絲山秋子「妻の超然」読了
これも姉が貸してくれたものです。先日、自分で買って読んだ「不愉快な本の続編」に呆然とし、こんな本を読ませた絲山氏に腹が立ったんですが、本書を読んで別の意味で茫然としました。「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の三編から成る作品集なんですが、最後の「作家の超然」がすごい。巻末の解説の安藤礼二氏も述べているように、これは絲山秋子の一つの到達点ではないかと思わせるくらい完成された中編であると思います。
以下、印象に残った箇所、引用します。たくさんあります。
<病は自分の体の中にあり、自分だけの特別なものだというのに、すべてに優先させることができた。腫瘍はいつの間にか、おまえが乗ったことのないビジネスクラスに座っていた。ちょうど、小説によっておまえが「生かされている」と感じたように、今は病院で空いたベッドを探して倒れ込みたいほど疲れているが、同時にエネルギーに満ちあふれている。>
<おまえが見るものは、遠い煙突から出る煙のように熱もにおいもなく、ただ拡散しているだけだったが、おまえは瞬時にそれを言葉によって分解し、調理し、固定してしまうのだった。それはおまえが作る食事がおまえだけのものであるのと同じことで、他人にとっては必要のない日々のメモだった。人と会わない日が続けば、言葉はじぶんだけのためにあった。>
<とどのつまり、あまえにとって彼らは小説の登場人物と一緒なのだ。彼らは瞬間的にしか存在しない。小説が活字になったとき、登場人物は消えてしまう。おまえが西や東へ走って行って悩みを聞く相手と長くつき合うことは決してない。なぜなら彼らは、架空の領域に属しているからなのだ。>
<妊娠も病も、内臓をむきだしにする。彼らはもう、前から知っていた彼らではないのだ。彼らは簡単に自分を捨ててしまう。身体に起きた現象こそが自分だと思い込む。内臓の狂気はやすやすと自己を制圧する。>
<「白というのは濁った色だ。
どの色の絵の具に混ぜても不透明になってしまう。
悪意というのも黒ではなく白いのかもしれない。
二つの極を行き来させて逆転する表現、もしくは意外性のある二つを並べてさあどうだ、とメタファーを突きつける表現、というのは多くの場合で可能で、しかもかなり効果的で、そのあざとさと浅さにはいい加減うんざりしている。」>
<彼らの自尊心は結局彼ら自身を貶め、傷つけることにしかならない。自慢が妬みへと変わっていくのはバナナが腐るのと同じくらい、わかりきったことなのに、どうしてそれを自制できないのか。>
<酒と同じで、悪意も先に酔っぱらってしまった方が楽なのだ。悪意は受け皿しか求めない。
ペナルティとは、逃げたトラである。
逃げたトラを殺せ。
凶暴に違いないから殺せ。
やられる前にやってしまえ>
<「多くの読者の手元に届けたい」
インタビューを受けてしかたなく言うこともあるが、おまえは一度だって読者のために小説を書いたことがない。
一貫した態度を、どうしておまえはとれないのか。
超然とするべきではないのか。>
<おまえは知っている。悩んだときは道に迷えばいいことを。道に迷えば、大抵の悩みは忘れる。この道が正しいのか引き返すのか、どこをどう行けばよかったのか、
それともどこかに繋がってなんとかなるのか、そう考えているとき、おまえという人間はいない。おまえは迷った個体にすぎない。道に迷った個体は、その遺伝子の終焉の淵にある。>
<おまえは思う。超然とは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ。栄えるものも、滅びるものも。
価値のあったものが、ただのゴミになり、意味のあったことが抜け殻になっていく。畑の隅の木の下や中途半端な形の土地に見捨てられた廃車と同じように、錆と植物と微生物に浸食され、ゆっくりとだが解体していく。
おまえは、その全てを見ていたいと思う。>
<文学はものづくりなどではなかったのだ。
人に伝えようとして書いたりはしない。おまえは過去にそう言った。ただ湧きおこってくるものを、書かずにいられない、と。そこに文学の神様がいるとまで言った。文学の神様、それはギャンブルの神様とどこが違うというのか。
おまえの「創作活動」は、自分だけのドラマに酔って見たことも触れたこともない競走馬に大金をつぎ込むことと何ら変わりない。おまえが「創作」を語ること、それは博打のカタルシスを語ることと全く変わりない。狂気とぎりぎりのところでやっている、という台詞は博打で大勝ちした人のたわごとだ。彼らは勝ったときだけ、理由を、プロセスを饒舌に語り始める。それはおまえの文学談義そっくりだ。>
もう、全編書き写したいくらい、唸る文章の連続でしたが、これくらいにしておきます。
この作品は絲山秋子の自身に対する痛烈な自己批判ともとれるし、また、これから新たに作家として生きていくという、ひとつの矜持ともとれます。
<文学が滅び、色を失い、粘りと腐臭を発し始めた>今の時代、それでもその彼方に<世にも美しい夕映え>を待ち望む絲山秋子、それは、自身も含めて夕映えを<待つ>のではなく、たぐり寄せることではないのかという強い思いを行間に見て取れます。
作品の形式を私小説の体裁をとりながら、「私」という一人称をあえて「おまえ」という二人称にして外から語らせるという、斬新な手法にも感嘆しました。
いや、すごいものを読ませてもらいました。この間はけなしたりしてすみません!