トシの読書日記

読書備忘録

私は「ある」のか?

2019-08-27 18:45:18 | な行の作家



中島義道「死の練習」読了



本書は平成31年にワニブックス新書から発刊されたものです。


ここんところなんだかバタバタしておりまして、なかなか本が読めません。やっとこさ、このページ数もそれほど多くないを読み終えたのでした。


しかし、こいつは手強かった。ワニブックスなんで、軽い気持ちでいつもの中島節が聞けるかというつもりで本書を開いたんですが、あにはからんや、この私の明晰な頭脳をもってしても歯が立ちませんでした。いわんや凡人に於いてをや!  まぁ冗談はともかく、例えばこんな一節…

<過去へと組み込まれる<いま>のとらえ方に対立する第二の<いま>のとらえ方は、まさにまったく新たなことが生じている時として<いま>をとらえることです。すなわち、<いま>を(未来ではなく)将来に組み込まれる時とみなすこと、<いま>起こっている現象E1を、言語化することによって見えなくなる、まったく新たな「湧き出し」としてとらえることです。>


もうさっぱりです。こんな本に手を出してなんかいるのでなかなか読書が進まないんですね。まぁ私ごときが相手にさせてもらえるような本ではありませんでした。


残念です。

答えの出ない問い

2018-10-02 15:20:34 | な行の作家



中島義道「エゴイスト入門」読了



本書は平成22年に新潮文庫より発刊されたものです。何年かぶりに再読してみたんですが、やっぱり中島義道は面白いです。


エゴイストとは自分の信念、美学(感受性)において、それに反するものに直面した時(他の誰もがそうしなくても)、その信念、美学をどんな抵抗に会おうともそれを貫く人のことである、と述べておられます。まったくもってその通りと思うんですが、これがなかなか…ね。


印象に残った箇所、引用します。

<われわれがある現象の原因を問うということは「見えないもの」の世界に足を踏み出すことである。その一部は科学的法則に支配された物質の関係に行き着くことによって、うまく説明できるが、そうでない膨大な現象についても、どうにかして納得したいという思いを消すことはできない。だから、みんなこぞって納得できる「見えないもの」を仮定し、それがこの現象を引き起こしたというお話を拵え上げ、安心したいのである。>

<哲学なんぞに首を突っ込むと、そしてそれを生涯探究しようとすると、普通の感覚では生きていけない。なぜなら、哲学とは根本的懐疑にまでさかのぼって根本的問いを発する営みだからである。「私」はいないかもしれず、他者もいないかもしれず、時間もないかもしれず、未来もないかもしれず、善悪の基準もないかもしれない。「あっと言う間に今年も終わりですね」と挨拶されても「それは錯覚です」と返事するほかはなく、「最近は厭な事件ばかりですね」と言われても「私は厭ではありません」と答えるかもしれない。つまり、自分に誠実であろうとするなら、普通の人間としてのコミュニケーションがとれなくなるのである。>


世間話ひとつとっても中島義道は自分の信念を貫く人なんですね。というか、世間話を拒絶してます。



こうやって時々中島義道の著作を読み返して、自分の生き方を疑ってみるのも有意義なことではないかと思っております。

目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

2018-05-29 17:18:45 | な行の作家



中村文則「何もかも憂鬱な夜に」読了


本書は平成24年に集英社文庫より発刊されたものです。


以前、中村文則は初期の頃の作風からエンタメの方向へ向かっていると「掏摸(スリ)」か何かを読んだときに思ったんですが、本作は「掏摸」以前のもので、やはり内容は底抜けに暗いです。しかし、読み進むにつれ、そのどん底の暗さが妙に心地良くなったりもするわけですね。


施設で育った刑務官「僕」が主人公の話なんですが、内容はわりと分かりやすいです。殺人の罪を犯した者が死刑に処せられるのは正しいのかどうか。自殺した友人からその直前に送り付けられてきた手記、「僕」がまだ若い頃、さまざまな音楽、文学等の芸術を教えてくれた「あの人」との思い出…。それらを通じて生と死、そして希望とは何かを問う作品ということだと思うんですが、いやーどうなんですかねー。ちょっと青臭い感じであまり好きになれませんでした。


