大阪証券取引所前の五代友厚の銅像 2011.2に撮影
NHK連続テレビ小説「あさが来た」は絶好調のようですね。
すでに2回ブログにしてます
次回 朝ドラ「あさが来た」の原作 「土佐堀川」
NHK朝ドラ 「あさが来た」のヒロイン 浅子の展覧会
中でも五代のことが脚光を浴びています
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
五代は大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。五代の発案で造幣局の桜の一般公開を実施したと言われている
お陰で、私も何回も行きました 最新は 桜の通り抜け 造幣局平成27年4月9日から4月15日までの7日間
明治2年(1869年)の退官後、紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。
他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。
大阪会議は明治8年(1875年)2月に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府(立憲政治の樹立)および参議衆就任等の案件について協議した明治憲政史上特筆すべき重大会議である。
この会議において、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたらしい。
大阪証券取引所の近くのビルの壁面にレリーフがあります。2011.2撮影
明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人が集まり「大阪会議」が開催され将来的な立憲政体・議会政治(三権分立)の方向性が示された。大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨。そうそうたるメンバーだ。
何故ここにあるかと言えば、このビルの左に会議を行った大阪の老舗料亭 花外楼があるからです。
大阪マラソンコースを歩いてみた その2
2015.12に大阪歴史博物館に行った時に五代さんの写真が展示されていました
ブログは ここ
「神戸事件」
慶応4年1月11日(1868年2月4日)に三宮神社前で起こった神戸事件
これは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に三宮神社前で起こった事件で、備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件のことをいう。この事件により、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹することで解決させた。
当時の外国側の要求は、事件を起こした人々の「死刑」だったが、当時新政府の官吏であった五代友厚の活躍により、「死刑」ではなく、武士として名誉ある「切腹」で解決することができた。
外交事件に対応が後手後手と混乱するなか、天皇政府の新体制を声明し、責任態勢を明確に各国に宣言すべきことを五代は建言し、各国代表を衆め宣言したのは五代に始まる薩摩藩の強い支援によってであり、これを契機に、外交官として政府に携わるようになっていく。
2010.2に参拝しました
三宮神社は大丸神戸店の北エレベーターで降りると、斜め前にあります
境内には神戸事件発生の石碑と当時の大砲があります 2010.2撮影
参拝記は ここ
いろいろと五代にまつわる場所を紹介してきました
あさが来たの五代のエピソードとして有名なのが、五代が言う「ファースト・ペンギン」です
政府官職として横浜に異動となった五代でしたが、大阪に戻るために退官してしまいます。五代は大久保利通から官職に復帰するように説得されますが、大阪に意中の女が居るとしてこれを固辞。九州の炭坑へと顔を出した五代は、
あさ(波瑠)のことを「ファースト・ペンギン」だ、と表現します。
ビジネスの教訓「ファーストペンギン」 その意味は
「ファーストペンギン(最初のペンギン)」とは、ペンギンの習性から生まれた言葉で、ビジネス界隈でよく用いられます。
氷原の真ん中にポカリと穴が開いていた時。多くのペンギンは穴の周りに集まり、中に魚が居ないか、獰猛な肉食獣はいないか、海の中の様子を氷上から窺います。しかし大抵のペンギンは命の危険を考えて無謀に飛び込んだりはしません。
そこへ、大胆不敵な一匹のペンギンが周囲が顔を見合わせ飛び込むことを躊躇っている中で、ドボーンと穴の中に飛び込んでしまいます。
この段階では、周囲のペンギン達はまだ海中に飛び込みません。その結果を見て、確実に魚が穫れるとわかった時に、ようやく残りのペンギン達が一斉に飛び込むのです。
リスクを恐れず新しいことに挑戦する「ファーストペンギン」は、大きな危険と引き換えに、時に多大なる利益を手に出来るのです。
五代友厚を演じるのはディーン・フジオカさん最近よくテレビで見かけますね。
あさイチにゲスト出演された時に久々にあの場面が放送されました。放送の時も気になったのですが
ファーストペンギンは「ファースト・ペングイン」
と聞こえます。ディーンフジオカさんは4ケ国語ができるようです さすがの英語力です
Penguinの発音、pengwinに近い
カタカナで書けば ペンギンではなく ペングインなのですね
ディーンフジオカさん、すごい人気です。
ドラマで五代さんが亡くなって、「五代ロス」という現象が出ているようです
wikipediaによると
DEAN FUJIOKA(ディーン・フジオカ、1980年8月19日 - )は、日本のモデル、俳優、映画監督。アミューズ所属。身長180cm、血液型A型。妹は、元チェキッ娘の藤岡麻美
福島県で生まれ、千葉県鎌ケ谷市で育つ。千葉県立船橋高校を卒業後、アメリカシアトルへ留学する。シアトル大学でIT学科を専攻した。カレッジ卒業後、アジアのさまざまな国を巡り、多様な人種・文化・言語に触れ、感銘を受けたそれらを詩や写真に収めた。中国武術、キックボクシング、チェス、写真撮影など趣味や特技は多岐にわたる。両親も祖父母も日本人[2]で、両親とも福島県須賀川市出身[8]。2012年7月にインドネシア国籍の女性と結婚、インドネシア語も話せる。二卵性双生児の1男1女がいる。
幼少から楽器演奏や楽典等、音楽的な影響を受ける。音楽制作はインドネシアでの活動を中心に行っており、作詞・作曲・プロデュースも手掛けている他、ラップ歌手としての活動も行っている。ギター、ドラム、ピアノなど楽器演奏もこなす。音楽は尾崎豊の曲や、松田聖子の「SWEET MEMORIES」なども好み。
先日のテレビは
A-Studioと
ぴったんこカン・カン、中居正広の金曜日のスマたちへとたっぷり楽しみました
