トシの読書日記

読書備忘録

自身の存在そのものに対する羞恥

2011-03-28 17:24:54 | か行の作家
倉橋由美子「パルタイ」読了



ふと、ずっと前から積んである未読本を片づけようという気になり、手に取ってみたのでした。


初版が昭和35年といいますから、今から50年も前の作品ということですね。自分も馬齢を重ねるわけです。


読んでいて感じたのは、カミュ、サルトル等のいわゆるフランス文学の香りが非常に色濃く漂っているということです。解説を読んで納得しました。この短編集は、著者が明治大学の在学中に執筆されたということなんですが、彼女は仏文科で、カフカ、カミュ、サルトル、ジュネ等の影響を強く受けていると、彼女自身のエッセイの中で述べられているということです。


なんともいえない不条理の世界。自分が存在すること、そのものが恥であるという観念。最後に納められている「密告」という中編から引用します。


《ぼくはいまぼくがどこに存在するかを知らない。ぼくのまわりを包んでいるのはなにかが灼けるような無の匂い、これはあなたがたの顔をしかめさせるものにちがいない。ぼくは無を分泌してあなたがたの世界に円筒形の穴をうがち、世界の裏、無の、紅色の反世界をみていた。世界はいたるところでねじれ、裏返しになり、みえない穴だらけになっている。世界は血をたたえた瞳のような穴でいっぱいだ。その穴はあなたがたの皮膚の裏につづいているのかもしれない。いまのあなたがたは裏側の世界を信じるだろう。》



著者自身の「後記」で、この作品集を「存在論の核を包みこんでいるある形而上学を、イマージュの造形物に転位させることをねらいとしたものです。」ということです。むずかしすぎてよくわかりませんが(笑)



惜しむらくは、自分がもっと多感な時期(16~20くらい)の間に読んでいれば、ものすごい衝撃を受けたであろうということです。

即物的に生きるということ

2011-03-28 17:15:35 | あ行の作家
伊藤比呂美「日本ノ霊異(フシギ)ナ話」読了



ずっと前に姉から「これ、めちゃ面白いよ」と言われて借りたまま未読本の山の中に埋もれていたのを発掘してみました。


いやーめちゃ面白かったですねぇ。日本最古の仏教説話集「日本霊異記」に材をとったということなんですが、なんとも不思議な世界を見せてくれました。解説の津島佑子が言うように、これらの物語に出てくる男女(特に女)のなんとも即物的なこと。そして人間のみならず、草木や小さな虫に至るまで生きるエネルギーを強く感じます。


また文体がなんともいえない味なんですね。文語的な表現が続く中で、いかにも現代の若者が使いそうな言い回しが出てきたり。ちょっと町田康を思い出しました。そういえば二人とも小説家であり、詩人でもあるんですね。


またまた気になる作家が出現してしまいました。伊藤比呂美、他の著作も読まねば!

暴論こそ正論である

2011-03-28 17:05:26 | か行の作家
呉智英「サルの正義」読了



久しぶりに呉智英の評論を読みました。以前、「大衆食堂の人々」とか「バカにつける薬」等を読んで、溜飲の下がる思いをしたものでしたが、今回、本書を読んだ感想は、それとはちょっと違うものでした。


なんと言えばいいのか、言っていることは「そうそう、その通り」と思うんですが、論点の核心をついていない感じで、枝葉末節なことばかりあげつらっている感が否めないでもないです。

また、問題に対する論旨がちょっと違うというか、有体にいえばかみつき方がおかしいんですね。でも、死刑を廃止し、仇討ちを復活せよとか、日本の水田はすべて国立公園にしろとか、暴論なんですが面白いですねぇ。ほんとにそうなったらもっと面白いんですが。