30代くらいのまだ青春が終わってそんなに年月を経ていない人には結構はまる小説なのではないか、そんな気がしました。

葦原の中国の八百万の神

2018-02-20 17:23:02 | な行の作家



中村啓信 訳注「古事記」読了


本書は平成21年に角川ソフィア文庫より発刊されたものです。もちろん、初出は約1300年前、元明天皇の和銅5年に書かれたもので、日本最古の書籍とされています。



仕事の帰りに車の中でよくNHKの「ラジオ深夜便」をきくんですが、先日、この古事記のことを紹介していて、興味がわいて買ってみたわけです。


なかなか面白かったです。が、上、中、下と3巻建てになっているんですが、下巻が天皇の系譜が延々と続いて書かれているところが結構多くあり、そこいらへんはちょっとくたびれましたね。それと全体的に漢字が多すぎです。もちろん現代語訳で読んだんですが(それでしかもちろん読めません)、漢字の細かいルビを追っていくのにもちょっと疲れました。


まぁでも稲羽の白兎の話とか、八俣の大蛇(やまたのおろち)の話とか、倭建命(やまとたけのみこと)の話とか、エピソード満載で、そのあたりは興味深く読めました。倭建命は若い頃、熊曾征伐に行く前になんと、兄を殺しているんですね。それも手足をもぎ取って薦(こも)にくるんで投げ棄てたというんですから恐ろしいです。倭建命は正義の味方みたいなイメージがあったんですが、ちょっと違ってたみたいです。


たまにはこんなものも読んで教養を高めようと無駄な努力をしております。

生きるという醜さ

2017-08-08 16:20:44 | な行の作家



野坂昭如「とむらい師たち―野坂昭如ベストコレクション」読了



本書は今年6月に河出文庫より発刊されました。初出はもちろんもっと古く、昭和40年の前半くらいに文芸誌に掲載されたものを集めた短編集です。


あまりにも有名な「火垂るの墓」を自分はへそ曲がりの性格ゆえ、読んでないので、それと本編とを比べることはできないんですが、しかしなんというか、凄まじいですね。戦争末期から戦後のどさくさの中で生きる市井の人々の姿が赤裸々に描かれています。


中でも「死児を育てる」という作品には少なからぬショックを受けました。自分の飢餓のために幼い妹を見殺しにした経験が、後の彼女の人生を狂わせることになるわけですが、なんともやりきれない思いに囚われました。


亡くなった今でもやはり、野坂昭如、忘れてはならない作家の一人です。


それにしても本書の解説、これはどうなんでしょうねぇ。自分は本編でうなり、解説でうなりたいんですが、なんというか、筆力がまるでない。こんな程度の解説なら自分でも書けそうです。ちなみに東山彰良(作家)とのことです。

風にゆれる菖蒲の花

2017-01-10 17:53:29 | な行の作家



野呂邦暢「諫早菖蒲日記」読了



本書は平成22年に梓書院より刊行されたものです。


幕末の諫早藩の砲術指南役、藤原作平太。その家族は妻(名前失念)、娘、志津、下男、吉、下女、とら で構成されています。


佐賀藩から碌を減らされ、内情の苦しい台所を切り回す母を見つめる志津の眼差しがいいですね。そして会社でいうと中間管理職の役どころのような父親の苦しい立場を子供なりに理解する志津。作平太は長年の砲術の試し打ちで、耳を悪くしていて、要人と会って話をするときは、必ず志津を通訳代わりに連れて行くため、志津は自ずと藩の内情に詳しくなるわけです。


この小説がいいのは、作平太の娘、志津の視点で描かれていることで、これが自分の苦手な歴史小説の重苦しさを和らげてくれています。こんな歴史小説は野呂邦暢でないと書けないですね。面白かった。


そしてこれが先日読んだ「花火」へとつながっていくわけです。諫早菖蒲日記の15才の志津は、「花火」では15才の娘、むめを連れています。読書が後先になってしまいましたが、この、志津からむめへと流れる時間を考えると、なんともいえない気持ちになります。


