トシの読書日記

読書備忘録

世界と一致したまま無に至る

2013-05-31 10:37:17 | な行の作家
中島義道「ニーチェ――ニヒリズムを生きる」読了



今、巷で話題のニーチェであります。商売上手の中島先生としては、もちろん書かないわけがなく、しかもすべてのニーチェ研究本に鉄槌を下す!と息まいており、本書こそがニーチェの本質を突いていると豪語しております。


とまぁ読んでみたんですが、まず巻頭の言葉に驚かされます。

〈ニーチェの言説は、ほとんどの者にはまったく役に立たない。いや、誤解しない限り、ただただ有害である。〉


しかし、読み進めていくと、この中島氏の警告(?)にもうなずかされるところもあります。まず、自分はヨーロッパ人でもないし、キリスト教の信者でもないこと。なので、ニーチェの言説に理解を示す資格がないということです。いずれにせよ、「ツァラトゥストラ」はめちゃくちゃ難しいし、中島氏の解説もそうとう手強いので、なかなか頭に入っていきませんでした。読了してしばし茫然とし、翌日また最初から読み直しました。


ニーチェの「ツァラトゥストラ」で語っていることは「永遠回帰」であります。これがなかなか難しい。「永遠回帰」とは何か?ニーチェの著書「力への意志」から引用します。


〈無限の時間のうちでは、あらゆる可能な結合関係がいつかは一度達成されていたはずである。それのみではない。それらは無限回達成されていたはずである。しかも、あらゆる結合関係とその直後の回帰とのあいだには、総じてなお可能なその他すべての結合関係が経過したに違いなく、これらの結合関係のいずれもが、同一系列のうちで生ずる諸結合関係の全継起を条件づけているのであるから、このことで絶対的に同一な諸系列の円環運動が証明されているはずである。すなわち、それは、すでに無限にしばしば反復された、また、無限にその戯れを戯れる円環運動としての世界にほかならない。〉


なんとなくわかるんですが、なんだかね…。


解説を進めていく中島氏も最後の方では疑問を呈しています。引用します。


〈たしかに、先に分析した六つの前提を呑み込む限り、一度何ごとかを全的に肯定すれば、それを無限回肯定することになるだろう。全宇宙を肯定することになるであろう。しかし、それが救いになるのだろうか?一度喜びにうち震えれば、それがありとあらゆる虚しさを消去できるのか?「神の死」を真正面から見据えるとき、いかに喜びにあふれた時が続こうと、一度何ごとかを(例えば自分の死を)「ナイン(否)!」と全身で否定すれば、やはり世界を否定することになるのではないか?最後の疑いが頭をもたげてくる。(中略)この瞬間に向かって「おまえは私の気に入る。幸福よ!刹那よ!瞬間よ!」と叫ぶことは、ただそれだけのことではないのか?このことがどうして「いっさいが帰ってくることを欲したことになる」のであろうか?そう信じ込もうとすることは、キリスト教(パウロ主義)が、あるいはライプニッツのオプティミズムが、いかに悲惨なことが起きようと、すべては神の意志なのだからすべてを肯定しようとする態度に劣らない自己欺瞞ではないのか?〉



ニーチェの「ツァラトゥストラ」がどんなものであるか、おぼろげにわかっただけでも、よしとしますか。どうあがいても自分はニーチェを理解する資格がないんですから…。

コメントを投稿