トシの読書日記

読書備忘録

気障(きざ)と粋(いき)

2010-05-29 18:29:40 | あ行の作家
伊丹十三「女たちよ!」読了


先週のFM愛知「メロディアス・ライブラリー」で紹介されていた本で、確か持っていたはずと本棚を捜すものの見当たらず、見当たらないと無性に読みたくなり、アマゾンに注文して取り寄せたのでした。

いかに楽しく快適に生きていくか、というものをテーマに据え、食べ物、ファッション、車、女性など、多岐にわたって著者の思うところを余すところなく披露したエッセイです。


まず一番驚くのは、この本が刊行されたのが昭和43年ということ。なんと40年以上も前の時代にこんなお洒落な、粋なセンスの人がいたということですね。

例えばスパゲティの正しい作り方。もう、こんな時代に「スパゲティの茹で方はアルデンテでなくてはならぬ」とおっしゃってるんですね。あの頃のスパゲティといえば、芯がなくなるまで充分に茹でたスパゲティを、さらに油をひいたフライパンに入れ、野菜やらウィンナやらと一緒に炒め、それにトマトケチャップをからませて「イタリアン(この大雑把なネーミング!)」とか称してそれがもう、すごくハイカラな食べ物だったわけです(これはこれで今でもおいしいんですが 笑)。それを「スパゲティはうどんではない!」と喝破するあたり、只者ではありません。


まぁとにかくこんな調子で著者の「本物」に対するこだわりが綿々と綴られています。ちょっとスノッブ的なところが鼻につかないでもないんですが、それはそれとして痛快なことこの上ない極上の一冊でした。

いつでも引き返すことの可能な死

2010-05-29 17:51:34 | は行の作家
藤枝静男「田神有楽(でんしんゆうらく)/空気頭」読了


ちょうど1年ほど前に読んだ小説の再読です。先日、同作家の「欣求浄土/悲しいだけ」を読み、これを読んだうえでもう一度「田神有楽/空気頭」を読むとさらに味わい深くなるのではと思い、手に取ったのでした。

「欣求浄土/悲しいだけ」で藤枝静男が追求したテーマは「生と死」であると書きましたが、今回「空気頭」を再読して思うのは、やはり「生と死」をモチーフにしているのには変わりはないんですが、ここではそれを更に突き詰めて展開している感じがします。自分が自分から離れて心が自由になる時、それが「よく生きる」という観念につながる、ということではないか、と以前書きましたが、本作品でもそれがもっと具体的な形で表れている場面があります。


自分が自分から抜け出て浮き上がり、天井に張り付くというシーンが出てきます。

「『ああ』と私は思いました。満足と喜びの情が湖のように私の胸を浸しはじめました。私は、自分の精神が今、空白であると同時に残る隈(くま)なく充足していることを感じました。自分がB子からも、糞尿からも、すべてのこれまでの煩わしい苦悩から、まったく解放されているのを信ずることができました。『心が自由になると、何もかもよく見えるものだなあ』安富君が耳のそばで呟くように云いました。『つまり離れるのだな』『ええ』と私は頷きました」


解説の言葉を借りるなら、藤枝静男は実在的な「私」から発して虚在的な「私」に至る、そうした一つの精神を創造したかったということです。そして彼は私小説という仕方でその言語空間を表現したわけです。

しかし私小説家というのはよくよく辛い商売であるよなぁという感に堪えません(笑)



もう一つの作品「田神有楽」。これは他の藤沢作品とは大きくイメージを異にしています。めちゃくちゃ面白いです。

弥勒菩薩の化身だというモグリの骨董屋の主人公を中心に、志野のグイ呑み(これは金魚のC子といい仲になり、なんと!愛し合った末、金魚に産卵させる)、抹茶茶碗の柿の蔕(へた)、丹波の丼鉢といった陶器(これらはすべて偽物)が登場し、アナーキーで自由な世界を繰り広げるわけです。

