トシの読書日記

読書備忘録

2月のまとめ

2010-02-28 18:44:01 | Weblog
今月読んだ本は以下の通り。



夏目漱石「行人(こうじん)」
高野悦子「二十歳の原点」
志賀直哉「城の崎にて/小僧の神様」
田中慎弥「犬と鴉(からす)」
開高健「ロマネ・コンティ1935年」
夏目漱石「硝子戸の内(なか)」
多和田葉子「犬婿入り」
村田喜代子「雲南の妻」
夏目漱石「道草」
スティーブン・ミルハウザー著 柴田元幸訳「イン・ザ・ペニー・アーケード」
吉田知子「箱の夫」


以上11冊でありました。ちょっとペースが戻ってきましたかね。

今月は、総じてレベルの高い小説が多かったように思います。夏目漱石、志賀直哉、開高健、多和田葉子、村田喜代子、そしてミルハウザー。甲乙つけがたいとはこの事ですね。あえてどれが一番とは言わないことにします。どれもよかった!田中慎弥だけちょっと残念でしたが。


毎月こんな感じで読書生活が充実するといいんですがねぇ。

日常があやふやになる瞬間

2010-02-28 18:16:50 | や行の作家
吉田知子「箱の夫」読了


姉の本3冊目です。この作家は、僕が中学3年くらいの時に「無明長夜」「蒼穹と伽藍」等を読んで、一時はまっていた作家なんですが、あれから幾年(笑)まだまだ現役で頑張ってらっしゃるんですねぇ。

1990年から1998年にかけて、いろいろな文芸誌に掲載したものをまとめた短編集です。

表題作の「箱の夫」。不思議な小説です。まぁどれもこれも不思議なんですがね。主人公の奥さんは、夫と姑との3人暮らし。夫はすごく小さいらしく、外出もままならないようで、日がな家でパソコンに向かっている。ある日、夫がクラシックの「魔笛」のコンサートのチケットを手に入れ、二人で出かけることになるんですが、妻は、夫を入れる小さな箱をまず探すんですね。そこからもうおかしいんです。まぁそんな感じでなんだか、あっけにとられっぱなしで読んでしまいました。

全編こんな感じでちょっとおかしいというか、不思議な話ばかりでありました。これが中途半端な構成になっていたんならなんだかなぁとも思うんですが、文章がしっかりしているし、こけおどしではない何かが話の裏に隠されている感じで、なかなか読ませます。

今、本棚を見てみたら、同作家の「極楽船の人びと」という未読本が出てきたので、今度読んで見ることにします。

「いま・ここ」に対する絶対的な不満

2010-02-28 17:52:53 | ま行の作家
スティーヴン・ミルハウザー著 柴田元幸訳「イン・ザ・ペニー・アーケード」読了


姉が貸してくれた本2冊目です。同作家は、自分が以前、「ナイフ投げ師」という短編集を姉に貸したのがきっかけで、今や姉の方がミルハウザーのとりこになってしまったようです。

ミルハウザーの小説を読んで思うのは、この類まれな想像力です。常人にはとても思いつかないような話を、荒唐無稽な小説にしてしまったのでは当たり前で面白くないんですが、この作家はそれを抑えた筆致で坦々と進めていく、この技がすごいんですねぇ。

全部で7つの短篇(中編)が収められているんですが、最後の「東方の国」、これがすごい。この想像力!脱帽です。

そして一番最初に登場する中編「アウグスト・エッシェンブルグ」も面白い小説でした。「自動人形」というのは、この作家に度々繰り返し使われるモチーフのようで、この小説でも、それが話の中心になっています。

時計職人の息子に生まれた主人公が、家の手伝いをしながら、からくり人形を作ることに情熱を燃やし始め、最後には人形を使った商業演劇を始めるわけですが、その間の紆余曲折がなかなか読ませます。