野呂邦暢、やっぱりいいですね。堪能しました。

散文の職人

2016-09-20 14:14:34 | な行の作家


野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」読了



本書は平成18年にみすず書房より刊行されたものです。野呂邦暢が続いております。いつも行く安藤書店で見かけて、中身もろくに見ずに買ったのでした。


がしかし、これはどうなんですかね。面白いことは面白いんですが、前に読んだ「草のつるぎ/一滴の夏」や「白桃」とは、やや趣を異にしております。古本屋の若き主人、佐古啓介が主人公の連続物とでもいいましょうか、割と軽い小説です。


古本に秘められた謎、それに絡み合う人間模様、そしてそれを調べるため佐古啓介は、京都、長崎と、あちこち出かけていくわけですが、まぁさらりと読み流していいのでは、と思える作品でした。



いつも値段のことを言ってしまいますが、この内容で2600円は、ちと高いと言わざるを得ません。

急逝した作家の遺志

2016-09-13 17:39:30 | な行の作家



野呂邦暢「白桃―野呂邦暢短編選」豊田健次編 読了



先日読んだ同作家の「草のつるぎ/一滴の夏」で、本書をまた読みたくなり、再読してみました。


これもやはりいいですね。前にも書いたと思うんですが、「藁と火」、これがすごいです。長崎の原爆投下をモチーフに書かれた作品なんですが、センテンスを極端に短く切った文体が小説全体に揺るぎない緊張感を与えています。まさに渾身の力作であると言えると思います。


そして最後に収められている「花火」、これもいいですね。巻末の豊田健次氏の解説を読んで知ったのですが、本作は野呂の代表作「諫早菖蒲日記」の後日譚とのこと。以前、これをネットで調べてみたとき、けっこうな値段がついていたんですが、今、見てみたら、梓書院というところから新装版として1741円で出てるので(古本ですが)、注文してみます。


「花火」の舞台は明治維新後の諫早なんですが、登場人物の描き方が実にていねいで、読んでいてなんともいえないいい心地にさせてくれる作品です。


何度も言いますが、昭和55年、42才という若さで亡くなった野呂邦暢。本当に惜しい人を亡くしました。残念でなりません。

誠実であること

2016-09-06 17:59:11 | な行の作家



中島義道「差別感情の哲学」読了



本書は平成27年に講談社学術文庫より発刊されたものです。


中島義道というとついつい買って読んでしまうんですね。今回のテーマは「差別」について。これは自分達の心に巣食う、意識するとしないとにかかわらず誰もが持っている感情だと思います。中島は、それは当然あるもの、それを前提として話を進めていきます。


うなりながら、また、随所でうなづきながら読みました。自分の、普段の何気ない気持ちの動き、人との会話、そんな中にも誰かに対して、また何かのグループに対して知らず知らずのうちに「自分とは違う」という差別感情を持っていることに気づかされました。


そうなんだよなぁと共感する部分、たくさんありました。いくつか引用します。


<差別問題は、問題のありかを求めて突き進めば突き進むほど居心地の悪いものである。そこには「仕方ない」という呟きがいつも耳元で唸りを上げている。解決に一歩近づいたと思えば、いつでも欺瞞のさらなる拡大でしかない。>


<(前略)たまたま障害者に生まれなかったことを「感謝」するのではなく、障害者に対して負い目を抱く態度が必要だということ、(後略)>(障害者という表記は原文のまま)


<あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ。いかなる咎めも受けず、いかなる批判も浴びない。これは、家族に恵まれない人、家族のいない人、いやそれよりさらに、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人、縁を切りたい人にとっては、きわめて残酷な事態ではなかろうか。>


<こうして家族愛の正当性は堅固に保護されているがゆえに、その絆を強調することが、とりもなおさず非正統的関係を排除する構造になっている。(中略)こうして家族に「いこい」を求めえた人は、不断に甘やかされ、そのことによって頭脳が単純化し、麻痺し、知らないうちに多くの非婚の人や家族関係に苦しんでいる人を傷つけることになる。しかも、このことにわずかの罪責感ももたないほど鈍感である。>


