トシの読書日記

読書備忘録

9月のまとめ

2016-09-27 17:49:05 | Weblog



今月読んだ本は以下の通り


鹿島茂「セーラー服とエッフェル塔」
中島義道「差別感情の哲学」
ウィリアム・サローヤン著 柴田元幸訳「僕の名はアラム」
小池昌代「悪事」
野呂邦暢「白桃―野呂邦暢短編選」豊田健次編
野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」
フリオ・コルサタル著 木村榮一訳「遊戯の終わり」
多和田葉子「球形時間」
吉田知子「脳天破壊(のうてんふぁいら)吉田知子選集Ⅰ」


以上の9冊でした。ちょっと残念という本も少なくなかったんですが、いい本もたくさんありました。サローヤンの「僕の名はアラム」とか「脳天破壊」とか、あと中島義道の本には毎度ながら考えさせられるところが多々あります。

野呂邦暢と吉田知子、タイプは全く違う作家ですが、いいですね、どっちも。


さて、読書の秋です。来月も読みます。(って季節に関係なく読んでますが)



9月 買った本6冊
   借りた本0冊

不穏で不安定で不条理な世界

2016-09-27 17:01:01 | や行の作家



吉田知子「脳天壊了(のうてんふぁいら)―吉田知子選集Ⅰ」読了


先日読んだ同作家の「無明長夜」に触発されてこの選集Ⅰ、Ⅱ、Ⅲをまた読んでみたくなり、まずは「選集Ⅰ」を再読したのでした。


やっぱり吉田知子はいい!とまずは申し上げておきましょう。さっき、ネットでアマゾンの本書のところを見たら、レビューがたった1件だけ出ていて、この人がまたこの本をくさすんですね。何でもわかったような顔をして、高みから見下ろしたようなレビューで、思わずPCに「馬鹿か!お前は」と声に出してしまいました。こういう、自分の少ない知識を精一杯ひけらかして、聞いた風な事を言うやつ、ほんと、嫌いです。唾棄すべき輩です。


ま、それはさておき…。


本書は7編の短編が収められた作品集です。昭和46年の初期の頃から割と最近までの作品が並んでいるんですが、やはり「お供え」が出色ですね。何回読んだか忘れましたが、何回読んでも面白い。


あと、「常寒山」もよかった。実際の話の進行と、主人公の回想とが交互に現れる構成になっているんですが、それがいつの間にか融合してしまって、なんとも不思議な小説になっています。先のアマゾンのレビュー氏はこの作品のことを「でたらめな小説技法に欠陥ありとして全面書き直し…。」云々と言っておられるが、こいつ、全然わかってない。そこがいいのに。


自分の立っている世界が知らぬ間に傾いていく感じ、世界に自分一人が取り残されてしまった感じ、何かに嫌悪する気持ちが異常に強くなるあまり、とんでもない行動にでてしまう主人公。


ほんと、うまい作家です。




ネットで以下の本を購入

サマセット・モーム著 中野好夫訳「人間の絆 上・下」新潮文庫
稲葉真弓「月兎耳(つきとじ)の家」河出書房新社
野呂邦暢「諫早菖蒲日記」梓書院


休憩時間

2016-09-27 16:49:21 | た行の作家



多和田葉子「球形時間」読了



本書は平成14年に新潮社より発刊されたものです。


安藤書店の「奥の院」にずっと前から棚にあった本で、いつも気にしていながらなんとなく買いそびれていて、先日、やっと買って読んでみたのでした。


しかし、これも先日の野呂邦暢同様、ちょっと肩すかしを食った感じでした。


まず書き出しでなんだかなぁと思ったんです。主人公の一人であるサヤが、駅のホームで化粧をしていると後ろから来たオヤジに注意されるという、絵に描いたような当たり前の風景に、これ、本当に多和田葉子が書いたのかと、思わず表紙を見直してしまいました。


他にもクラスメイトのゲイのカツオとか、担任の先生のソノダヤスオとか、人物の書き方がけっこう類型的というか、まぁ多和田葉子ですからありきたりの描写ではないんですが、いまひとつパンチがないんですねぇ。


一番最後に唐突にやってくるシュールな世界、これはさすが多和田さんと思いましたが。


ちょっと残念でした。

非現実的な空間に幽閉される

2016-09-27 15:38:49 | か行の作家



フリオ・コルサタル著 木村榮一訳「遊戯の終わり」読了



本書は平成24年に岩波文庫より発刊されたものです。


先日、姉から借りたものです。日常の空間がゆがめられる、いわゆる「不思議系」の作品なんですが、姉はこういうの、好きですねぇ。村上春樹を筆頭に、川上弘美、吉田知子、小池昌代等々。あ、自分もこういった作家、好きでした。