作中で印象に残った部分を引用します。

「僕は悪戯好きの人間だ。それが僕なりの芸術家かたぎさ。いいかい、僕はあの連中を知っている。奴らは豚だよ。僕は奴らに残飯を与えてやる。それは僕にとっても愉快だ。僕にとって愉快なことはたくさんある。奴らが愛だの美だのについてぺらぺらまくし立て、そのあげくに残飯桶にやって来るのを見るのが僕には愉快だ。」

これは、主人公のアウグストと一緒に組んで自動人形の興行を打つ仲間、ハウンゼンシュタインの台詞なんですが、ここにこの小説のテーマがあるように思われます。

愛だの美だのと観念論を振り回していても、結局は肉であると。食欲、性欲じゃないかと言っているわけです。この痛烈なアイロニー。これがミルハウザーなんですね。


翻訳の柴田元幸の素晴らしさも書き添えておきます。

論理(ロジック)の上に成り立つ人間関係

2010-02-22 16:41:26 | な行の作家
夏目漱石「道草」読了



漱石にしては珍しい自伝的小説です。同作家の小説をずっと読んできて思うのは、それぞれの主人公が抱える心の内の問題と、それに対する現実の問題に大きなズレがあり、そこに主人公が二重の意味で苦しむという構図になっているということです。


この小説も、その例にもれず、現実の問題(金銭をめぐるトラブル)と内的な思い(自分の幼年期の育てられ方に対するトラウマ)が交錯し、結局、解決がつかないままに終わっています。この終わり方はちょっと唐突で、他の小説にはないものでした。


しかし、主人公である健三のまわりの人間のなんといやらしいこと(笑)健三は、決して裕福な暮らしをしているわけでもないのに、とうに縁を切ったはずの養父、またその妻、そして自分の奥さんの父と、みんな彼のところへ金をせびりに来るんですね。健三も、きっぱり断ればいいのに、ついぐずぐずとあげてしまって、ちょっとここの部分、いらいらしました。まぁしかし、これが彼の生き方なんでしょう。


健三の日頃思い悩んでいるところが如実に表れている箇所を引用します。


「人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分のことばかり考えた。
『御前は必竟(ひっきょう)何をしに世の中に生まれて来たのだ』
彼の頭の何処(どこ)かでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。成るべく返事を避けようとした。するとその声が猶(なお)彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返して已(や)めなかった。彼は最後に叫んだ。
『分らない』
その声は忽(たちま)ちせせら笑った。
『分らないのじゃあるまい。分っていても其所(そこ)へ行けないのだろう。途中で引懸(ひっかか)っているのだろう』
『己(おれ)の所為(せい)じゃない。己の所為じゃない』
健三は逃げるようにずんずん歩いた。」


ここがこの小説のキモであると思います。以前読んだ「行人」もそうなんですが、何のために生まれてきたのか。どう生きればよいのか。これが漱石の永遠のテーマではなかったのかと思います。

なんだか中島義道の世界になってしまいました(笑)





所用で出たついでに書店に寄り、「1Q84 Book3」を予約し、以下の本を購入する。

勢古浩爾「思想なんかいらない生活」
中島義道/小浜逸郎「やっぱり、人はわかりあえない」

「結婚」とは

2010-02-22 16:22:29 | ま行の作家
村田喜代子「雲南の妻」読了



以前、姉が「面白いから読め」と言って何冊か本を貸してくれたんですが、開高健と夏目漱石にはまり込んでいてなかなか読めず、何かあるたびに「もう読んだ?」と聞くので、開高健も終わったことでもあるし、やっと重い腰を上げて1冊手に取ったのでした。


なかなか面白い小説でした。同作家は以前、「鍋の中」「鯉浄土」等を読んでいて、なかなか力のある作家であるという印象は持っていたんですが、これもよかった。


中国の南の地方、タイとかミャンマーの国境近くに雲南という地区があり、物語はその雲南で繰り広げられます。この地方には昔から伝わる「同性婚」というものがあり、仕事で日本から中国に行く夫について妻(主人公)もこの地へ来るわけですが、そこで通訳として働く中国人女性をその奥さんが妻としてめとるわけです。