これは考えてみると「空気頭」の暗い世界を完全に反転させたものとして見ていいのかも知れません。

とまれ、こんな野暮な詮索は無用というもの。素直に笑って読めばいいと思います。

本は再読することでもっともっといろんなものが見えてくるし、より深く味わえる。良い経験をしました。



高齢化社会の弊害

2010-05-24 17:55:47 | た行の作家
筒井康隆「銀齢の果て」読了


時々、発作的に筒井康隆を読んでみたくなります。

近未来の話なんでしょうが、増え続ける老人に年金制度はとっくに破綻し、国の財政も立ち行かなくなってしまったため、老人の人口調節のため、政府は70歳以上の老人に地区ごとに殺し合いをさせる「老人相互処刑制度(シルバー・バトル)」を開始するという、なんとも荒唐無稽なお話です。

筒井康隆の作品は、「虚人たち」とか「虚航船団の逆襲」等のように独特の世界に昇華させている作品があるものの、本作品のように、ひとつ間違えると「なんだかなぁ」というものになってしまう危険性も孕んでいます。お笑いの世界で言うところのギャグが「スベった」というやつですね。

内容はかなり悪趣味で感心しませんでした。ラストもいまひとつ工夫が足りなくてちょっとねぇ…

残念でした。



ネットで以下の本を注文する。

伊丹十三「女たちよ」
河野多恵子「不意の声」

よく生き、よく死ぬ

2010-05-20 17:46:07 | は行の作家
藤枝静男「悲しいだけ/欣求浄土」読了


佐伯一麦を読み、そういえばと思い当たり、佐伯の「私小説作家」としての大先輩である藤枝静男を読んでみたのでした。

同作家の小説は、以前「田神有楽/空気頭」というのを読んでいて、荒唐無稽な話でありながら読ませる作家であるという印象をもっていました。この「悲しいだけ/欣求浄土」は今から35年程前に執筆されたものです。完全に私小説の形になっていて、エッセイでは?と思わせるくらいリアルな私小説です。


この藤枝静男という作家は、「生と死」というテーマをずっと書き継いできた作家のようで、本作品にもそれは一貫して色濃く流れています。


正直言って内容はかなり難解です。それでも自分なりの解釈を試みるなら、自分の欲望、欲求を捨て、自分が自分から離れて心が自由になる時、それが「よく生きる」という観念につながる、ということではないかと思います。


印象に残った箇所を引用します。

「私の頭のなかの行くてに大きい山のようなものの姿がある。その形は、思い浮かべるどころか想像することも不可能である。何だかわからない。しかし自分が少しずつでも進歩して或るところまで来たとき、自分の窮極の行くてにその山が現れてくるだろう。何があるのだろう。わからないと思っているのである。今は悲しいだけである。」

「章が書くような小説は、評者によって『私小説』または『感想小説』というレッテルを貼られて、正統な小説より一階級下のものとして一括軽蔑されている。しかし彼は、思想とか現代の不安とかいう利いたふうな言葉が大嫌いなうえに、この一括された人たちの下級小説が大好きだから、その仲間に入れられたことを名誉に思い、(後略)」

「白毛のマリア、冬の王、沙漠の孤児、こういう苛酷な生を自分に課して脳裡に游泳している。彼等が理想の強者だという気がしてならぬのである。段階をもって徐々に近づいて行ける境涯ではないと感ずるのである。


そして「欣求浄土」の最後の部分。これが一番心に強く残りました。

「章から離れたところで、サロマ湖の水が海に向かって流れ出ていた。(中略)彼等は後から後からと湖を流れ出、左手に退いて寄せているオホーツク海の波を押し、次々とその腹のところに呑みこまれて消えて行くように見えた。(中略)『逃げていく』、と彼は思った。気のせいか、自分の意志で開放されて行くようにも思えた。嘘でもその方が気持ちよかった。」

ここの「自分の意志で開放されて行くようにも思えた。」これが自分が自分から離れる瞬間を捉えたところではないのかと思います。ただ、「嘘でもその方が気持ちよかった。」と記述されているところに藤沢の苦悩が浮き彫りにされているように思います。

日常を丁寧に受け止める

2010-05-20 17:32:37 | さ行の作家
佐伯一麦「ショート・サーキット」読了


という訳で、また佐伯一麦を読んでみました。本書は初期短編集ということで、1987年~1996年の約10年の間に書かれた短編5編が編まれています。

前回読んだ「ア・ルース・ボーイ」と比べると、文体も掘り下げるテーマもこちらの方が格段に重厚で良い出来になっていると思います。ただ、5編の小説が、妻となる女性と知り合って結婚し、子供を3人もうけてのち破局に向かうという流れの中で、同じようなエピソードが行きつ戻りつしてどの作品も似たような味わいになってしまっているのは、私小説の悲しい宿命と言わざるを得ないのかと思います。


