無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「SONGS OF TOKYO」でヒカルさん、「なぜ敢えて恐怖と向き合うか」と問われて「知りたいから」と即答していた。潔い。


https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/9f8a2557fd80ad57cbc220721a9eea93
そういえば落合健太郎氏とのインタビューで「音楽以外でチャレンジしてみたいことは?」と訊かれて躊躇いながらも「勉強したいです」と断言していたなヒカルさん。大学に戻って学びたいと。つくづく、知りたい人なのだ。

知らないことを知る、というのはなかなかに楽しいものだが、それ以上に「わからないことをわからないままにしない」のも非常に大切だ。私の言葉の使い方でいえば、自分自身を大切にする事の頂点がこれだと思う。知らないことは知らない、わからないことはわからないでいい。日常で必要な知識や理解は自然に身につくだろう。しかし、ただ単なる「わからない」という自分自身の内側にしかない“感覚”の為だけに敢えて恐怖に立ち向かうとか大学に復学するとか、そうやって自分を奮い立たせたり動かしたり出来るのは、そうね、こんなに自分自身のみの問題に向き合ってることもないだろう。そう思うのだ。純粋なる「自分自身のため」。

一方でヒカルは「SONGS OF TOKYO」で「ありのままのつもりでいたんですけどありのままの自分がわかってなかった。そこが一致してきた。」とも語っていた。己を知る、己を理解するのもまた「知りたいから」というシンプルな動機が最初にないといけない。でなくば何も動き出さない。そこに向かって宇多田ヒカルが宇多田ヒカルを少しずつ理解しつつあるというのは、朗報であり僥倖であり天恵でもある。

そして、まだそこなのだ。その地点にしか到達していないのだ。『BADモード』のようなとんでもない作品を完成させておいて、まだ「やっと自分のことをわかってきたかなぁ」という段階なのである。当然、才能の限界とかも見えていない。「ここには辿り着けない」と悟ったことも過去にはあるかもしれないが、まだまだ行ける場所総てを見極められたわけでもない。そもそも「知りたい」と思える時点で「知ってない」「わかってない」んだから。

そして、それが原動力であることにそこはかとない嬉しみを私は感じている。他の欲求や欲望に較べると決定的な点がひとつ違っていて、知らないことを知る、つまり知りたいという欲求をひとたび満たした時に更に得られるのは倍増した更なる「知らない」「わからない」なのだ。満たせば終わるのが食欲や睡眠欲や性欲だが、知識欲や理解欲は満たせば満たすほど更に強くなっていく。全く逆なのね。

この道を音楽に見出したヒカルが音楽を辞めるのは途轍もなく難しい。耳が聞こえなくなるか声が出なくなるか、そういうことでもない限り離れられないだろう。「わからない」を捨て置けるのだとすると、あれほど「自分自身を大切に」と言ってきた今までのヒカルを裏切る事になるだろうからこれも難しい。まぁそもそも妥協する理由がないやね。辞めないわ。

なので、ヒカルの「やる気」の心配ってあんまりしなくていいのかも。心身が健康でさえあれば、徹底的に自身の「知りたい」を追究するだろう。我々は固唾を呑んで着いていき見つめていればいい。お金を稼いだとか有名になれたとかそんな儚く弱い動機が主軸ならもっと心配だったが、なんだろう、そういうのってもう世界が遠過ぎてこうして書いていて空虚ですらあるな。ヒカルが知りたい人で、実際に知ろうとしていて、意地でも知る人で、本当によかった。私も知りたい人なのだ。

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いやもう実際は大したことないのに情報量に圧倒されてる気分。「今週テレビ出たよ。来週も出るよ。」ってだけなんだけどねぇ。不思議。人は喜ぶとキャパが狭くなるのか?

そして昨夜にはヒカルさんがインスタ投稿。うち捨てられたと思しき青いくまのぬいぐるみと、部屋に飾られた花束と。昨日は圭子さんの命日だったのだが日本時間ではもう翌日23日になっていて。寂しいというのとも違うのだが嗚呼追悼するにしても地球のサイズ感は大きいんだなと再確認せずにはいられなかった。圭子さんも生前は国際線に乗ってあちこちに飛んでいたようなので、こういう感覚で弔う方が妥当なのかもわかりませんが。

飾られた花束のもつ花言葉に関してはよく知ってる人に任せるとして。なんだろうな、手段といいタイミングといい、どこか「外向け」の感覚があるな。いやヒカルから届くアウトプットはそりゃ全部外向けなのはそうなのだけど、昔のメッセはたまに独り言の延長線上にあったりもして。代表的なのが『暇・・・曲作れよ!(笑)』とだけ記された1999年6月20日のメッセとか。それを我々に聴かせてどうすんねんという一言。こういうのがいいのよねぇ。Twitterって本来そういう一言を投稿する空間だった筈なのにどうしてこうなった。

昔はお母様の追悼となるととてもヒカルの、いやさ宇多田光さんの個人的な感情が非常に強く出ていたと思うが、今は、なんだ、いちファンとしてのアーティスト藤圭子の追悼とか、宇多田ヒカルが亡き母を想うか事に対する世間(毎度だが誰なんだそれは)の目線とか、なんだかそういうのも次第に含まれてきてるなというのも感じさせる今回のインスタの投稿。ささやかでもアピールすることに意味があるというか。

年月が経ち遺影を飾る事への心理的抵抗も薄れてきて、更に我が子のおばあちゃんへの反応などもみて、時計の針が進んでいる印象を持った。あたしが死者なら我が子が死んだ親をいつまでも想い続けるのはとても嬉しくある反面、生きてる間は生きてる者同士で大切にしあって欲しいと我が子に願いそうなのだが圭子さんがどう思うかは知らん。そもそも死ぬってのは……って余計なこと言いそうなので止めるけど。

『花束を君に』という代表曲をもつ宇多田ヒカルが母の命日に花を飾る事の与える印象は、母のことになると冷静さを失うヒカルであってもそこは予測され得ることで。もう既に写真一枚で雄弁過ぎるほどなんだが、あれだな、曲作ってるのかもしれへんなぁ。宇多田光モードと宇多田ヒカルモードが混在する中で日常が紡がれていく。1個前の青いくまのツイートの意味はよくわかんないんだけど、無意味だったら嬉しいなぁ。

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