まだ味読の呉の本が何冊かあるので、また忘れたころに読んでみましょうかね。

ノラは野良のままで

2011-03-28 16:44:11 | あ行の作家
内田百「ノラや」読了



同作家の最晩年の随筆であります。全編、飼っていた猫のことで埋め尽くされています。ある日、迷い込んできた小さな野良猫に御飯を与えるうち、家に居つくようになった「ノラ」。それがある日、庭から外に出かけたきり、帰らなくなってしまった。百は猫を捜すため、新聞に広告を出したり、折り込み広告を作ったり、(英字の折込まで!)警察に捜索願を出したりと、東奔西走します。


そうするうち、また一匹の迷い猫が庭に入ってきて、居つくようになるわけです。「ノラ」への思いを捨てきれないまま、その猫をもまた飼い始めるんですね。名前は「クルツ」。そのクルツが5年後に病死してしまい、それ以来二度と猫は飼わなかったということです。


しかし、百先生が猫捜しに真剣になればなるほど、なんだかおかしくなってしまうのはどうしたもんですかね。笑っては失礼と思いつつ、つい顔がほころんでしまいます。当人は「私(共)が猫を可愛がつたとか、クルを鍾愛したとか、特にそうしたつもりはないが…」などとおっしゃっていますが、どうしてどうして、まさに文字通りの猫っかわいがりですよ、先生。


でも、本書の一番最後、結びのところ、内田百の愛に満ちた心根が胸をうちます。引用します。



《寒い風の吹く晩などに、門の扉が擦れ合つて軋む音がすると、私はひやりとする。そこいらに捨てられた子猫が、寒くて腹がへつて、ヒイヒイ泣いてゐるのであったら、どうしよう。ほつておけば死んでしまふ。家へ入れてやれば又ノラ、クルの苦労を繰り返す。子猫ではない、風の音だつた事を確かめてから、ほつとする。》

魂の灯

2011-03-28 16:20:12 | は行の作家
ポプラ社百年文庫「灯」読了



あの例の事件で有名になったポプラ社が刊行した百年文庫というシリーズで、本書はその「31」であります。この企画は、過去の有名な文豪の作品をテーマ別にカテゴライズし、それぞれにタイトルをつけて100冊を文庫にして出すという、考えようによってはとんでもない企画です。その中から迷いに迷って1冊だけ買ってきたのでした。


この「灯」と題された文庫には、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン、正岡子規の3人の短編が収められています。 


中でもやっぱり夏目漱石の作品は光ってますねぇ。「琴のそら音」という短編なんですが、主人公である「余(靖雄)」が友人である津田君の家へ遊びに行って話をするんですが、津田君の友人が戦争のため満州へ渡ったときのこと、日本に残された妻が風邪をこじらせて肺炎になり、死んでしまったちょうどその時、遠く満州にいる夫が、細君から持たされた小さな手鏡を見るともなしに見ていると、そこに奥さんの姿がスーッとあらわれたという。


その話を聞いた「余」は、風邪をひいて寝込んでいる自分の許婚のことが急に心配になり、急いで家に帰り、手伝いのばあやに「何か知らせはなかったか」と聞くが、特に何もないという。まんじりともせず朝を迎え、一番で許婚の家へ駆け込むのだが、彼女はとっくに風邪は治って、元気になっており、まぁほっと一息つくという、あらすじはそんな話なんですが、その津田君の怪談じみた話とか、主人公が冷たい雨に濡れながら家路を急ぐ様子とか、恐怖を煽り立てるような文章が読む者をぐいぐい引き込みます。やっぱりうまいですね。


ラフカディオ・ハーンの「きみ子」という作品、これはちょっとぴんときませんでした。ハーンが亡くなったとき、ホーフマン・スタールという人がその追悼文の中で、この作品を「あの愛すべき、おそらくはいちばん美しい書物」と述べているそうなんですが、なんだかなぁという感じです。


正岡子規は、四つの短編が入っています。どれもこれもただ情景を描写しただけのような淡々とした文章なんですが、味わいがありますね。ちょっととぼけたところなんか、内田百を思い出させます。



