無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Pop Artistとしては売上が大事―という話の流れではあるのだが、さてこの国で問題なのは、その売上の基準が無くなってしまった事だ。

オリコンはCD売上をメインに据えている為、多種類売りが主力である昨今では、アーティストのファンの熱心度を測る事は出来ても、楽曲の浸透度等の目安にはならない。確かに、オリコンチャートが過去に何らかの意味で正確に音楽の評価を反映していたものだったのか、という疑問は依然として残るものの、少なくとも、「それが目安となっている」という幻想は共有されていた。

自分も小さい頃は「ザ・ベストテン」を毎週楽しみにしていた身だ。自分の好きな曲の順位が上がれば嬉しいし、下がれば悔しかった。実際あの番組は、ベストテンから落ちたら出られない即ち曲が聴けないのだからそりゃ切実だった。チャートは、そうやって喜怒哀楽と共にあったのだ。

今、そういうものが何かあるのかというとどうだろう。私は思い当たらない。

ヒカルが復帰してくるとして、一体、何がどこでどれ位売れたら「成功した」と言えるのか。これがさっぱりわからない。試聴PVのUTUBEにおける再生回数なのか、それに関するTweetのReTweet数なのか、iTunesStoreでの順位の推移なのか。

レコード会社からしてみれば、様々なものの複合として収益を上げられればいいので、そういうわかりにくさも大して気にしてないのかもしれないが、一般リスナーにとっては、昔は、チャートアクションというのはそれだけでエンターテインメントだったのだ。それを自覚的に取り込んだのが90年代の電波少年でありASAYANであったし、00年代は秋元康だったのだ。もう彼の所に来る頃には、歌ではなく人の人気投票になっていたんだけど。昔チャートアクションを娯楽として楽しんでいた人は、今は秋元康プロジェクトを楽しんでいるかもしれない。

話がやや逸れた。ヒカルは何を基準にして成功というのか。基本に立ち返って、聴いた貴方が気に入ってくれればそれでよい、というので落ち着こうか。私はそれでいいのだが、Pop Artist宇多田ヒカルの"威力"は、それだけに留まるものではない。周囲に宇多田ファンだと公言していれば、「今度の宇多田の新曲売れてるんだってね~!よかったじゃない!」と声を掛けられるようになる。これは素直に気分がいい。この時の"いい気分"が与えられるのが、Pop Artistの強みであり社会性、社会的威力なのだ。音楽自体が与える満足感に更にプラスαプラスβγεと娯楽が加わっていく。そのオプショナルの楽しさを、果たして復帰後のヒカルは与えられるか。それが可能な状況になっているか、である。

ビルボードならまだまだ権威があるんだからいっそ日本未発売にしてまず米国で…とか意地悪な事を考えてしまった。まだまだ海の向こうではチャートは娯楽たりえるし、グラミー賞の権威だって衰えていない(受賞したらまた売れるもんね)。だからいっそという訳だが、それはまぁそうなった時に考えるとして。

ヒカルは、Be My Lastの時からiTunes Storeでのチャートアクションについて積極的に言及してきた。しかし、どうもイマイチ盛り上がらないのは、Appleの演出下手と、何より「宇多田があのアーティストより上の順位…ってそりゃそうだろ」という並びにしかならないのが原因なのではないか。要は昔の「あゆと宇多田どっちが勝つか」みたいなスリルがiTunesチャートにはないのだ。これはゆゆ式、もとい、由々しき事態である。

妙案は思い付かない。Facebookページを開いていいね!の数を競う…考えただけで軽く虫酸が走る。ないだろうな。CDの売上もダウンロードチャートも盛り上がらないとすれば、何を目安にすればいいのだろうか。随分考えたがやっぱりわからない。ライバルが居て、その誰かと同じ土俵に立って、というのが思い浮かばない。復活の演出には、随分苦労するに違いない。


これだけ書いてても私個人はどこ吹く風。最高の楽曲を最高のサウンドと最高の歌唱で聴かせてくれればそれでいい。それだけは、しつこく念を押しとこう。ただ単に、「頑張れ梶さん!」というだけの事なのである。はいw

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今やあらゆるコンテンツは複合的だ。ただひとつの感覚―視覚のみ、聴覚のみといった提供の仕方は下火である。実際、ipodやwalkmanといった元々音声再生機だったものが今ではiOSやAndroidを載せて機能的にはもう何でも有りになっている。動画に写真に文章にゲームに…音楽はそのうちのいちコンテンツ、いやいちパーツに過ぎない。

こういう時代だからこそ、ヒカルには音楽のみで勝負して貰いたい、と言うのは我が儘が過ぎるだろうか。

ライブにしてもそうである。エンターテインメント産業が成熟していると言ってしまえばそれまでだがライティングや同期映像、衣装に3Dにダンスにアクロバットに…ステージは幾らでも極彩色に脚色できる。それで楽しいんだからいいんだけども。

そういう中でマイク一本、というのが格好良いのではないか。余程自信がないと務まらないが、ヒカルクラスのアーティストでそういうスタイルでライブが出来る人間は限られている。

勿論そういう試み自体は散見されている。しかし、なんというのだろう、今は「付録」「付加価値」が多すぎる。ビックリマンチョコも投票権付きCDも同じだが、そして、付録・おまけの方がメインになってゆく。それ自体は悪い事でもなんでもないのだけれど、「お得感」ばかり演出して、あれ、真ん中は空っぽなの、という風にはなっている。

ヒカルは、逆をいくべきではないか。リリースもライブも「たったこれだけ」だけを提示してそれでいけないものか。梶さんからすれば「それじゃ俺達のする事がなくなる」になっちゃうんだけど、その肥大化が本来いびつなのだという所まで立ち戻るのは吝かでもないんじゃないかな。

純粋主義過ぎる、とは自分でも思う。一方で、受け取り手として、何か毎日情報の洪水に飲まれているから、シンプルでわかりやすい、「ああ、これだけなのか。そしていい。」というようなものに飢えているのかもしれない。あれやこれやとつく尾鰭を全部取っ払って、ただ「歌」だけが目の前にあったのなら。一息つけるような気がする。自分が息をしているのを思い出させてくれるかもしれない。

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