日本人の感覚から考えれば、いかにも荒唐無稽な話なんですが、読み進んでいくうちになんだか妙に納得させられてしまいました。


小説の結末は、いかにも淋しい終わり方ではありましたが、結構、胸にどしんとくる作品でありました。


結婚生活に於ける男、又は女の役割とはなにか、また、そもそも結婚とはなんなのか…


考えさせられることの多い小説です。

人格を形成する「言葉」

2010-02-17 13:06:53 | た行の作家
多和田葉子「犬婿入り」読了


以前、新聞の夕刊の文芸時評みたいなコラムでこの作家の記事があり、いつか読んでみようと思っていたのです。


いやぁこれは面白かった。もっと早く読めばよかった。久々にハイレベルな面白さの本に出会いました。

「ペルソナ」「犬婿入り」の二編から成る短編集です。表題作よりむしろ自分としては「ペルソナ」がよかった。なんだか富岡多恵子のような味わいがありました。


ドイツに住む主人公(日本人、女性、未婚、30代半ば)が弟と一緒に暮らす中で、様々な心の葛藤を胸に抱きつつ、生きていくという話なんですが、この作家の「言葉」というものへのこだわりを随所に見ることができます。例えば…


「日本のお豆腐よりもずっと美味しいですよ、と道子は言ってしまってから、自分の声が少し震えていて、しかも大きくなりすぎたことに気がついた。道子は抑えた声で付け加えた。大豆のからだがはっきり感じられるんです。徹底的に叩き潰して、まろやかな、きよらかな印象を与えようとする日本の豆腐とは違うんです。道子は自分の日本語が、坂を駆け降りるように下手になっていくのを感じたが、もうどうにもならなかった。本当に思っていることを言おうとすると、日本語が下手になってしまうのだった。自分の生まれ育った国の言葉なのに、それどころか、自分自身だと思っているものを生みだしてくれた言葉なのに、本当に思っていることを言おうとすると、それが下手になってしまうのだった。」


このくどいくらいの「道子」の心理描写がこの作家の「言葉」へのこだわりを如実に表しているといえると思います。


そして道子は、異国の地での自分の「言葉」にある意味絶望し、能面を被って町を歩くことで「顔」を獲得しようとする。しかし、町を歩く人は道子が日本人であることに誰も気がつかない。「顔」を得ようとして被ったもので「顔」を喪失するという逆説。そのアイロニー。なかなか奥の深い小説です。


多和田葉子、注目の作家です。本屋へ行ったら、他の作品も探してみます。

諦観の心

2010-02-17 12:50:24 | な行の作家
夏目漱石「硝子戸の中(うち)」読了


この作品は当時の朝日新聞に掲載されたエッセイです。漱石のエッセイを読むのはこれが初めてだったんですが、なかなか深い味わいがありました。

読後、感じたのはこの記事のタイトルにしたように、「諦観」というものです。なんだか枯れてしまってるんですね。もう、生きてても仕方がないとでも言いたげな文章が続いています。しかし、この作家はこの後、「道草」、そして絶筆となった「明暗」と旺盛な活動を見せる訳ですから人間の心というものはわかりません。