しかし、本書の出来映えには自分としては首をひねらざるを得ません。どこをどう味わってよいのか、面白がっていいのか、かなり戸惑いましたね。マルケスとかボルヘスを訳すくらいの木村榮一氏ですから、訳に問題があるとはもちろん思いませんが、文章がかなり支離滅裂で、読みづらいことこの上ないです。


まぁ実験的な作品を多く書き残している作家ですから、さもありなんといったところですが、自分には少々きつかったですね。


残念でした。



散文の職人

2016-09-20 14:14:34 | な行の作家


野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」読了



本書は平成18年にみすず書房より刊行されたものです。野呂邦暢が続いております。いつも行く安藤書店で見かけて、中身もろくに見ずに買ったのでした。


がしかし、これはどうなんですかね。面白いことは面白いんですが、前に読んだ「草のつるぎ/一滴の夏」や「白桃」とは、やや趣を異にしております。古本屋の若き主人、佐古啓介が主人公の連続物とでもいいましょうか、割と軽い小説です。


古本に秘められた謎、それに絡み合う人間模様、そしてそれを調べるため佐古啓介は、京都、長崎と、あちこち出かけていくわけですが、まぁさらりと読み流していいのでは、と思える作品でした。



いつも値段のことを言ってしまいますが、この内容で2600円は、ちと高いと言わざるを得ません。

急逝した作家の遺志

2016-09-13 17:39:30 | な行の作家



野呂邦暢「白桃―野呂邦暢短編選」豊田健次編 読了



先日読んだ同作家の「草のつるぎ/一滴の夏」で、本書をまた読みたくなり、再読してみました。


これもやはりいいですね。前にも書いたと思うんですが、「藁と火」、これがすごいです。長崎の原爆投下をモチーフに書かれた作品なんですが、センテンスを極端に短く切った文体が小説全体に揺るぎない緊張感を与えています。まさに渾身の力作であると言えると思います。


そして最後に収められている「花火」、これもいいですね。巻末の豊田健次氏の解説を読んで知ったのですが、本作は野呂の代表作「諫早菖蒲日記」の後日譚とのこと。以前、これをネットで調べてみたとき、けっこうな値段がついていたんですが、今、見てみたら、梓書院というところから新装版として1741円で出てるので(古本ですが)、注文してみます。


「花火」の舞台は明治維新後の諫早なんですが、登場人物の描き方が実にていねいで、読んでいてなんともいえないいい心地にさせてくれる作品です。


何度も言いますが、昭和55年、42才という若さで亡くなった野呂邦暢。本当に惜しい人を亡くしました。残念でなりません。

ささいな出来事で立つ波風

2016-09-13 17:22:26 | か行の作家



小池昌代「悪事」読了


本書は平成26年に扶桑社より発刊されたものです。平成22年から26年にかけて「en-taxi」という雑誌に掲載されていたものをまとめた短編集です。


全部で8つの作品が収録されているんですが、小池昌代というと、あの独特な世界を想像して期待して読んだんですが、軽く肩透かしを食らいました。


誰でもが思いつくようなストーリー、プロット、結末。なんだかなぁという感じです。残念至極という思いで読み進んでいたんですが最後に収められた「湖」という作品。これはちょっとした拾い物でした。


夫婦の、なんともかみ合わない会話、妻の夫に対するつっけんどんともとれる態度、いかにも小池昌代らしい短編でした。


しかし「湖」を除けば全体に小手先でちょいちょいと書いたような印象はぬぐえません。こんな本が単行本で1500円(税別)!


もったいない買い物をしてしまいました。

叫ぶ伯父さん

2016-09-13 17:07:16 | さ行の作家



ウィリアム・サローヤン著 柴田元幸訳「僕の名はアラム」読了



本書は今年4月に新潮文庫より発刊されたものです。≪村上柴田翻訳堂≫と銘打って、過去に埋もれた名作を二人の翻訳で掘り起こそうという企画のようです。


アラムという名の9才の少年が主人公の連作短編集という体裁になっています。このサローヤンという作家、全く知らなかったんですが、なかなか面白かったです。文章に微妙なアイロニーの影が落ちているところ、そして素朴なユーモア、自分好みでした。

誠実であること

2016-09-06 17:59:11 | な行の作家



中島義道「差別感情の哲学」読了



本書は平成27年に講談社学術文庫より発刊されたものです。


中島義道というとついつい買って読んでしまうんですね。今回のテーマは「差別」について。これは自分達の心に巣食う、意識するとしないとにかかわらず誰もが持っている感情だと思います。中島は、それは当然あるもの、それを前提として話を進めていきます。


うなりながら、また、随所でうなづきながら読みました。自分の、普段の何気ない気持ちの動き、人との会話、そんな中にも誰かに対して、また何かのグループに対して知らず知らずのうちに「自分とは違う」という差別感情を持っていることに気づかされました。


