大江健三郎「見るまえに跳べ」読了
本書は昭和49年に新潮文庫より発刊されたものです。
何年か前に「大江健三郎祭り」を開催しまして、本作家の著作を20冊ほど読んだんですが、この初期の短編集を見落としておりまして、タイトルがなんだかかっこよかったので、買って読んでみたのでした。
大江健三郎という作家は「悪文」ということで知られているんですが、本書は特にその兆候が顕著で、例えばこんな文章…
<麻薬煙草はわたしに水のような量感と重みのある時が静かに流れる川に体をひたしているという感じの時間認識の感覚をもたらし、それはまたわたしを静止しているのではない現実の流動する本質に近づけ認識を深化させる効能をもつのである。>(「上機嫌」より)
またこんなのも
<それに現実はいかなる場合にも静止して存在するものではない。存在する、という言葉にすでに時間の観念が混入しているのであって、事物が存在するとは時間の推移のある一区切のあいだ各瞬間にわたって存在しつづけるということである。静止した現実はないのだから現実をあたかも静止しているかのようにとらえるやりかたはまちがっている。>(同上)
よーくかみくだきながら読まないと何を言っているのかさっぱりわかりません。
しかし、全部で10編の作品が収められているんですが、全体に青年の懊悩といったものを描いていて、秀逸なものが多かったという印象です。特に最後の「下降生活者」という短編、これはすごいです。自分を欺いて大学の助教授までのし上がっていった男が、本当の自分を見つめたいがために噓をつき、そのせいで一人の男が死んでしまうという話なんですが、40年以上前の作品でも全く古びてない人間の弱さの本質を鋭く突く素晴らしい作品だと思いました。
「村上春樹祭り」と言いながら寄り道ばかりしておりますが、おとといのFM愛知の「メロディアスライブラリー」で、再来週に多和田葉子の「献灯使」を取り上げるというじゃありませんか!これは前に姉から借りててずっと読まなくてはと思ってた本で、今、ちょっと「ねじまき鳥」読みかけていたんですが、まぁ仕方ないっすね。またまた村上春樹は後回しにして多和田葉子を読みます。