夏目漱石「吾輩は猫である」読了
去年の暮れから今年の初めにかけて夏目漱石の小説を十数冊読んだんですが、一番有名な本作品をあえてはずしておりました。何故か。自分がへそ曲がりだからです(笑)
しかし、以前、小林信彦の「名人――志ん生、そして志ん朝」の中で「猫」がいかに落語的ユーモアにあふれた作品であるかという評論を読み、それでやっとこの小説を読む気になったというわけです。
いや、これ、べらぼーに面白いっすね。早く読んどきゃよかったなぁ。ちょっと小むずかしい内容ではありますが、このユーモア、好きです。ストーリーらしいストーリーはありません。猫の飼い主である「主人」の家の書斎にいろんな友人が訪れ、どうでもいいような馬鹿っ話を繰り広げるんですが、中には、その時代の社会を痛烈に皮肉ったり、憂いたりする場面もあり、そこが読ませどころであります。
以下、印象に残った箇所を引用します。
「…心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人(かじん)政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから又何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける。山が気に喰わんと云って隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。去ればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。(中略)山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。」
「死ぬ事は苦しい、然(しか)し死ぬ事が出来なければ猶(なお)苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりも甚(はなはだ)しき苦痛である。従って死を苦にする。死ぬのが厭(いや)だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。」
「私の考では世の中に何が尊(たっと)いと云って愛と美程尊いものはないと思います。吾々(われわれ)を慰藉(いしゃ)し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭(おかげ)であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗練するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘(わすれ)ることが出来ないです。(後略)」
「なに芸術だ?芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩だって踏張(ふんば)っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より外に読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌(えんおうか)をいく篇作ったって始まらないやね。(後略)」
明治という時代に入って、恐ろしいくらいのスピードでいろんなものの価値観が変わっていく中、大事にしなければいけないもの、失ってはいけない心といったものを警句のようにあちらこちらに散りばめています。
本作品読了後、以前読んだ夏目房之介「孫が読む漱石」とか吉本隆明「夏目漱石を読む」を読み返して更に理解が深まりました。
「夏目漱石を巡る旅」は、やはりここから始めなければいけなかったのかも知れません。まぁ、今となっては遅きに失したんですが。
去年の暮れから今年の初めにかけて夏目漱石の小説を十数冊読んだんですが、一番有名な本作品をあえてはずしておりました。何故か。自分がへそ曲がりだからです(笑)
しかし、以前、小林信彦の「名人――志ん生、そして志ん朝」の中で「猫」がいかに落語的ユーモアにあふれた作品であるかという評論を読み、それでやっとこの小説を読む気になったというわけです。
いや、これ、べらぼーに面白いっすね。早く読んどきゃよかったなぁ。ちょっと小むずかしい内容ではありますが、このユーモア、好きです。ストーリーらしいストーリーはありません。猫の飼い主である「主人」の家の書斎にいろんな友人が訪れ、どうでもいいような馬鹿っ話を繰り広げるんですが、中には、その時代の社会を痛烈に皮肉ったり、憂いたりする場面もあり、そこが読ませどころであります。
以下、印象に残った箇所を引用します。
「…心の落着は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人(かじん)政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから又何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける。山が気に喰わんと云って隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出来るものじゃない。去ればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。(中略)山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。」
「死ぬ事は苦しい、然(しか)し死ぬ事が出来なければ猶(なお)苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりも甚(はなはだ)しき苦痛である。従って死を苦にする。死ぬのが厭(いや)だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。」
「私の考では世の中に何が尊(たっと)いと云って愛と美程尊いものはないと思います。吾々(われわれ)を慰藉(いしゃ)し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭(おかげ)であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗練するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘(わすれ)ることが出来ないです。(後略)」
「なに芸術だ?芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩だって踏張(ふんば)っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より外に読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌(えんおうか)をいく篇作ったって始まらないやね。(後略)」
明治という時代に入って、恐ろしいくらいのスピードでいろんなものの価値観が変わっていく中、大事にしなければいけないもの、失ってはいけない心といったものを警句のようにあちらこちらに散りばめています。
本作品読了後、以前読んだ夏目房之介「孫が読む漱石」とか吉本隆明「夏目漱石を読む」を読み返して更に理解が深まりました。
「夏目漱石を巡る旅」は、やはりここから始めなければいけなかったのかも知れません。まぁ、今となっては遅きに失したんですが。