トシの読書日記

読書備忘録

黄色い傘と百科事典と父

2015-03-29 00:44:00 | は行の作家
堀江敏幸「めぐらし屋」読了



毎日新聞の日曜版に2006年に連載されたものを2007年に単行本として出版されたものです。


何年か前に一度読んだんですが、急に堀江敏幸の小説が読みたくなって再度本書を手に取ってみたのでした。


やっぱりいいですね、堀江敏幸。構成もうまいし、主人公の蕗子さんのキャラクターがなんともいい味で、作品の面白さを際立たせています。亡くなった父の遺品の中から出てきた一冊の大学ノート。その中に書かれていることから父と自分との記憶をたぐり寄せ、そして蕗子さんの知らなかった後年の父の仕事を思わぬ形で引き継ぐことになる…。この話の流れ方がなんとも絶妙で小憎らしいくらいです。


でもちょっと食い足りないという思いも否めません。もっとがっつり堀江敏幸、みたいな本、もう一冊読んでみましょうか。となるとあれしかないかな。

魂と魂の道行き

2015-03-26 23:38:25 | ま行の作家
村田喜代子「蕨野行(わらびのこう)」読了



単行本で1994年、文庫で1998年に発刊されたものです。


久々に胸にずしんとくる小説を読みました。この作家は以前にも「鍋の中」「龍秘御天歌(りゅうひぎょてんか)」「鯉浄土」等、何冊も読んできて、その構成の巧みさ、描写の鋭さに感服していたんですが、本書も傑作であると思いました。時代設定は、はっきりと特定されていないんですが、江戸時代末期くらいであろうことが推察されます。


馬庭(まにわ)の家に嫁いだ嫁、ヌイ、その姑、レンの心の対話というような形式になっています。


60になると村を出て二里ほど離れたところにある、ワラビ野という山へ入る掟があり、その年は男女合わせて九人のジジババが行くことになる。と、ここまで読むと、深沢七郎の「楢山節考」が思い出されるんですが、あにはからんや、本作は全く違う展開になっていくんですね。


毎日里へ降りて田畑の仕事を手伝い、なにがしかの食べ物をもらってまたワラビ野へ帰っていくんですが、その年の冷夏の影響で村は大凶作となり、ワラビの仕事納めと称して村に手伝いに来させなくする。彼らに分ける食べ物がないんですね。そこで九人の老人たちは、山で木の実を拾い、ワナを仕掛けて山鳥を獲り、川に入って魚を獲る。生きることへの執念もかくやと思わせるようなこのあたりのくだり、鬼気迫るものがあります。


そして最後、ヌイが孕み、隣の村では口減らしのため、生まれてくる子を殺すことが当たり前になっているような風潮の中、産むべきか、どうするか、悩みに悩むんですが、そのヌイの夢枕に立ったのが生まれてくる娘、これが姑のレンが成り代わった姿なんです。


嫁、姑の関係が、嫁の産む子が姑であるという、この発想がすごいですね。生と死が循環しているようなこの壮大なスケール、感動しました。村田喜代子、あなどれません。

「ものがたり」と「小説」

2015-03-24 23:03:30 | さ行の作家
須賀敦子「塩一トンの読書」読了



2003年に単行本が、2014年に文庫として発刊されたものです。


作家としては、超遅咲きのデビューであったのに(評論、翻訳は何冊も出していた)、1998年に69才の若さで逝ってしまった須賀敦子のエッセイ、書評をまとめたものです。


前にも同作家のエッセイかなにかを読んで思ったんですが、なかなか話が高尚でついていくにはちょっと大変なところがあります。書評にしても知らない作家ばかりで、わずかに知っているのはアントニオ・タブッキと関川夏央くらいか。しかし、知的好奇心を満足させるには充分なエッセイでした。


本書の中で谷崎潤一郎の「細雪」についての書評というか、考察が一章を割いて書かれているんですが、すごいですね。自分も何年か前に「細雪」を読み、素晴らしい小説とは思ったんですが、ここまで深く深く読まないと本当の素晴らしさは理解できないんだということがよくわかりました。いやはや、恐れ入りました。


ちなみにこの本のタイトルは、イタリア人と結婚した著者が姑に「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言われたことに由来します。一トンの塩をいっしょに舐めるということは途方もない時間がかかる。人と人とが理解しあえるというのはそれくらい大変なことなんだ、という意味なんだそうです。


著者はそれを自分と本との関係に置きかえて考えてみるわけです。一冊の書物を理解するには、長い時間をかけて何度も読み直し、そして読むたびに新しい発見があったり、若い頃読んだときに受けたものと、年を経てから読んだものとでは理解の深まり方がかなり違うとか、そうやって私(著者)は本と付き合っていきたいと、こうおっしゃっているわけです。なかなか含蓄のある言葉です。


