無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「私は固定ファンは要らない。曲ごとに好きになってくれたりならなかったりしてくれればいい。」という趣旨の発言をHikaruは(言い方のニュアンスはそれぞれ違えど)してきている。それが何よりの「ファンクラブ無し」の状況への返答となっているし、私もそれでいいと思っている。

だがしかし。このやり方には大きな弱点がある。Hikaruの次に出した曲を好きにならなかったりした後や、そもそもHikaruが曲を出していない時期などに、リスナーが「どうすればいいのかわからない」のだ。要するに暇になる。

「曲毎に好き嫌いを判断」とはいうが、こういう事が出来るのは「他にも音楽がいっぱい溢れている」状況が整っている時に限る。普段音楽を聴いていない人が突然Hikaruの新曲が出た時にだけ戻ってきてそれ単体で曲を判断する、というのも有り得るし実際そういう人は居るのだろうがその人は明らかに「Utada Hikaruそのもののファン」である。Hikaruの曲の為だけに戻ってくるのだからね。

Hikaruの言ってるのはそうではないだろう。色々聴いていく中で、「前のはそんなでもなかったけど今回の宇多田の新曲いいね。買ってみよう。」とか「いや~俺はこの曲はパスかな~」という風に曲を聴いて欲しい、という事だろう。「ヒカルちゃんのは全部素晴らしい!」と言われるのは、確かに嬉しいんだけど、今後の曲作りの参考にならないし、それは全部嫌いと言うのと何が違うのか悩み始めるとわからなくなってくるし、痛し痒しという感じ。

で、何が言いたいか、何が弱点かというと、ヒカルはまさしく「ノージャンル」なので、ヒカルを聴いていない時に、新曲を買わなかった時に「じゃあこっちのアーティストの新曲を買おう」というアーティストがどこにも居ない点だ。そりゃ、これはヒカルにはどうしようもない事だ。彼女に責任はない。

例えば長年メタルファンをやっている身からすれば、聴いてみたい新譜は毎月毎週山ほどあるけど資金は有限だし聴く為の時間はもっと限られているのだからと、大概幾つかある候補の中からピックアップして新譜を購入する、という習慣が身に付いているから、「GAMMA RAYの新曲イマイチだったから後回しにして今回はSINBREED買っとくかー」みたいな事を言う訳だ。後回しになったヤツは何ヶ月とか何年とか後に中古盤を購入して聴くとかいう扱いを受ける。限られた資金と時間はそうやってやりくりされていく。

そのやりくりのサイクルが90年代後半には多くの邦楽リスナーに存在した。いやホントなんだって若い子はピンと来ないだろうけどさ。1998年までにそれはそれは大量の「J-popリスナー」が一般人の中に普通に大量に居たのだよ。その中で多くのリスナーに「これは買っておかないと話にならない」と思わせたのが「FIRST LOVE」アルバムだったのだ。あの時代背景抜きにこの超絶特大ヒットは語れないのである。

ヒカルが復帰してもその状況は変わらない。彼女は"別の選択肢"を提供する特定の市場・シーン・ジャンルに属する事はない。彼女の曲が"選択肢"のひとつとして成立する為の"他のミュージシャンたちとのもちつもたれつ"は生み出されない。そこらへんが"宇多田ヒカルファン"の生き方の難しい所だ。彼女が居ない時は結構てんでバラバラだ。そこがまたいいんだけど、と私が思えるのは私が長くやってるせいもあるんだろうかな。


なんかおかしい。ヒカルのあるべき立ち位置は何なのか。理想論に過ぎないが、私が考えるのは「音楽を聴く・買う習慣を一般の人が身につけるキッカケになれる存在」というのが、宇多田ヒカルという人に最も相応しい。まず入り口となれる事。そしてそして、そうやって音楽を聴く習慣を身につけた人が様々な色々な音楽を聴いて回った挙げ句に「いちばんすばらしいのは、結局最初に聴いたヒカル」だったと言わしめる事。つまり出口となる事だ。初心者にとってもベテランにとっても、結局いちばん。これになれたら究極だ。そんな存在はThe Beatlesとかしか思い付かないが、まぁそうなっちゃってもいいんじゃないかな。遠慮は要らないよ、うん。

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なんだかKADOKAWAとDWANGOが合体するそうな。名前をKADOKAWANGOとかKADOKADOWANGOにしたい衝動にはかられなかったのだろうかと最初に頭をよぎったがそういう事でもないのかな。今季はデートアライブを放送していなかったりしたのでKADOKAWA本体とは寧ろ距離が出てたんじゃないかと思っていたが違ったみたい。

NHK受信料はラジオ受信料のつもりで払っている(ルール的にはラジオ受信機の所持は受信料支払の対象にはならない)私だが、ニコニコ動画のプレミアム会員である。テレビより遥かに使用頻度が高いので月額540円は安いもんなのだが、使えば使う程、これは日本固有のシステムかもなぁ、とほんのり思う。

段幕を右から左に流す、という画期的な手法はニコニコがまぁ発端と言ってよいと思うが、果たしてこれが日本以外の国で受けるかどうかはわからない。日本人の言語的精神構造上、「世間の空気」を直接感じ取れる機能がマッチしたのは間違いがないと思われる。個々人が楽しむより共有やシェアを重視する風潮。ひとりぼっちネタにツッコミを入れる時に一斉に皆が「おいやめろ」段幕を放つのをみて、それさえも共有の為のネタなんだなぁと感心せざるを得ない。

昨日NHKFMを聴いていたら昨年メジャーデビューした「それでも世界が続くなら」というバンドのブレインさんが出ていた。そのサウンドは、そういった「孤独の共有」を、(ニコニコとは正反対に)シリアスに真正面から捉える歌詞をフィーチャーしたロックで、「そういえば歌にはそういう"機能"があったよなぁ」と思い出させられた。今はSNS等が発達し過ぎて、瞬く間に「ひとりぼっちクラスタ」が出来上がる。それを掬い取る為には2ちゃんねるの匿名性などは見事なものだったなぁと今更ながらに嘆息する。

そういった歌の"機能"に最も忠実だったのが長年の宇多田ヒカルであった事に異論を挟むのは難しい。特に、時代は流れ、本人が"大家族と結婚"するというからには、その色合いは決定的に変わる。案外、どちらに変わるかはわからない。よりその色を深めるかもしれず予断は難しいのだが、例えばコーラス・パートにヒカル以外の声が"混じって"きたりすればそれはわかりやすい変化として捉えられるだろう。大家族に囲まれている感覚の中で作る歌がどのようになるかはまさにこれからの事なので(カトリックだと式挙げるまで同棲しねーんじゃねーの?)、ヒカル自身もわからないかもしれない。みんなで、楽しみに待っていよう。みんなで…。

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