。夏は強い日差しを遮ぎ、雨風を松の木の下で凌いだのかも知れないと当時が偲ばれました。

舞坂宿を抜けるといよいよ浜名湖、対岸の新居への船渡しの遺構である雁木(がんき)が浜名湖に面して残されていました。湖は秋の陽光にキラキラと輝いていました。

浜名湖を右に進みながら、2日間に渡る今回の旧東海道歩きは新居宿まで。京都三条大橋にまた一歩近づいたことになりますが、さて後何年かかることになるのでしょうか。
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旧東海道歩きがあぶない

2006-08-09 | 旧東海道歩き
旧東海道歩きも240キロ地点で停滞のまま、暑い夏を迎えてしまいました。暑いさなかの街道歩きには自信がなく、気候のいい時に歩こうなんて考えていると、年に何回も行けないことになってしまっているのが現状です。そんな暢気なことをしているうちに、ガイドブックとして愛用していた本がついに廃刊になってしまいました。「歴史街道ガイド・東海道五十三次を歩く」全5巻で、宿場ごとに25000分の1の地図つきで、旧東海道には地図上に赤い線で示されていて、街道沿いの説明も詳しく、このガイドブックさえあればほとんど道に迷うことなく歩くことができるという、私達にとっては座右の書ならず、座右の朋友みたいなものなのです。2年前日本橋をスタートするとき、完歩する自信がなかったので、1巻ずつ買い求めてきたのですが、3巻まで購入した時点で、どこの本屋さんにも在庫がなくなってしまいました。インターネット上で探しても「在庫なし」の切ない文字、しかたなく、アマゾンのオンラインショップで第5巻は定価1600円のところを、ユーズド価格2400円で意を決して購入しました。第4巻は値の下がるのを待っている間になんと現在4600円。なんとかしなければ、なんとかしたいと思いながら今日に至っています。
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旧東海道おもしろ見聞(1)

2006-07-04 | 旧東海道歩き
旧東海道を歩いていると、その地域地域でいろいろな暮らし方が垣間見れて、とっても興味深いのですが、街道沿いにあるゴミ置き場の表示がそれぞれ違っておもしろいのです。私の住んでいる横浜は、ゴミの分別は「燃やすゴミ」「燃えないゴミ」と区別しているのですが、小田原市のゴミ置き場には「燃せるゴミ」「燃せないゴミ」と区別していました。一瞬この表示に違和感があったのですが、よく考えてみるとゴミを目の前にした時、「燃やすゴミ」より「燃せるゴミ」の方が表現としてはわかりやすいのではと思い、思わず写真に収めました。いずれにしても、ゴミの分別方法が地域によっていろいろな工夫がされていて、なかなか興味深いものでした。
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