家の書斎から硝子戸を通して漱石は何を見たのでしょうか。いろいろと考えることの多い随筆でした。

豊饒から悲惨まで

2010-02-17 12:18:05 | か行の作家
開高健「ロマネ・コンティ1935年」読了


1978年に刊行された短編集です。

「玉、砕ける」
「飽満の種子」
「貝塚をつくる」
「黄昏の力」
「渚にて」
「ロマネ・コンティ1935年」

の六つの短篇が収められています。やはり、一番印象に残ったのは表題作である「ロマネ・コンティ1935年」ですね。

ロマネ・コンティ…言うまでもなく、フランス、ブルゴーニュの超特級ワインであります。ビンテージによれば、1本数十万円するものもあるくらいの、まぁ言ってみればワインの芸術品ですね。そのロマネの1935年ものを、会社の重役と小説家がホテルのレストランに持ち込み、飲むという、それだけの作品なんですが、このワインの味わい、香り、色等の表現が素晴らしい。しかし、このロマネは管理の状態が良くなかったらしく、見るも無残な味であった訳ですが、しかしそれでも…と続く文章には非常に深い味わいがあります。


「この酒は生きていたのだ。火のでるような修行をしていたのだ。1935歳になってから独房に入って37年になるが、けっして眠っていたのではないのだ。汗みどろになり、血を流し、呻きつづけてきたのだ。それでなくてこのおびただしい混沌の説明がつくだろうか。不幸への意志の分泌物ではないのだろうか。これもまた一つの劇ではなかったか?……」

そしてこのワインの向こう側に、フランスに住んでいた頃のある女性との凄絶な思い出がオーバーラップしていくわけです。

いい構成ですねぇ。まさに手練れの技です。


去年から何ヶ月か続いてきた開高健を巡る旅は、この作品をもってひとまず終了と致します。この作家の持つ、暗い闇の部分――生きていくことの虚しさ、孤独。でもなお生きていかざるを得ない悲しさ。その一端がわかったような気がしました。

家族との対峙

2010-02-09 18:54:09 | た行の作家
田中慎弥「犬と鴉(からす)」読了


今、自分の中での注目の作家です。最近は、新刊の単行本に手を出すことはあまりないのですが、この作家は買ってしまいますねぇ。


しかし、この小説はちょっと「?」でした。以前読んだ「図書準備室」「切れた鎖」で見せた独特の切れ味が、この本では、なんだかおかしな方向に進化してしまった感じで、ちょっとついていけませんでした。


表題作のほかに「血脈」「聖書の煙草」の三編が収録されているんですが、「血脈」だけは「切れた鎖」と似たようなテイストを味わうことができたんですが、あとの二編は、ちょっとどうも…。


「これは面白い!」と言う人もいると思います。その気持ちもわからないではないんですが、自分には合いませんでした。


今後、この作家が、どんな作風に変貌を遂げていくのか、はたまたこのままの路線で突き進むのか、そういった意味ではまだまだ注目の作家ではあります。

滲み出る人間愛

2010-02-09 18:40:11 | さ行の作家
志賀直哉「城の崎にて/小僧の神様」読了


ネットの中に「書評空間」というサイトがありまして、いろいろな方がいろいろな本を書評しているんですが、その中で阿部公彦という東大の教授の書評がなかなか面白く、いつもチェックを欠かさないんんです。

その阿部氏が、同書の書評をしておりまして、「今さら志賀直哉もねぇ…」と思いつつその記事を読んだんですが、これがまた鋭い評論で、読んでみる気になったというわけです。


18の短篇が収められた短編集であります。志賀直哉といえば「暗夜行路」が有名ですが(未読)、その「暗夜行路」を始めとする一連の作品を第一期とするなら、今回読んだ短編集は、第二期に位置づけされるものだそうです。

まぁそんな分類はどうでもいいとして、読んでみて思ったのは、これは庄野潤三であると。しかし、時代的に庄野潤三の方が後なわけですから、志賀直哉の方が元祖であると言えるわけです。


小説というよりもエッセイに近いような、ただありのまま、事の顛末を書いたにすぎないような作品が少なくありませんでした。読後、思わず「それで?」と呟きたくなるようなものもありました。


がしかし、それをもう一度読み返してみると、得もいわれぬ感情がにじみ出て、思わず「なるほど」と膝を打ちたくなる思いでありました。


志賀直哉が「小説の神様」と呼ばれる所以が少しわかった気がします。