無意識日記
宇多田光 word:i_
 



私の一昨年2012年のお気に入り第1位は桜流し、第2位は桜流し(Instrumental)だとは何度か書いている気がするが、そういえばそれだけ気に入っているのにこの曲が共作だというのを忘れていた。この曲のクレジットはUtada Hikaru/Paul Carterである。

作曲のクレジットをHikaruと2人で分け合うというのは並大抵の事ではない。何かサウンド上のアイデアを出したという程度ではせいぜい(というのもおかしいけれど)編曲者クレジットに名を連ねるにとどまるだろう。「このフレーズがないとこの曲が成り立たない」位の決定的なメロディーを彼は提供したに相違ない。

Youtubeには彼がピアノで独奏する桜流しがアップロードされている。これを見ると、やはりここで弾いているピアノの部分が彼の作曲なのかなという気がしてくる。唐突に余談なんだけど、ThisIsBenBrickって何? 余談終了。

しかし、この冒頭の部分を書いたのはどう足掻いたってHikaruだろう、という気持ちも強いのだ。この、儚げに降りかかるようなシンプルで美しい旋律は、SAKURAドロップスやStay Goldのあの印象的なフレーズを作ったのと同じ人の手によるものだ、という方がしっくりくる。

では、と他を探してみる。で、Paulが貢献したのはこれかもしれない、と思い立ったのは『私たちの続きの足音』の後に挿入され、ピアノからベースへと引き継がれながらどんどん底に沈んでいく、あの後半の主旋律だ(エンディング前までずっとこのフレーズの繰り返し)。あのフレーズなら、確かにあんまりHikaruっぽくないかもしれないし、楽曲の後半は完全に主役なので、このフレーズを出したのがPaulなら間違いなく彼の名前が作曲者クレジットに乗る。多分、こちらではないかなという思いが私は強い。

ただ、前半と終盤は基本的には同じ歌メロ『開いたばかりの~』なので、その両方のバックで鳴らされるフレーズを異なる人が作曲した、となるとなかなかにトリッキーかもしれない。それに、どちらが先に生まれたかもわからない。終盤の(歌と器楽の)組み合わせが先で、冒頭の(歌とピアノな)組み合わせの方が後から出てきたアイデアである可能性もある。なかなか一概には言えないのだ。

それに、共作のプロセスによっては、そもそもどちらのアイデアなのかが判然としないケースも考えられる。キッカケとなるフレーズを弾いたのは僕だけどそれを大幅に改変して見る影もなくしたのは私、なんて事もあるかもしれないし、最早どちらが先に言い出したのか思い出せない事もある。ここらへんは、本人たちに訊いてみないとわからない。

しかし、野暮な私。こうやって完成した楽曲が素晴らしい(もう一年半も前の曲なのか…)のだから、それの細部を誰が作ったかなんて聴き手としては些細な事だ。勿論、クレジットは収入や評価に直結するので可能な限り正確でなければならないが、それは送り手側がきっちりと片を付ける話。出てきた料理が美味いのなら誰が料理したかなんて二の次で御座候。


FL15特集を放っておいて今日もこんな事を書いているのは、私の今の本音が「桜流しを書いた人の次の曲は一体いつなんだ」という所に集中しているから。ぶっちゃけ、勿体無いんだよ。ここまで才能が漲っている最中に曲をリリースしないだなんて。15年前より今でしょ、今。帰ってきた時に「アー活休止しててよかったねぇ」と言わせられるレベルは、復帰が遅れれば遅れる程高くなる。そこはよくよく肝に銘じておいて欲しいものだ。何様だよ俺。(………俺様だろうなぁ…….)

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iTunes Matchが急遽日本でも開始されたと聞いて最初に思ったのは「iPodClassic販売終了になるんかな~今のうちに買っといた方がええをかな~」という事だった。あらゆる音楽がストリーミングで流れ込んでくる、いわばポータブルプレイヤーの"パーソナル・ラジオ"化が進んでいる。

ちょっとTwitterとの連想をはたらかせてみる。Twitterは、誰1人として同じ風景を見ていない。PCかタブレットかスマートフォンかガラケーか、クライアントは何を使っているか、フォローは誰か、リストを活用しているか…パーソナルカスタマイズできるレベルが格段に上がっている。恐らく、Spotify等のストリーミングサービスはTwitterの音楽版のようになっているのではと推測する。使った事がないけれど。

昔の選択肢はせいぜい両手で数える程だった。大手新聞紙、地上波テレビ局、週刊誌、漫画雑誌、野球球団、等々…いずれも、皆が把握出来る程度の振幅しかなかったのだ。

今は選択と推奨の個人特化は基本になりつつある。Spotifyは馴染みがないだろうが(日本でそう言うてる間に海外では次のサービスに置き換わってるんじゃないか)、Amazonのレコメンドなんかはかなりわかりやすいか。ええとこついてくるなぁと感心せざるを得ない。

iTunes Matchも、消費者側からみればオンラインでの音源の管理だが、提供側からみれば個人情報の把握だろう。自動化されたパーソナルカスタマイズ。この流れは止められそうにない。


こんな中で歌を唄うなら、それを見越すなり追い越すなり無視するなり、何か新しいアプローチが必要だ…というか、作詞家作曲家の普段の音楽生活がそうやって個人特化していくとすれば影響は免れ得ないだろう。

ヒカルの場合、その流れをどう感じているか。何が言いたいかといえば、選択と推奨の荒波とは、カテゴライズの細分化に他ならないからだ。あなたはこのジャンルの曲を選びましたね、では同じジャンルのこちらは如何でしょう、というのがレコメンドの基本である。宇多田ヒカルというブランドは、このジャンルとカテゴライズという世界観から孤立している。わかりやすく言えば、アニソンのレコメンドを辿っていっても桜流しには辿り着かないし、桜流しからはどのアニソンにも辿り着けない―少なくとも音楽的には。実際には、カラーやガイナックスの他作品の主題歌等を推薦されるとは思うが、それで曲を気に入るかというと相関は薄い。勿論、楽曲との出会いの機会という根本的なファクターを手に入れていはするのだが。

こうなった時には2つの極端な道があろう。どのジャンルにもカテゴライズされず孤立して取り残されるか、或いは総てのジャンルにおいてレコメンドされるかだ。宇多田ヒカルというブランドに相応しいのは後者だろう。音楽を聴く者なら誰しもが新曲に注目する。そっちの位置なら収まりがよい。ある意味、ヒカルは馬鹿売れするか全く売れないかという2つの未来の間を常に行き来するミュージシャンとして認識されていくかもしれない。結構売る方はギャンブルだな。

もっとも、ヒカル自身は「それも面白いんじゃない」と思ってるかもしれないが。頼もしいというか無謀というか。個人特化の空気。ヒカルの普段の音楽生活がどうであるかによって、捉え方は変わるだろうな。何が言いたいかといえばKuma Power Hour I miss youという事で。

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