「本を読むことは生きることと同義」とおっしゃっていた須賀さん、改めて冥福を祈ります。

独創的な怪異談

2015-03-22 01:32:20 | か行の作家
幸田露伴「幻談・観画談」読了



平成2年に岩波文庫から出版されたものです。


言わずと知れた自分が敬愛する幸田文の御尊父であります。幸田露伴という作家は難しくて読みにくいという先入観があって、敬して遠ざけていたんですが、この五編が収録された短編集は以外とそうでもないものもあり(すごく読みづらいものも二編ほどありましたが)、なんとか読み通すことができました。


最初に収められている「幻談」という作品。読後、不思議な気持ちにとらわれました。一種の怪談のような話なんですが、「それで?」と突っ込みを入れたくなるくらい何でもない話なんですね。


船頭を雇って海釣りに出た侍が、水の中から竿のようなものが出たり引っ込んだりするのを見る。よく見ると溺死者が釣竿を握っていることが分かる。その竿がかなりいい竿なので取ろうとすると死者が固く握っていて放さない。それを無理に指をこじ開けて竿を取る。翌日、その竿を持ってまた釣りに出かけるとまた、海の中から竿が出たり入ったりしている。そこで南無阿弥陀仏と言いながら竿を海に返す、という、そんな話なんですが、なんですかね、これ。


なにか訓話めいた話かなと思うんですが、どうやらそうでもないようで、よくわかりません。よくわからないんですが、何とも言えない深い味わいがあるんですね。


五編の作品が必ずしも同じ文体ではなく、軟らかいものもあれば硬いものもあり、それぞれ楽しめました。中でも圧巻なのは「盧生(ろせい)」という作品。いつも川に釣りに出かける主人公が(しかし釣りがよく出てきますね)、いつもの場所に少年が坐って釣り糸を垂れている。これを見とがめた主人公が、そこをどいてくれないかと話をするんですが、そんなやり取りのあと、少し引用します。

<…この不満足な設備と不満足な知識とを以て川に臨んでいる少年の振舞が遊びでなくてそもそもなんであろう。と驚くと同時に、遊びではないといっても遊びにもなっておらぬような事をしていながら、遊びではないように高飛車に出た少年のその無智無思慮を自省せぬ点を憫笑(びんしょう)せざるを得ぬ心が起ると、殆どまた同時に引続いてこの少年をして是(かく)の如き語を咄嗟(とっさ)に発するに至らしめたのは、この少年の鋭い性質からか、あるいはまた或事情が存在して然(しか)らしむるものあってか、と驚かされた。>


どうですか、この回りくどい文章。すごいもんです。いや、これはほめてるんですがね。


いずれにせよ、この大正末期から昭和の初期にかけての露伴晩年の作品集、大いに楽しませてもらいました。

フェティシズムの虚実

2015-03-10 10:27:15 | た行の作家
谷崎潤一郎「金色の死――大正期短編集」読了


ふと思い立って、このブログを非公開から公開にしました。まぁ、めったに来る人もいないとは思いますが、もしそんな酔狂な人がいましたら、拙いレビューですがよろしくお願いします。


本書は講談社文芸文庫より2005年に刊行されたものです。


何年か前に谷崎作品に集中した時期がありまして、自分なりにコンプリートしたつもりだったんですが、本作品のほとんどが未読で、自分の至らなさを痛感した次第です。解説の清水良典氏が指摘するように、谷崎は明治時代の終わり頃に「刺青(しせい)」「秘密」等の作品でデビューしたその当時からほとんど完成されたスタイルを持ち、その後、それをあえて崩そうともがいたのが大正の時代だったのではないかと思います。


それを経て昭和に入り、「卍(まんじ)」「蓼喰ふ蟲」、そして自分が谷崎文学の最高峰と位置づけたい作品「春琴抄」等の作品が生まれたわけです。


なので、自分が以前に「谷崎潤一郎フェア」の時に読んだのは、ごく初期の作品群と、中期から晩年のあたりのものを読んでいて、この大正期の作品がすっぽり抜け落ちていたわけですね。まぁそれはいいとして。


本書は全部で七編の短編が収められた作品集になっています。どれも面白いんですが、出色は「富美子の足」ですね。主人公の宇之吉という画学生と、その彼の上京の折に世話を焼いた遠い親戚に当たる隠居、そしてその妾、富美子、17才。登場人物はこの3人です。


