トシの読書日記

読書備忘録

この世で一番完璧なもの

2009-09-29 17:35:35 | さ行の作家
サイモン・シン著 青木薫訳「フェルマーの最終定理」読了


ずっと前に小川洋子の「博士の愛した数式」を読み、自分の中で「数学熱」が高まったときに買ってそのままずっと積読状態になっていたものを、今さらながらやっと読んでみたという次第でございます。

久しぶりに小説ではない、いわゆるノンフィクションというやつを読んだんですが、いやー面白かったです。フェルマーという、300年も前の数学者が考えた命題、XのN乗+YのN乗=ZのN乗 (Nは2より大きい整数)という方程式には整数解がないと言い、フェルマー自身はそれを証明できると言ったんですが、それを書いたものがないんですね。で、それ以来、世の数学者達はそれを証明しようと必死になってやってきたという、感動のドラマです。


アメリカのワイルズという数学者が見事にそれを証明してみせたんですが、その苦労たるや尋常なことではなかったようです。ほんと、感動しました。


余談ですが、この本はほかにも数学にまつわる面白い話がいろいろあって、例えば素数(1とその数自身でしか割り切れない整数)の話で


3           は素数

31          も素数

331         も素数

3331        も素数

33331       も素数

333331      も素数

3333331     も素数

33333331    も素数 でも

333333331   は素数ではない


おもしろいですねぇ。素数の現れ方はパターン化できないらしいんです。ほかにも面白い話が満載で楽しませてくれました。数学は、からっきしダメなんですが、こんな本ならとっつきやすいし、いいのではと思います。


この世をあやふやに踏み外す

2009-09-29 17:28:41 | あ行の作家
内田百「百鬼園随筆集」読了


昭和初期の随筆家として、本好きなら知らぬ人はいないという大家であります。本好きのはしくれとして一度は読んでおかねばと思い、そうしたところへもってきて「ブ」で200円で売っていたのでいそいそと買った次第。

独特のユーモアあふれる文章で、まぁとぼけたおじさんというか喰えない人です。そしてまた、間違いなく奇人ですね。この人(笑)面白いことは面白いんですが、笑いのツボがちょっと自分とは微妙にずれている感じで、心底楽しむことができませんでした。つまらなくはないんですがね。

まぁ義務として読んだということでよしとしましょう。


蛇足ながら、川上弘美の解説がなんだか訳知り顔という感じで、ちょっとなんだかなぁという…

饒舌の後ろにある孤独

2009-09-29 16:21:44 | た行の作家
田中慎弥「図書準備室」読了



「切れた鎖」の短編集が面白かったので、もう1冊と思い手に取ってみました。

「図書準備室」と「冷たい水の羊」の2編から成る作品集です。


まず、表題作となっている「図書準備室」。高校を卒業してから30を過ぎても全く働こうとせず、「無駄飯食い」をしている主人公が祖父の法要の際に訪れた叔母に「なんで働かないの?」という問いに答えて延々としゃべり続けるというのがこの小説の形です。

その主人公の回想の中で、中学校時代の教師の話が出てくるんですが、その話と主人公が働かずに家でごろごろしていることの関連が全くわからず、どうしてこんな話をもってくるのかがわかりませんでした。

主人公が何故世間並の生活をしようとしないのか、それに対するきっぱりとした主張を持っているのかいないのか…。そういった話を期待して読み進めていったんですが、全然そんな展開ではありませんでした。

話としてはつまらないわけではないんですが、主人公の回想のエピソードが小説のテーマとシンクロしてない感じで、ちょっと違和感が残りました。


そして「冷たい水の羊」。いじめの話です。主人公の大橋真夫は中学2年生。陰湿ないじめに遭っているんですが、自分がそれはいじめではないと論理的に否定することでかろうじて自分の精神の均衡を保っているような毎日。そしてクラスメイトの水原里子が「大橋君がいじめられている」と担任の先生に告げたことを知り、彼女を殺すことを考えるという、ちょっとやりきれない話ではあります。