そうなんだよなぁと共感する部分、たくさんありました。いくつか引用します。


<差別問題は、問題のありかを求めて突き進めば突き進むほど居心地の悪いものである。そこには「仕方ない」という呟きがいつも耳元で唸りを上げている。解決に一歩近づいたと思えば、いつでも欺瞞のさらなる拡大でしかない。>


<(前略)たまたま障害者に生まれなかったことを「感謝」するのではなく、障害者に対して負い目を抱く態度が必要だということ、(後略)>(障害者という表記は原文のまま)


<あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ。いかなる咎めも受けず、いかなる批判も浴びない。これは、家族に恵まれない人、家族のいない人、いやそれよりさらに、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人、縁を切りたい人にとっては、きわめて残酷な事態ではなかろうか。>


<こうして家族愛の正当性は堅固に保護されているがゆえに、その絆を強調することが、とりもなおさず非正統的関係を排除する構造になっている。(中略)こうして家族に「いこい」を求めえた人は、不断に甘やかされ、そのことによって頭脳が単純化し、麻痺し、知らないうちに多くの非婚の人や家族関係に苦しんでいる人を傷つけることになる。しかも、このことにわずかの罪責感ももたないほど鈍感である。>


<社会的不適格者(学歴のない人、お金持ちでない人、社会的に成功していない人)は、フェアに戦えば負けることは目に見えており、といってちょっとでもアンフェアをもち出せば軽蔑され、場合によっては罰せられる。しかも、ここにはいかなる差別もないとみなされる。これほどの過酷かつ欺瞞的な状況があろうか?>


<私が(中略)ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過酷なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。しかもそういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さをも見通している。これには、さまざまな感情がまといついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない。そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情の表れなのだ…という判断が脳髄でざわざわ音を立てている。>


<はたして、私は本当に「障害者を差別してはならない」という信念を抱いているのであろうか?(中略)私は、ただ自分を守るために、そう信じ込もうとしているだけなのではないか?障害者に冷たい視線を注ぐ自分に嫌悪感を覚えるから、「障害者を差別してはならない」という信念を抱いていると思い込もうとしているだけなのではないか?

もっと言えば、お前はじつは何も悩んでいないのではないか?一瞬、悩む振りをして、自分自身に免罪符を発行して、こうした事態に直面して悩み苦しむ自分は棄てたものではないと思い込みたいだけなのではないか?そういう複雑そうでいて、すべては自己防衛に基づくゲームを一心不乱に続けているだけなのではないか?お前は、俺はダメだダメだと自分に言い聞かせながら、そういう自分は簡単に障害者を切り捨ててしまう多くの男女より高級な人間だと思っているのではないか?そう思って安心し、自分を慰めているのではないか?>


最後の引用が少し長くなりましたが、自分の胸に一番ぐさりと突き刺さったところです。


差別感情は人間である限り、決してなくすことはできないと思うのです。が、それで仕方がないとあきらめるのではなく、著者の言うように、その感情から逃げずに正面から向き合い、自分の中に巣食うごまかし、言い訳、怠惰、非情さと戦い続けることが自分に対して、また自分以外の全ての人に対して誠実に生きることなのではないかと思います。



いつもの安藤書店に寄って以下の本を購入

野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」 みすず書房
多和田葉子「球形時間」 新潮社
小池昌代「悪事」 扶桑社

逆説から構築する仮説

2016-09-06 17:40:48 | か行の作家



鹿島茂「セーラー服とエッフェル塔」読了



本書は平成16年文春文庫より出版されたものです。機関銃ではありません。エッフェル塔です。著者に関する知識はほとんどなく、フランス関係(フランス文学研究家?)の人かなぁといった程度。しかし、これがめっぽう面白く、この人、なかなかやりおる、と思った次第。


なにかを見たり聞いたりすると、それがどんな原因で、どんな過程を経てそうなったのか、ということにやたら疑問を感じ、ああでもないこうでもないと仮設を立てて考える、というのが鹿島氏の悪癖なんだそうです。


SMの亀甲縛りというものがあるんですが、何故あんな複雑な縛り方を考えたのか…。これは米俵に関係があるのではないか、とか、ゴリラとオランウータンのオスはヒトのオスよりずっと大きな体をしているのにもかかわらず、勃起したペニスの長さは3~4㎝程度であるのに対して、ヒトのそれは何故13㎝にも達するのか?


これには種の保存という生物の原始的な本能がそれをそのように進化させたというんですが、ここからが鹿島氏の面白いところで、では何故それが13㎝で止まったのか、という問いに対して、まぁ荒唐無稽な仮説を立ててそれを論証しようとしております。興味のある方は買って読んでみて下さい。ブックオフで100円で売ってます。


解説の丸谷才一の文章がまた絶品ですね。鹿島氏の考察のユニークさをほめたたえながらも、さりげなく自分の知識の豊富さを自慢しております。これが丸谷才一の面白いところですね。


なかなかの好著でありました。