隠居が宇之吉に富美子の肖像画を描いてくれと頼むんですが、ポーズに注文があるわけです。種彦の田舎源氏という浮世絵に描いてある女と同じポーズでやってくれと。それは縁側に腰をかけながら泥で汚れた右の素足を女が手拭いで拭くという形なんですが、その絵を描写する部分、引用します。


<…上半身をぐっと左のへ傾(かし)げ、殆ど倒れかゝりそうに斜めになった胴体をか細い一本の腕にさゝえて、縁側から垂れた左の足の爪先で微かに地面を踏みながら、右の脚をくの字に折り曲げつゝ右の手で其の足の裏を拭いている姿勢…>

女のたおやかで柔らかい体が非常に不安定な姿勢であるがために全身の筋肉を緊張させている、その点に隠居は女の美しさを見るわけです。そして宇之吉も同じ感情を抱きます。


そして極めつけは、延々6ページにも及ぶ富美子の足の描写です。谷崎潤一郎の足フェチの面目躍如の感があります。この足フェチの性癖が「瘋癲老人日記」へとつながっていくんですね。この谷崎潤一郎といい、川端康成といい、世間では文豪と呼ばれている人が、ひとつ間違えると単なるエロ爺になってしまうところが面白い。


他にも表題作である「金色の死」、また「途上」「母を恋ふる記」(再読)等、ある意味実験的な小説も含めて、久々に谷崎文学を堪能しました。




姉に以下の本を借りる


嵐山光三郎「文人御馳走帖」
須賀敦子「塩一トンの読書」
藤枝静男「愛国者たち」

2月のまとめ

2015-03-03 18:04:13 | Weblog
2月に読んだ本は以下の通り



中島京子「小さいおうち」
カズオ・イシグロ著 飛田茂雄訳「浮世の画家」
柴田元幸「死んでいるかしら」
中村南「サイドショー」
ハインリヒ・フォン・クライスト著 種村季弘訳「チリの地震」


以上の5冊でした。カズオ・イシグロの魅力を少しですが、やっとわかりかけてきました。また、柴田元幸のエッセイも楽しませてもらいました。中村南もクライストも面白く読ませてもらい、2月は冊数は少ないものの、中身の濃い読書ができました。



今やっている店を3月いっぱいで閉めて、4月から別の場所で同じ商売をすることになり、その準備で忙しい毎日を送っております。そのため、3・4月はちょっと読書どころではないかもです。まぁ夜とかは時間ができると思うんで、ぼちぼちやっていこうと思います。

カタストロフの昇華の果て

2015-03-03 17:04:50 | か行の作家
ハインリヒ・フォン・クライスト著 種村季弘訳「チリの地震」読了



これは姉から借りたものです。17世紀のドイツの文学者、クライストの短編集です。多分姉は大江健三郎の「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」の中で主人公の古儀人が、親友の映画監督と一緒にクライストの代表作である「ミヒャエル・コールハース」という作品を映画化しようと企てるくだりがあるんですが、そこに目をつけてクライストの「ミヒャエル・コールハース」を読もうとして探したところ見つからず、仕方なく本書を手に取ったのではないかと推察されます。まぁそれはいいとして。



しかしすごい作品ですね。文体が。訳者の苦労たるや大変なものがあったのではと拝察します。中世のドイツの貴族達のこの芝居っけたっぷりのセリフが、まるで演劇のようで面白かったです。そういえばこの作家、劇作家でもあるようです。また、文中の持って回った言い回しとか、大仰な例えとか、いかにも大江健三郎が好みそうな作家です。


例えて言うなら

<…思考から表現への精神の移行という突然の業務交替が、考えたことを口にだすのに必要でもあれば、考えたことを固定するのにもなくてはならない精神の刺激を、ふたたびすっかり解除してしまったのだ。言語というものがいかにも安直に私たちの手元にあるために、考えてはいても考えるのと同時に口に出すことのできない何事かをすくなくとも可能なかぎりすみやかにたたみかけてゆくことが、こうした場合だけになおのことゆるがせにできない。>(「話をしながらだんだんに考えを仕上げてゆくこと」より)


とか、

<「…このように認識がいわば無限のなかを通過してしまうと、またしても優美が立ちあらわれてきかねないのです。ですから優美は、意識がまるでないか、それとも無限の意識があるか、の人体の双方に、ということは関節人形か、神かに、同時にもっとも純粋に出現するのです」
「とすると」と私はいささか茫然として言った、「私たちは無垢の状態に立ち返るためにはもう一度認識の樹の木の実を食べなければならないのですね?」
「さよう」と彼は答えた、「それが、世界史の最終章なのです」>(「マリオネット芝居について」より)


どうですか、この文章。まぁしかしわけがわからないなりに楽しませてもらいました。