小説それ自体にはそれ程シンパシーを感じたわけではないんですが、文中に出てくる比喩が新進の作家としてはなかなかうまいなぁと感じ入った次第です。例えばこんな感じ。


「断面ががたがたの石を組んで作られている白っぽい階段が昔の神殿の跡のように見える。水原は神も降りてこないし人間も去ったその場所に一人で残り、遺跡を守るために我慢して立っている風だった。」

「白い浜には松の影が、死体のように落ちていた。」

「街に本当の秋が来た。そして11月になると人間は、木の葉の色に慣れてしまったのか、今日もまだ秋のままなのだな、と思うが、その頃には秋はもう帰り支度にかかっていて、少しずつ街から退場してゆき、最後の一人が深々と礼をして去ったあと無人の舞台が残るように冬が来かけている。」



本書がデビュー作で、この間読んだ「切れた鎖」が出版作としては2作目とのことで、次の小説に期待したいと思います。

虚無の心象風景

2009-09-19 20:58:05 | あ行の作家
小沼丹「村のエトランジェ」読了



本作家の小説を読むのは初めてなんですが、以前読んだ庄野潤三と同じカテゴリーに入る作家であると、誰かのブログで知ったので興味が湧き、手に取ってみました。


初期の短編集ということで、表題作を含む8編が収録されています。


雰囲気は庄野潤三に確かに似てはいるんですが、庄野潤三の描く、淡々とした世界に比べ、小沼丹の小説は、淡い風景の中にも、少し毒があるような気がします。毒といって悪ければアイロニーと言い換えてもいいかも知れません。いずれにしろ、本作品は自分のツボではありませんでした。


解説を読むと、小沼丹はこの初期の時代を経て、「黒と白の猫」という小説で独自の世界を切り拓いたとあって、ちょっと読んでみたい気もするんですが、まぁいいかなと(笑)


洗練されたユーモアが持ち味の作家と言われてるようですが、しかしこの初期の作品集を読む限りではそれだけではない、先にも言ったようにアイロニーと、またペーソスが色濃く滲み出ている作家という印象を受けました。







《購入本》

エルヴェ・ギベール「赤い帽子の男」(先日読んだ堀江敏幸の「子午線を求めて」
   に触発されて)
橋本治「巡礼」(待望の橋本治新刊長編!)
西村賢太「瘡瘢旅行」(西村賢太、ついつい買ってしまうんです)
池波正太郎・壇ふみ他「山口瞳対談集1」(「2」が今月下旬刊行予定とのこと)
井上荒野「学園のパーシモン」
丸谷才一「笹まくら」
フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」


ジュンク堂名古屋2号店が栄のロフトにオープンしたので、ご祝儀代わりにたくさん買ってしまいました。

永劫回帰という重さ

2009-09-19 19:30:04 | か行の作家
ミラン・クンデラ著 千野栄一訳「存在の耐えられない軽さ」読了


久しぶりに重厚な長編を読みました。読後、しばし放心状態でした(笑)


本書のタイトル、「存在の耐えられない軽さ」というのは、たった一度きりの人生で、いろんな岐路に立たされたとき、その時の決断が是なのか非なのか、それはそのあとの人生でしかわからないという、自分の(又は全ての人間の)存在のあまりの軽さに耐えられないという意味だと思います。


この小説を読んで、登場してくる人物たちの運命というか、宿命に翻弄される姿を見ると、まさにその軽さに読んでいる方が耐えられなくなってしまいます。


以下、心に響いた箇所を引用します。たくさんあります(笑)




「…比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるものである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?」



「…生徒は誰でも、物理の時間にある学問上の仮説が正しいかどうかを確かめるために実験をすることが可能である。しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を実験で確かめるいかなる可能性も持たず、従って自分の感情に従うべきか否かを知ることがないのである。」



「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。それだから私はどれも同じように好きだし、私を同じようにぞくっとさせる。そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向う側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。」



「…メタファーというものは危険である。愛はメタファーから始まる。別なことばでいえば、愛は女がわれわれの詩的記憶に自分の最初のことばを書き込む瞬間に始まるのである。」



