トシの読書日記

読書備忘録

超然に茫然とする

2015-08-25 15:58:08 | あ行の作家


絲山秋子「妻の超然」読了



これも姉が貸してくれたものです。先日、自分で買って読んだ「不愉快な本の続編」に呆然とし、こんな本を読ませた絲山氏に腹が立ったんですが、本書を読んで別の意味で茫然としました。「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の三編から成る作品集なんですが、最後の「作家の超然」がすごい。巻末の解説の安藤礼二氏も述べているように、これは絲山秋子の一つの到達点ではないかと思わせるくらい完成された中編であると思います。


以下、印象に残った箇所、引用します。たくさんあります。


<病は自分の体の中にあり、自分だけの特別なものだというのに、すべてに優先させることができた。腫瘍はいつの間にか、おまえが乗ったことのないビジネスクラスに座っていた。ちょうど、小説によっておまえが「生かされている」と感じたように、今は病院で空いたベッドを探して倒れ込みたいほど疲れているが、同時にエネルギーに満ちあふれている。>


<おまえが見るものは、遠い煙突から出る煙のように熱もにおいもなく、ただ拡散しているだけだったが、おまえは瞬時にそれを言葉によって分解し、調理し、固定してしまうのだった。それはおまえが作る食事がおまえだけのものであるのと同じことで、他人にとっては必要のない日々のメモだった。人と会わない日が続けば、言葉はじぶんだけのためにあった。>



<とどのつまり、あまえにとって彼らは小説の登場人物と一緒なのだ。彼らは瞬間的にしか存在しない。小説が活字になったとき、登場人物は消えてしまう。おまえが西や東へ走って行って悩みを聞く相手と長くつき合うことは決してない。なぜなら彼らは、架空の領域に属しているからなのだ。>


<妊娠も病も、内臓をむきだしにする。彼らはもう、前から知っていた彼らではないのだ。彼らは簡単に自分を捨ててしまう。身体に起きた現象こそが自分だと思い込む。内臓の狂気はやすやすと自己を制圧する。>


<「白というのは濁った色だ。
 どの色の絵の具に混ぜても不透明になってしまう。
 悪意というのも黒ではなく白いのかもしれない。
 二つの極を行き来させて逆転する表現、もしくは意外性のある二つを並べてさあどうだ、とメタファーを突きつける表現、というのは多くの場合で可能で、しかもかなり効果的で、そのあざとさと浅さにはいい加減うんざりしている。」>


<彼らの自尊心は結局彼ら自身を貶め、傷つけることにしかならない。自慢が妬みへと変わっていくのはバナナが腐るのと同じくらい、わかりきったことなのに、どうしてそれを自制できないのか。>


<酒と同じで、悪意も先に酔っぱらってしまった方が楽なのだ。悪意は受け皿しか求めない。
 ペナルティとは、逃げたトラである。
 逃げたトラを殺せ。
 凶暴に違いないから殺せ。
 やられる前にやってしまえ>


<「多くの読者の手元に届けたい」
 インタビューを受けてしかたなく言うこともあるが、おまえは一度だって読者のために小説を書いたことがない。
一貫した態度を、どうしておまえはとれないのか。
超然とするべきではないのか。>


<おまえは知っている。悩んだときは道に迷えばいいことを。道に迷えば、大抵の悩みは忘れる。この道が正しいのか引き返すのか、どこをどう行けばよかったのか、
それともどこかに繋がってなんとかなるのか、そう考えているとき、おまえという人間はいない。おまえは迷った個体にすぎない。道に迷った個体は、その遺伝子の終焉の淵にある。>


<おまえは思う。超然とは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ。栄えるものも、滅びるものも。
価値のあったものが、ただのゴミになり、意味のあったことが抜け殻になっていく。畑の隅の木の下や中途半端な形の土地に見捨てられた廃車と同じように、錆と植物と微生物に浸食され、ゆっくりとだが解体していく。
 おまえは、その全てを見ていたいと思う。>


<文学はものづくりなどではなかったのだ。
 人に伝えようとして書いたりはしない。おまえは過去にそう言った。ただ湧きおこってくるものを、書かずにいられない、と。そこに文学の神様がいるとまで言った。文学の神様、それはギャンブルの神様とどこが違うというのか。
 おまえの「創作活動」は、自分だけのドラマに酔って見たことも触れたこともない競走馬に大金をつぎ込むことと何ら変わりない。おまえが「創作」を語ること、それは博打のカタルシスを語ることと全く変わりない。狂気とぎりぎりのところでやっている、という台詞は博打で大勝ちした人のたわごとだ。彼らは勝ったときだけ、理由を、プロセスを饒舌に語り始める。それはおまえの文学談義そっくりだ。>



もう、全編書き写したいくらい、唸る文章の連続でしたが、これくらいにしておきます。


この作品は絲山秋子の自身に対する痛烈な自己批判ともとれるし、また、これから新たに作家として生きていくという、ひとつの矜持ともとれます。

<文学が滅び、色を失い、粘りと腐臭を発し始めた>今の時代、それでもその彼方に<世にも美しい夕映え>を待ち望む絲山秋子、それは、自身も含めて夕映えを<待つ>のではなく、たぐり寄せることではないのかという強い思いを行間に見て取れます。


作品の形式を私小説の体裁をとりながら、「私」という一人称をあえて「おまえ」という二人称にして外から語らせるという、斬新な手法にも感嘆しました。


いや、すごいものを読ませてもらいました。この間はけなしたりしてすみません!