この百年文庫、他の作家のも読んでみたくなりました。

男という異国

2011-03-28 16:08:19 | は行の作家
堀江敏幸「ゼラニウム」読了



久々の更新になりました。3月に卒業でやめていくアルバイトが何人かいて、新しいアルバイトがなかなか採用できず、人手不足で今日、やっと休みがとれたのでした。それはさておき…


同作家の未読の文庫を本屋で偶然見つけたのは初めてのことであります。6編の短編が収められています。5編は全て舞台はフランスです。そして最後の「梟(ふくろう)の館」という短編だけが東京での話になっています。


今まで読んだ堀江作品とは少しばかり趣きを異にしています。というか、全編にわたるテーマがあるんですね。どの小説も「私(男)」という主人公が、女性と知り合い、そのつかず離れずの関係を保ちながら物語は進んでいき、最後は意外な結末で終わるという、簡単に紹介するとそんな話です。


しかしうまいですね。ひとつひとつ読み終わる毎に「うーん」と唸ってしまいます。「私」にからむ女性との淡いエロティシズム。それが決して下卑た表現にならないのは堀江の手練れの技です。


堀江敏幸、健在です。また偶然本屋で同作家の本を見つけられるのを楽しみにします。

編集者という重いパートナー

2011-03-10 14:53:54 | か行の作家
レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳「ビギナーズ」読了



これは、同作家の「愛について語るときに我々の語ること」のオリジナルヴァージョンであります。というのは、「愛について…」という短編集は、カーヴァーの担当編集者であるゴードン・リッシュが大幅に内容を削除し、文章を組み替え、順番を入れ替えたものだったということなんですね。


編集者が作家の書いた小説に対して、ここはこういう風にした方がいいとか、あそこの表現はちょっとまずいんじゃないかとか、そんな風にアドバイスをすることはよく聞くんですが、これは、そんなレベルをはるかに越えてしまっているようです。なぜそんなことがまかり通るのか?それは、カーヴァーとゴードン・リッシュの関係を知るにつれて明らかになってくるわけです。


今回、本書を読むにあたって、かたわらに「愛について…」を置き、両方を読み比べるという形の読書をしてみました。どの短編も大幅にページ数が少なくなっています。以前、「愛について…」を読んだ感想に、極端に削ぎ落とした文章がすばらしい云々と書いたんですが、それが、カーヴァーのオリジナルではなく、編集者が行った作業だと知ると、ちょっと複雑な気持ちです。


でも、改変したヴァージョンも、オリジナルヴァージョンもどちらもそれぞれに良い味わいがあります。そして「ささやかだけれど、役にたつこと」、何回読んでも心がふるえます。


今回はちょっと変わった読書体験ができ、なかなかに楽しかったです。

男と女の間に横たわる暗闇

2011-03-05 16:01:31 | た行の作家
富岡多恵子「九つの小さな物語」読了



先日読んだ車谷長吉の「文士の魂・文士の生魑魅(いきすだま)」の中で紹介されていた「ハタチか二十一か二十二の男と三十五か六か七に見える女」が収められている短編集です。家の書棚を漁っていたら偶然見つけたので読んでみたのでした。


本のタイトル通り、九編の短編が収められています。ごくごく短い話ばかりで、どれもこれもせいぜい10項くらいのものです。


しかしうまいですね。さまざまなシチュエーションの中で、書かれているのは男と女の話がほとんどなんですが、女の意地悪さ、計算高さ、そして男のずるがしこさと間抜けさが富岡多恵子の鋭い視点で暴き出されています。


「ハタチか…」は、この本の最後に収められた短編なんですが、女の、人を人とも思わないような男の扱い方にぞっとさせられます。怖い小説です。



久しぶりに富岡多恵子読んだんですが、この作家もただものではありません。昔読んだ「丘に向かって人はならぶ」「植物祭」を思い出しました。この時代の女流作家(大庭みな子、河野多恵子、倉橋由美子等)の中では、一歩抜きん出ている感があります。まぁそれぞれ作風は違うんですがね。