まだまだ人気が出そうです
NHK連続テレビ小説「あさが来た」は絶好調のようですね。
すでに2回ブログにしてます
次回 朝ドラ「あさが来た」の原作 「土佐堀川」
NHK朝ドラ 「あさが来た」のヒロイン 浅子の展覧会
中でも五代のことが脚光を浴びています
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
五代は大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。五代の発案で造幣局の桜の一般公開を実施したと言われている
お陰で、私も何回も行きました 最新は 桜の通り抜け 造幣局平成27年4月9日から4月15日までの7日間
明治2年(1869年)の退官後、紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。
他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。
大阪会議は明治8年(1875年)2月に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府(立憲政治の樹立)および参議衆就任等の案件について協議した明治憲政史上特筆すべき重大会議である。
この会議において、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたらしい。
大阪証券取引所の近くのビルの壁面にレリーフがあります。2011.2撮影
明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人が集まり「大阪会議」が開催され将来的な立憲政体・議会政治(三権分立)の方向性が示された。大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨。そうそうたるメンバーだ。
何故ここにあるかと言えば、このビルの左に会議を行った大阪の老舗料亭 花外楼があるからです。
大阪マラソンコースを歩いてみた その2
2015.12に大阪歴史博物館に行った時に五代さんの写真が展示されていました
ブログは ここ
「神戸事件」
慶応4年1月11日(1868年2月4日)に三宮神社前で起こった神戸事件
これは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に三宮神社前で起こった事件で、備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件のことをいう。この事件により、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹することで解決させた。
当時の外国側の要求は、事件を起こした人々の「死刑」だったが、当時新政府の官吏であった五代友厚の活躍により、「死刑」ではなく、武士として名誉ある「切腹」で解決することができた。
外交事件に対応が後手後手と混乱するなか、天皇政府の新体制を声明し、責任態勢を明確に各国に宣言すべきことを五代は建言し、各国代表を衆め宣言したのは五代に始まる薩摩藩の強い支援によってであり、これを契機に、外交官として政府に携わるようになっていく。
2010.2に参拝しました
三宮神社は大丸神戸店の北エレベーターで降りると、斜め前にあります
境内には神戸事件発生の石碑と当時の大砲があります 2010.2撮影
参拝記は ここ
いろいろと五代にまつわる場所を紹介してきました
あさが来たの五代のエピソードとして有名なのが、五代が言う「ファースト・ペンギン」です
政府官職として横浜に異動となった五代でしたが、大阪に戻るために退官してしまいます。五代は大久保利通から官職に復帰するように説得されますが、大阪に意中の女が居るとしてこれを固辞。九州の炭坑へと顔を出した五代は、
あさ(波瑠)のことを「ファースト・ペンギン」だ、と表現します。
ビジネスの教訓「ファーストペンギン」 その意味は
「ファーストペンギン(最初のペンギン)」とは、ペンギンの習性から生まれた言葉で、ビジネス界隈でよく用いられます。
氷原の真ん中にポカリと穴が開いていた時。多くのペンギンは穴の周りに集まり、中に魚が居ないか、獰猛な肉食獣はいないか、海の中の様子を氷上から窺います。しかし大抵のペンギンは命の危険を考えて無謀に飛び込んだりはしません。
そこへ、大胆不敵な一匹のペンギンが周囲が顔を見合わせ飛び込むことを躊躇っている中で、ドボーンと穴の中に飛び込んでしまいます。
この段階では、周囲のペンギン達はまだ海中に飛び込みません。その結果を見て、確実に魚が穫れるとわかった時に、ようやく残りのペンギン達が一斉に飛び込むのです。
リスクを恐れず新しいことに挑戦する「ファーストペンギン」は、大きな危険と引き換えに、時に多大なる利益を手に出来るのです。
五代友厚を演じるのはディーン・フジオカさん最近よくテレビで見かけますね。
あさイチにゲスト出演された時に久々にあの場面が放送されました。放送の時も気になったのですが
ファーストペンギンは「ファースト・ペングイン」
と聞こえます。ディーンフジオカさんは4ケ国語ができるようです さすがの英語力です
Penguinの発音、pengwinに近い
カタカナで書けば ペンギンではなく ペングインなのですね
ディーンフジオカさん、すごい人気です。
ドラマで五代さんが亡くなって、「五代ロス」という現象が出ているようです
wikipediaによると
DEAN FUJIOKA(ディーン・フジオカ、1980年8月19日 - )は、日本のモデル、俳優、映画監督。アミューズ所属。身長180cm、血液型A型。妹は、元チェキッ娘の藤岡麻美
福島県で生まれ、千葉県鎌ケ谷市で育つ。千葉県立船橋高校を卒業後、アメリカシアトルへ留学する。シアトル大学でIT学科を専攻した。カレッジ卒業後、アジアのさまざまな国を巡り、多様な人種・文化・言語に触れ、感銘を受けたそれらを詩や写真に収めた。中国武術、キックボクシング、チェス、写真撮影など趣味や特技は多岐にわたる。両親も祖父母も日本人[2]で、両親とも福島県須賀川市出身[8]。2012年7月にインドネシア国籍の女性と結婚、インドネシア語も話せる。二卵性双生児の1男1女がいる。
幼少から楽器演奏や楽典等、音楽的な影響を受ける。音楽制作はインドネシアでの活動を中心に行っており、作詞・作曲・プロデュースも手掛けている他、ラップ歌手としての活動も行っている。ギター、ドラム、ピアノなど楽器演奏もこなす。音楽は尾崎豊の曲や、松田聖子の「SWEET MEMORIES」なども好み。
先日のテレビは
A-Studioと
ぴったんこカン・カン、中居正広の金曜日のスマたちへとたっぷり楽しみました
まだまだ人気が出そうです