「私というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそかくされているものである。すべての人に同じで、共通のものだけをわれわれは想像できる。個人的な「私」とは一般的なものと違うもの、すなわち、前もって推測したり計算したりできないもの、ベールを取り除き、むき出しにし、獲得することのできるものなのである。」



「そしてふたたび、もうわれわれが知っている考えが彼をとらえる。人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。」




「…あの男は、歴史がスケッチではなく、もうできあがった絵であるかのように行動した。自分の行動にみじんも疑いを抱かず、やっているすべてのことが無限に繰り返され、永劫回帰をしているかのように振る舞った。自分が正しいことに自信を持ち、それを狭量の印としてではなく、徳性のサインとみなしていた。あの男はトマーシュとは別の歴史、スケッチではない(あるいはスケッチだと理解していない)歴史に生きていた。」




「…このユートピアの見通しには、ペシミズムとオプティミズムの概念を十分に使うことによってのみ、正当化が可能であろう。オプティミストとは第五の惑星における人間の歴史が血で汚されることがより少なくなっていると考える人である。ペシミストとはそう思わない人である。」



「俗悪なもの(キッチュ)が呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従って俗悪なもの(キッチュ)は滅多にない状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。恩知らずの娘、問題にされない父親、芝生を駆けていく子供、裏切られた祖国、初恋への思い出。
 俗悪なもの(キッチュ)は続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
 この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。
 世界の人びとの兄弟愛はただ俗悪なもの(キッチュ)の上にのみ形成できるのである。」



「…そしてトマーシュに対してさえ愛情をこめて接しなければならない。なぜなら、トマーシュがそれを必要とするからである。他人に対する関係のどの部分がわれわれの感情、すなわち愛、反感、善良さ、敵意の結果であり、どの部分が個々人の間における力の政策によって前もって定められているのか確信をもっていうことはできない。」



「…しかし主なることは、どんな人間でももう一人の人間に牧歌という贈り物をもたらすことができないことである。これができるのは動物だけで、それは《天国》から追われてないからである。人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えるような場面もなく、そこには発展もない。カレーニン(犬)はテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。」






主人公であるトマーシュ(プラハの優秀な外科医)、そしてその妻となったテレザ、トマーシュの愛人であったサビナ、そのサビナのまた別の恋人であるフランツ。彼ら彼女らの送った人生は果たしてそれでよかったのか。別の生き方もあったのではないか、という疑問を振り払うことができません。


しかし、人は一度しか人生を生きられないのですからその選択が正しかろうが、間違っていようが、それはもうどうすることもできないわけです。



人生の無常を痛切に感じます。

煙草と妻

2009-09-11 15:29:30 | た行の作家
田辺聖子「嫌妻権」読了


世に嫌煙権という言葉はあるものの、「嫌妻権」というものはついぞ聞いたことがないんですが、まぁ妻を嫌う権利ってことなんでしょうね。


いろんな夫婦が登場し、夫は妻のこんなとこやあんなとこがイヤといつも心の中でつぶやいている。しかし、それを逆手にとるような密かな楽しみを見つけ…


お聖さん独特の軽妙なユーモアとウィットに富んだ短編集でした。


自分にあてはめて考えてみると…ま、それはやめときましょ(笑)

疾走する妄想

2009-09-11 15:07:27 | た行の作家
田中慎弥「切れた鎖」読了



しかしこれもすごい小説でした。なんでも三島由紀夫賞と川端康成文学賞を史上初で同時受賞というふれこみに興味を持って読んでみたのですが…

なんの予備知識もなく読み始めたんですが、いやもうすごいですね。笙野頼子もかくやと思わせるような破天荒な内容で、びっくりしました。



「不意の償い」「蛹」と表題作の「切れた鎖」の三編から成る短篇集なんですが、最初の「不意の償い」で度肝を抜かれました。幼馴染の男女が彼の部屋で初めて結ばれたとき、すぐ近くのスーパーで火災があり、そこで働くそれぞれの両親四人が焼死するという、なんとも凄まじいストーリーです。