おかしみの先にある哀しみ

2015-08-18 18:37:11 | あ行の作家


内田百「内田百集成2―立腹帖」読了



これも姉が貸してくれたものです。本作家も10冊程集中して読んだ時期がありましたが、ほんとにすごい作家です。松浦寿輝、川上弘美等、後世の一流作家に多大な影響を及ぼしています。


本作品は、鉄道にまつわるエッセイ集なんですが、東京駅の一日駅長に就任し、駅員にとんでもない訓示を垂れ、あげくに来た列車に乗っていってしまうという、相変わらずお茶目な百先生です。


しかし、内田百がこんなに鉄道好きとは知りませんでした。しかも徹底した乗り鉄です。汽車に乗って車窓から眺める風景が、ことのほかお好きなようです。


内田百の面白おかしい行状が綴られているわけなんですが、笑ったあとに漂ってくるそこはかとない哀しみ。これはなんなんでしょうね。これが百の随筆の魅力なんだと思います。


虐げられた、その先にある愉悦

2015-08-11 17:13:35 | た行の作家


谷崎潤一郎「谷崎潤一郎―マゾヒズム小説集」



こういう企画本もあるんですね。2年程前に谷崎潤一郎の作品を20冊くらい集中して読んだことがあるんですが、本書に収められている6編のうち、4編は未読でした。


谷崎の性倒錯は有名な話で、本書をを読むとその谷崎の面目躍如といった感があります。冒頭の「少年」からしてかなりヤバい話で、さすがやりおるといった感じです。中でも出色なのは「魔術師」という短編で、恋人同士が上野の公園のはずれにある見世物小屋へ魔術師のショーを見に行くわけですが、その小屋の様子の描写がすごい。以下引用します。


<両側に櫛比(しっぴ)している見世物小屋は、近づいて行くと更に仰山(ぎょうさん)な、更に殺風景な、奇想的なものでした。極めて荒唐無稽な場面を、けばけばしい絵の具で、忌憚なく描いてある活動写真の看板や、建物ごとに独特な、何ともいえない不愉快な色で、強烈に塗りこくられたペンキの匂や、客寄せに使う旗、幟(のぼり)、人形、楽隊、仮装行列の混乱と放埓(ほうらつ)や、それらを一々詳細に記述したら、恐らく読者は竦然(しょうぜん)として眼を掩うかもしれません。私があれを見た時の感じを一言にしていえば、そこには妙齢の女の顔が、腫物(できもの)のために膿(うみ)ただれているような、美しさと醜さとの奇抜な融合があるのです。真直ぐなもの、平なもの、―すべて正しい形を有する物体の世界を、凹面鏡(おうめんきょう)や凸面鏡(とつめんきょう)に映して見るような、不規則と滑稽と胸悪さとが織り交っているのです。>


少し長くなってしまいましたが、このあたりが谷崎マゾヒズム文学のキモではないでしょうか。「美しさと醜さとの奇抜な融合」、「不規則と滑稽と胸悪さとが織り交っている」、これだと思います。


そして男は魔術師に半羊神(ファウン)にされてしまうんですが、女もその後を追って同じく半羊神になるわけです。そこに至るまでの様子が、とてもこの世のものとは思えないようなおどろおどろしい展開で、世のホラー映画の監督は、このあたりを見習ってほしいもんです。


全編読み終えてかなりぐったりしましたが、心地よい疲れでした。やっぱり谷崎はすごいです。

ムルソーになれなかった男

2015-08-04 11:12:31 | あ行の作家



絲山秋子「不愉快な本の続編」読了



先日、久しぶりに入った書店でふと目に止まり、文庫で153頁と手軽なこともあり、買い求めたのでした。


読まなくてもよかったですね。テーマは存外重いんですが、文体がいかにも軽い。絲山秋子ってこんな作家だったか?と思わず疑ってしまいました。以前読んだ「海の仙人」とか「ばかもの」、「逃亡くそたわけ」の感動には比ぶべくもありません。


カミュの「異邦人」の主人公、ムルソーを気取る乾という男が東京から新潟、そして富山、呉と日本各地を転々とし、そこでの人との出会い、また、毎日の生活の中で彼の心情がとつとつと語られるわけなんですが、なんだかなぁという感じです。


本のオビにある「著者の最高到達点!」には笑ってしまいました。はっきり言います。駄作です。絲山さん、こんなもの書いていてはだめです。