<社会的不適格者(学歴のない人、お金持ちでない人、社会的に成功していない人)は、フェアに戦えば負けることは目に見えており、といってちょっとでもアンフェアをもち出せば軽蔑され、場合によっては罰せられる。しかも、ここにはいかなる差別もないとみなされる。これほどの過酷かつ欺瞞的な状況があろうか?>


<私が(中略)ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過酷なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。しかもそういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さをも見通している。これには、さまざまな感情がまといついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない。そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情の表れなのだ…という判断が脳髄でざわざわ音を立てている。>


<はたして、私は本当に「障害者を差別してはならない」という信念を抱いているのであろうか?(中略)私は、ただ自分を守るために、そう信じ込もうとしているだけなのではないか?障害者に冷たい視線を注ぐ自分に嫌悪感を覚えるから、「障害者を差別してはならない」という信念を抱いていると思い込もうとしているだけなのではないか?

もっと言えば、お前はじつは何も悩んでいないのではないか?一瞬、悩む振りをして、自分自身に免罪符を発行して、こうした事態に直面して悩み苦しむ自分は棄てたものではないと思い込みたいだけなのではないか?そういう複雑そうでいて、すべては自己防衛に基づくゲームを一心不乱に続けているだけなのではないか?お前は、俺はダメだダメだと自分に言い聞かせながら、そういう自分は簡単に障害者を切り捨ててしまう多くの男女より高級な人間だと思っているのではないか?そう思って安心し、自分を慰めているのではないか?>


最後の引用が少し長くなりましたが、自分の胸に一番ぐさりと突き刺さったところです。


差別感情は人間である限り、決してなくすことはできないと思うのです。が、それで仕方がないとあきらめるのではなく、著者の言うように、その感情から逃げずに正面から向き合い、自分の中に巣食うごまかし、言い訳、怠惰、非情さと戦い続けることが自分に対して、また自分以外の全ての人に対して誠実に生きることなのではないかと思います。



いつもの安藤書店に寄って以下の本を購入

野呂邦暢「愛についてのデッサン―佐古啓介の旅」 みすず書房
多和田葉子「球形時間」 新潮社
小池昌代「悪事」 扶桑社

諫早の光と風

2016-07-26 17:06:31 | な行の作家


野呂邦暢「草のつるぎ/一滴の夏」読了



本書は今年3月に講談社文芸文庫ワイド版より刊行されました。14年前に講談社文芸文庫から出版されていたものが絶版となり、今年、ワイドとして再刊されたのです。「ワイド」というのは、従来の講談社文芸文庫より活字も判型も一回り大きいとのことです。比べてみたら確かにそうでした。


とまぁそんな本の型のことよりも、この内容です。やっぱり野呂邦暢、いいですねぇ。この作家は、いつもブログを見させてもらっている文筆家の岡崎武志氏より教わりました。


第70回芥川賞受賞作となった「草のつるぎ」を始め、著者のいわゆる青春時代というものに強い思いを込めた作品が収められています。その「草のつるぎ」の中で主人公の海東が、今まで自分の考えていたことが全くの錯覚であったことを自分で気づくシーンがあります。以下引用します。


<ぼくはかつて他人になりたいと思った。ぼく自身であることをやめ、無色透明の他人になることが望みだった。なんという錯覚だろう。ぼくは初めから何者でもなかったのだ。それが今分った。何者でもなかった。水に浮いて漂っている今それを悟った。>


自分の考える理想と現実の自分とのあまりの大きな差異に強い自己嫌悪を覚え、屈託の日々を送ることに嫌気がさし、自分を変える何かがそこにあるかも知れないという思いと、逆にどうにでもなれというすてばちな気持ちとで自衛隊に入隊し、厳しい訓練を受ける中で、主人公の海東が受けた自分自身による啓示です。


自分の若い頃を振り返ってみると、この海東の思いにはものすごく共感できるものがあります。まぁ自分はここまで深く考えてはいなかったんですが。


諫早の光と風を透明感のある筆致で描き、その真逆に位置する男の屈託と焦燥。ほんと、うまい作家です。


野呂邦暢、どこかにもう一冊あったような気がして探しかけて思い出しました。多分、姉に貸したままのがあったと思います。返してもらって再読してみようと思います。