小説(フィクション)とはいえ、私小説ということで、ほぼ事実に即した事が書かれていると思うんですが、相当苦労してますね。この方。それはそれで大変だったでしょうとねぎらいの言葉のひとつもかけるのにやぶさかではないのですが、小説そのものの評価となると話は少し違います。

ストーリーの途中で、何度も過去を回想する場面が出てくるんですが、それがいかにも唐突で、ぎこちない印象で、さらにいくつかの短編に同じようなエピソードが挿入されるので、なかなか話がきちんと飲み込めませんでした。


ただしかし、この作家の生きていく姿勢には人をたじろがせるものがあります。生きていく人間の当たり前の姿を過不足なく描ききっている点には脱帽せざるを得ません。

自分の独房の広さを自慢する囚人

2010-05-15 18:06:46 | さ行の作家
佐伯一麦「ア・ルース・ボーイ」読了


ちょっと前に同作家の「鉄塔家族」を読んで、面白かったものの、なんかいまひとつの感が拭えず、もう1冊と思って手に取った次第。


これもなんだかなぁでしたね。いまふたつって感じですね。高校を中退した17歳の少年と同級生で高校を退学になった女の子の物語です。女の子には生まれたばかりの赤ちゃんがいるんですが、それは主人公との間にできた子ではないんですね。まぁそれでいろいろ話が繰りひろげられていくんですが、なんということはないですね。そこいらにあるような甘ったるい青春小説の類とは質を異にしていますが、でもねぇ…どうなんでしょ。


佐伯一麦、もう1冊買ってあるので、次に期待します。それもつまんなかったらさようならですね(笑)


虚構(フィクション)の新たな地平

2010-05-15 17:45:30 | あ行の作家
安部公房「密会」読了


諏訪哲史「アサッテの人」を読んで、安部公房とテイストが少し似ていると感じ、この本が未読であったことを思い出し、読んでみたのでした。


まったく違う作家でしたね(笑)まぁ、雰囲気は似てなくもないんですが、書こうとしているものには大きな隔たりがあります。どちらも好きですが。

しかし安部公房はすごいですねぇ。以前「箱男」を読んで、この作家の素晴らしさを実感したんですが、「密会」は「箱男」の次に刊行された作品ということで、その脂の乗り切った勢いのようなものを感じました。

安部作品の大きな特徴の一つは、文中の独特な比喩にあると思います。本作品でも、その個性的な比喩が余すところなく発揮されています。以下、安部公房ならではの比喩の数々、列挙してみます。


「豆を炒るような甘い風」
「思考が熱湯のなかの脂身のように縮み、紙のように薄くなる」
「踏み固められたフェルトのような聞き分けにくい雑音」
「じらされすぎた猫が、思わず毛を逆立ててしまうような気分」
「野球のネットでミジンコをすくっているような心もとなさ」
「冷凍ミカンの表面についた氷の薄皮のように、希望がぱらぱらと剥げ落ちる」
「パステルの粉をまぶしたような声」
「顔の裏が、水を吸ったみたいにぽってりとむくむ」
「まるで廃品回収のトラックから逃げだしてきた虫食い人形一座の気違いパーティ」
「一面に淡い青灰色の絨緞が、猫の仲間入りを強制するような厚さで敷きつめられていた」


きりがないのでここらでやめときますが、一種独特なイメージを醸し出しています。


「箱男」の重要なモチーフが「覗き」であったのに対し、この作品は「盗聴」がモチーフとなっています。ある夏の夜明け頃、突然やってきた救急車が妻を連れ去る。誰が呼んだわけでもないのに。男は妻を捜しに病院へ行くのですが、訳のわからないいろんなことに巻き込まれていくという、一見不条理な話なんですが、よく読んでいくと人間の持つ「希望」または「絶望」といったものが、くっきりと浮かび上がってきます。

小説最後の数行が非常に印象的です。

「ぼくは(中略)もう誰からも咎められなくなったこの一人だけの密会にしがみつく。いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて…。」

