無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『BADモード』での『君』は、息子のダヌくんであるという解釈と、ヒカルさんの親友さんであるという解釈の両方がある。解釈というか、作詞時点でヒカルが両方を混ぜ合わせたのだろうと思われる。冒頭の

『いつも優しくていい子な君が』

なんていう言い方は、勿論大人に対しても使えるが、こどもを見守る目線とみた方がよりしっくりくるだろう。続く

『そっと見守ろうか?
 それとも直球で聞いてみようか?』

とかっていう言い方も、一緒に住んでる相手だと思えばよりわかりやすい。

一方で、

『Here's a Diazepam
 We can each take half of
 Or we can roll one up
 However the night flows』

の部分は大人同士の会話でしかありえない。Diazrpam=ジアゼパムは向精神薬で、てんかんなどに対する鎮静作用があるらしい。そこらへんを踏まえて訳すと、

「おくすりあるよ
 半分こできるからね
 葉っぱも巻いちゃえるよ
 夜が更けるね」

みたいな感じだ。こどもにそうそう向精神薬は処方しないし、葉巻を吸うこともないだろう。

このように、複数の立場を組み合わせて歌詞を構成するのはヒカルにとってよくあることだ。例えば『二時間だけのバカンス』なんかは、1番の歌詞のドレスやハイヒールと2番の歌詞の『授業サボって』の間の整合性をとろうとすると必然的に『女教師と女生徒の百合百合不倫物語』という解釈に落ち着いてしまうのだが(※ 多分に個人的性癖が介入しています)、そんな力技を使わなくても、違う立場の物語が同調してるだけなんだと解釈する方が楽ちんだし、それがヒカルの意図なのだろう。

『BADモード』でも、息子に対する優しい眼差しと、親友(悪友な気もしますがっ)に対する熱い思いを両方混ぜ合わせることで、その間に共通する「大切な人を助けたいという願い」を抽出し、広く様々な立場のリスナーから共感を得られるように楽曲と歌詞を構成しているのだ。もっと言えば、ヒカルは、作詞を通じて世の中の異なる立場の人達の心を内側から繋げ合わせているのですよ。その為、その記述の整合性は常に矛盾ギリギリを突いてくる。先日例に出した『Can't Wait 'Til Christmas』なんかもそうだね。あれも、見方を変えれば「クリスマスが好きな人にも嫌いな人にも共通する思い」を抽出する為の作詞術なのだとも捉えられるのだった。

そんな風に考えたときに

『絶好調でもBADモードでも』

と相反する状態に対しても私は変わらないと宣言するこの『BADモード』という楽曲は、今を生きる宇多田ヒカルの作詞上のテーマソングなんだと言えたりするかもしれへんわね。うーん、ホントに新たな代表曲だと、思うわよ。

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前回の続きをサクッと書いておこう。ややこしくなる話は一旦飛ばすわん。


「ロンドンのぼく」と「パリの君」の2人が互いに会いたい時に、「フェアである」為にはどうすればいいか? 「パリの君」がぼくのいるロンドンに来るのがいいのか、「ロンドンのぼく」が君に会いにパリに行くのがいいのか。遠距離恋愛が長期間続いている、なんて前提があるんならその2つを繰り返したりもあるけれど、1回限りのことなら「フェアである」為にはどこか中間地点を探してそこに君もぼくも集まった方がいい。それが今回はマルセイユだった訳だ。

例えばこのお盆の時期に「実家に帰省」したご家庭はけっこういらっしゃるだろう。この場合はこどもの家族が親である老夫婦の許に出向くのが一般的だ。待ち構える方と、出向く方。この非対称は、老いた人達に遠出は難儀だというのもあるが、先祖を祀る「家」や「墓」がそっちにあるというのがいちばん大きい。帰省で会うのは家のためなのだ元々は。今はそんなの形骸化していて単にお互い久々に会うのが楽しみなだけだったりしますが、そうなってくると老夫婦の方が会いに来ても問題はない。(実際うちは今年そうだったし)

斯様に「家」を基準にすると誰がどこに出掛けるのいうのは非対称になりがちだが、『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』という歌では、ぼくと君がひとりの「個人」として対等な関係である所が何よりも大切だ。その関係性を表現するためにこの夏の合流地点に中間地点を選んでいるとも言えるのである。

勿論メインのテーマは「感染症禍下で人に会えなくなってたからそろそろ会いたいよね」なのだが、他に込められたテーマとしてこの「自立した個人同士の対等な関係性」というのもあるのだと思われる。別にコロナがテーマならロンドンからパリに会いに行くだけでもよかったんだから。

この、中間地点、2つの立場の間に中立する立場を持ち込む、というのはアルバム全体に通じている。

『BADモード』アルバムがヒカルにとって「初めてのバイリンガル・アルバム」になってた事を思い出そう。今までは「日本語アルバムを出すべきか、英語アルバムを出すべきか」という2択だった。パリに行く?ロンドンに来て貰う?という悩み方と同じ悩みをずっと抱えていたようなものだ。「いやそんなの両方の言語と等距離な感覚で作っちゃえばいいじゃん」と日本語と英語の中間地点を礎にして『BADモード』アルバムが完成した。その素晴らしさは語るまでもない。語るけど。

ヒカルのノンバイナリ宣言も同様だ。ヒカルは長年「私は女?それとも男?」という類の悩みを抱えていた。そこに「ノンバイナリ」という男と女の中間地点、どちらでもあり、どちらでもない居場所というのを見出して色々と吹っ切れた。

「男と女」という二項対立は、どうにも人をフェアから、平等から遠ざける。どちらかが有利優性でどちらかが不利劣性になりがちだ。これは、2つの点しかない場合は状況が安定しないからだ。これは前回幾何学的に見たとおり。

ここに3つ目の立場、ノンバイナリを加えると、それら3つの性が相対化され、男女間の二項対立というものも減退していく。男女問わず性差別からの脱却というのは、個々人の自立を重んじる価値観の為には不可避的なファクターになるだろう。

そこまで見越してヒカルが『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』の歌詞を書いた……かどうかは正直わからないが、根柢にある思想としてはそういうことになるのだと思われる。全く以て、この曲がカルティエの「トリニティ」─三位一体というコンセプトと同調したのは運命だったとしか思えないのよね。

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