吉田健一「金沢/酒宴」読了
本書は講談社文芸文庫より平成2年に発刊されたものです。初出は「金沢」が昭和48年、「酒宴」が昭和32年とのことです。
ずっと以前にFMラジオの「メロディアス・ライブラリー」で小川洋子が不思議な小説と形容していたのが気になっていて、やっと買って読んでみたのでした。
吉田健一の随筆は以前読んだことがあったんですが、小説は初めて読みました。しかしびっくりしましたね。この独特の文体はどうですか。最初は面喰いましたが、読み進めていくうちに、人間、何にでも慣れるもんですね。中盤くらいからはなんとか普通に読みこなせるようになりました。例えばこんなところ。
<確かにそこは解っているような眺めであり、時刻だった。どこまで人間が行っても時間が付いて廻るのならばそれがそういう時刻だったと言える。併し解るというのではまだ足りなくて本当に解れば人間はそこを通り越してそういうことを考えなくなる。ただ自分がいるその場所にいることになるのでその為にその間自分が何も考えていない気がしても凡ての考えがそこで終るのならばそれまで頭を労していたこともそこにあるのでなければならない。>
またはこんなくだり。
<凡そ自分が今までにしたこと、身に付けたことが全く自分の一部になって他の自分と区別が付け難くなればここの主人のようになるのではないかと思われてそれはそういうことがある前の自分に戻ることでもあった。又確かにそれはそこに戻ることだったが前ならば自分にどういうことがあって変るか解らなかったのに対してその今の自分がなくなるのは死ぬ時に限られていた。>
3回くらい読み返してやっと半分くらいしか理解できません。
物語は、東京に住む実業家が金沢という町を気に入り、そこに家を建て、しばしばそこを訪れるうち、出入りの骨董屋に導かれていろいろなところでいろいろな人と会い、酒を飲みながら、さながら禅問答のようなことを繰り返すといった話です。
思わず笑ったところもあります。酒と料理のあとで、お茶と菓子が出て、主人曰く「それを薄氷と言っているんです。」内山(主人公)が答えて「それを踏む感じじゃありませんね。」こんなギャグもはさむところ、吉田先生、なかなかお茶目なところもあります。
吉田健一は無類の酒好きだそうで、それは併録された「酒宴」のこんなところでよくわかります。
<本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、(中略)月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。>
文中に溢れる諧謔とウィットは、先回読んだ金井美恵子に通ずるところもあります。
吉田健一、なかなかな難敵でありました。
かみさんを病院に送った帰りに書店に寄り以下の本を購入
中村文則「王国」河出文庫
獅子文「七時間半」ちくま文庫
ジョルジュ・バタイユ著 生田耕作訳「眼球譚」河出文庫
また、姉から以下の本を借りる
川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」講談社
カーソン・マッカラーズ著 村上春樹訳 「結婚式のメンバー」新潮文庫