日常の凡庸さに対する生理的反動

2010-05-15 17:23:45 | さ行の作家
諏訪哲史「アサッテの人」読了



「ロンバルディア遠景」を読んで、この作家は只者ではないと思い、デビュー作を読んでみました。

この作品で、第50回群像新人賞、第137回芥川賞のダブル受賞をしています。


いやぁすごい小説ですね。テイストが安部公房の「箱男」にちょっと似てます。話は全然違うんですが。

「私」の叔父についての話がずっと続いていくんですが、定型的な毎日を一瞬にして無意味なものに変えてしまう魔法の言葉、それが「ポンパ!」なんだそうです。

以下、引用します。

「生きること自体が目的だと人は言う。だが個人が生きたいと欲することは、『意志』という宇宙的な欲望の渦の、ほんの一端に過ぎないのだ。僕の『食べたい』、『抱きたい』、『生き続けたい』という当たり前な欲望は人間という種を存続させるための巨大なプロジェクトの一環なのだ。さらに、ここでもっとも重要なことは、この『意志』の欲求には最終的には何らの目的もないという一点だ。」

「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して圧倒的に無関係な位置に至ること…。(中略)『アサッテ的感性』とは、つまりこれらの志向を指す言葉であろう。」


つまり、「アサッテ」というものは、日常的な凡庸さから逸脱するために「ポンパ」という言葉を発してその場を支配する予定調和的なものから完全に無関係な位置へ突き抜けるという行為なわけです。

なんだかわかったようなわからないような…(笑)でもめっちゃ面白かったです。この発想が素晴らしいですね。

笑わせてもらいました。

ただの美しさ

2010-05-10 18:12:33 | か行の作家
川上未映子「ヘヴン」読了


「わたくし率イン歯ー、または世界」で度肝を抜かれ、「乳と卵」でうーんと唸らされた同著者の最新長編であります。といっても8ヶ月位前の発刊ですが。

まず、標準語で書いてあるところにちょっとびっくりしました。川上未映子は、大阪弁が「ウリ」みたいなところがあったんですが、今回は会話がすべて標準語です。そしてストーリーが非常にわかりやすい(笑)

いわゆる「いじめ」をテーマにした作品です。中学2年の主人公(作中、名前が一度も出てきません)は斜視で、そのことでクラスからいじめに遭っている。そして同じクラスの「コジマ」という女生徒も、汚れた制服を着て、何日も風呂に入らないような状態なので(それには理由があるのだが)他の女生徒から「臭い、汚い」といじめに遭っているわけです。

この二人に奇妙な友情関係のようなものが芽生えて…というのが話の発端です。

なかなか面白かったです。「いじめ」という問題を川上未映子が料理するとこういう小説になるんですね。主人公の男子生徒に、いじめの主犯格である百瀬が言うセリフにこんなものがあります。

「世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。(中略)自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだよ。それぞれの価値観のなかでお互いで引きずりこみあって、それぞれがそれぞれで完結してるだけなんだよ」

「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない」


これが著者の世界観なんですね。この哲学は「わたくし率…」にもあったんですが、あっちはちょっとむつかしかった(笑)こちらでやっと腑に落ちた思いです。

あえて難癖をつけるとするなら、あのラストはいかがなものかと…。


とまれ、川上未映子、渾身の力作といっていい出来であることは間違いないと思います。




ネットで以下の本を購入


多和田葉子「ボルドーの義兄」
佐伯一麦「ア・ルース・ボーイ」
佐伯一麦「ショート・サーキット」

翻訳者の使命

2010-05-10 18:03:49 | た行の作家
多和田葉子「文字移植」読了


今、自分の中で注目の作家、多和田葉子の短編です。

「聖ゲオルク伝説」を翻訳するためにカナリヤ諸島にやって来た主人公が、翻訳の仕事をしながら奇妙な体験に巻き込まれていくというお話です。

しかし、この多和田葉子という作家はすごいですね。すごすぎてこの小説はちょっとついて行けませんでした(笑)いわゆる前衛小説の部類に属すると思うんですが、最近は、こういうのを読む体力がなくなってきました。まぁ、自分としてはせいぜい笙野頼子の「母の発達」くらいまでですね(笑)

「言葉」というものにとことんこだわっている人である、ということは、この小説からも充分に伝わってきます。まぁ、それがわかっただけでもよしとしますか(笑)


今度は、もうちょっと平易なやつを読んでみることにします。