そしてその事が男のトラウマとなり、結婚してからもずっとそれが頭から離れず、そして妄想が妄想を呼び…という話です。



2作目の「蛹」。これは主人公がカブト虫なんですが、虫とか動物を擬人化した話は、はっきり言って好きではなくて、いやぁまいったなと思いながら読み始めたんですが、これがどうして、すごい話で一気に読まされてしまいました。しかし、この短篇を読んだ驚きをうまく言葉にできません(笑)


そして表題作の「切れた鎖」。これが一番現実に近いというか、まともでした(笑)

これは、梅代という、昭和の初めにコンクリート事業で財を成した桜井一族に嫁いだ女の、母から自分、そして娘、さらに孫へと続く系譜を縦糸に、そしてその家のすぐ裏手にある在日朝鮮人が活動する協会(統一原理?)との確執を横糸にして描いた一族の物語で、読了後、なんともやるせない思いをしました。



田中慎弥という作家、初めて読んだんですが、なんとも不思議な、また侮れない作家です。

人間の業の肯定

2009-09-11 14:20:12 | た行の作家
立川談志「新釈落語咄」読了



少し前に「談志楽屋噺」を読んだあと、書棚を見たらこれがあったので読んでみました。

落語ファンにはおなじみの古典落語を20席取り上げて、その内容から「人間の業」というものを考え、立川談志流の演じ方を説き、果てはそのテーマをもっと鮮明にするために話を変えてしまうという荒業を繰り出すという、さすが立川流の家元面目躍如といった態の内容であります。



いわゆる立川談志の哲学といった部分、ちょっと引用します。


「…我が立川流家元は、その夢見心地の世界に入れる要素というか、別な注文とでもいうか、その中に「人間の業」という世にいう非常識の世界の肯定をするところに落語の妙があるのだと考えている。」


「落語てえなぁ、日本人の文化と、その文化の中に住んでいる安住に、何のかんのとクレームをつけてきた。それは日本人としての安住があるとはいえ、どっかに欠陥があったからだろう。だってしょせん世の中、かりの姿で、どっかで無理ィしてるのだし、安住という無理を揶揄し、突っつき、共感を得ていた、という歴史を持っている。しかし文明開化とともに、また戦争に敗けたトタンに、日本人的発送を軽蔑し、国際感覚などという、日本人を無国籍人種にでもしろ、というが如きの文化人や評論家。彼らにあおられイライラ、ソワソワ、落ち着かなくなって、四六時中騒ぎまくっている現代人にお伽ばなしの『桃太郎』そのものを語ってやる必要があるようにも思える。が、もう、それも遅まきだろう。」


「芸能なんてすべからく、その芸人の技芸でもって夢の世界に入れてやればそれでいい。ユートピアの世界に客を入れて夢心地にすればいいのだ、という意見もある。だが家元のいう落語という芸能は、それらも多少あるけれど、本質は人間が創った常識という、人間が生きていくためにこしらえた学習というものの無理をどっかで識っていて、たまにゃあ、それらから人間を解放してやれ、と語っているものと考えるがゆえ、どうも、この人情咄というものには抵抗があるのだ。」


立川談志の落語、一度聞いてみたいもんです。

グルーブする魂

2009-09-04 12:41:19 | さ行の作家
笙野頼子「母の発達」読了


本作家は「タイムスリップ・コンビナート」「二百回忌」「なにもしてない」と読んできたんですが、どうも気になる作家で、また読んでみました。

しかしこれはすごい小説です。「母の縮小」「母の発達」「母の大回転音頭」の3部からなる構成になってるんですが、この猛烈なエネルギーにたじたじとなりました。テーマとしては「娘にとっての母とは」といったことではないかと思うんですが、もう、そもそもそんなテーマ自体がぶっ飛んでいってしまうような凄まじいパワーが全編に漲って読む者を圧倒させます。


しかし、内容はかなり難解です。難解で爽快。(笑)まぁこの小説の真意はわからなくても、このグルーブ感を堪能できればいいのかなと思いました。


笙野頼子、すごいわこの人。





《購入本》

田中慎弥「図書準備室」
小沼丹「村のエトランジェ」
エイミー・ベンダー「私自身の見えない徴」
ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」

以上、アマゾンで注文しました。