堀江敏幸「河岸忘日抄」読了
久しぶりの更新となってしまいました。本書は平成17年に単行本が、平成20年に文庫として発刊されたものです。
いやしかし何度読んでもいいですね。自分は本作品を堀江敏幸の著作のトップに推します。以前の初読のときより、より一層深い感銘を受けました。というか、これを読むのは3回か4回目くらいかな。これは小説というより随筆、哲学書ですね。印象に残った箇所、いくつか引用します。
<少しでも速く移動する術を追求した結果、進むべき方向性が消え失せてしまうのであれば、速さの行き着く果てにあるのは要するに不毛な静止であり、しどけなく流れていく日々は、いまだ形而上の世界で身動きができないところまで堕ちていないぶん真っ当ではないか、と彼は考えたものだ。>
<現実に向き合い、ときにはそこに加担し、ときにはそこから退く技を、ひとはしばしば処世術と呼ぶ。他者にたいする善意の目配せをつねに目配せだけに終わらせ、自分を追いつめないこと。そういう身のかわし方がこの流派の最良のかたちだとするなら、彼はそこからもっとも遠いところに立っていた。>
<いま切実に欲しいと彼が念じているのは、闇の先を切り裂いてあたらしい光を浴びるような力ではなく、「ぼんやりと形にならないものを、不明瞭なまま見続ける力」なのだから。
<もしかすると隠れ家とは出ていくことを前提にしているからこそ存在しうるのであって、きついのはそこで何ヶ月も何年も禁欲的な暮らしを守ることにではなく、いつでも出発できるのにあえてそれを拒み、待機しつづけることにあるのかもしれない。>
<ためらうことの贅沢について、彼はしぶとく考えつづけている。ためらう行為のなかに決断の不在を見るのは、しかしあまりにも浅はかだ、といまの彼は思うのだった。「あたりまえの感覚」の鍛え方に想いを馳せ、逡巡を持続と言い換えてその場その場をしのいできたのは事実だが、その場しのぎがひとつの決断でなくてなんだろうか?ためらいとは二者択一、三者択一を甘んじて受け入れ、なお身体(からだ)に深く残留する疲労感のようなものだ。>
<しかし、悲しみを定義することなんて自分だけではなく誰にもできはしないのだ。悲しみとは、悲しみ以外のなにものでもない。>
<他人の発言にたいして「わかる」と意思表示をするのは、ある意味で究極の覚悟を必要とする行為であり、まちがっても寛容さのあらわれではない。言いっぱなしで済ませられれば、こんなに簡単な話はないのだ。彼自身、それを何度繰り返し胸に言い聞かせてきたことだろう。そこにある青くささも彼は否定してはいない。しかし寛容さの表面に浮かんだやさしさは、ただの被膜にすぎないのである。ほんとうの寛容さはつねに戦闘状態にあるはずで、寛容にする側もされる側も、どちらもぞんぶんに傷つく。だからこそ、程度のほどはべつにして、わかる、わからないを口にしたとき、自分を棚にあげない勇気の有無が問われるのだ。無意識の判断だなんて、格好のいい言い抜けにすぎない。判断としての無意識は、意識的な鍛錬ののちに生まれてくる反応だからである。>
以前のレビューとかぶったところもありますが、それだけ強く心に残ったわけです。
ためらい、逡巡し、尻込みする「彼」。この一見ネガティブな行動(行動していないんですが)が、実はそうではなく、自分を見据える大切な力となっているところがこの作品から読み取れます。
まだ不慣れな新しい環境でバタバタしてしております。充実したプライベートな時間は望むべくもありませんが、まぁぼちぼちやっていきます。