トシの読書日記

読書備忘録

男と女の凍る話

2015-10-27 17:30:08 | な行の作家


西木正明「凍(しば)れる花火」読了



未読の棚にあったのを、なんとなく手に取ってみました。


が、読まなくてもよかったですね。直木賞も受賞したことがあるくらいの作家のようですが、いかにも軽い。ここは本の裏にあるキャプションを写してこの記事は終わりとします。


<男は女の身の上に、自分の人生を重ねてみた。都会で知り合った別の過去をもつ男と女が見るひとときのロマン。大氷原、吹雪、酷寒、自然と、男が巡り合うさまざまなドラマ。限りない優しさと、荒ぶる男の冒険心に支えられた西木文学の真髄を集めた最新短編集。>

女教師の憂鬱

2015-10-27 17:12:50 | た行の作家



富岡多恵子「砂に風」読了



昭和56年に文藝春秋より発刊された長編です。大学を卒業した山上江見子は公立中学の教師になるべく採用試験を受けるが、見事に落ちる。そして、つてを頼って私立の男子高校にもぐり込むことになるのだが、もともと英語の教員のつもりだったのが、そちらの空きがないということで不本意にも日本史を教えることになる。


その女教師 山上江見子の鬱屈が綿々と続いていきます。フェミニストの富岡氏らしく、男子校という男共の集団に女一人を配置し、いやでも「女」というものを読む者に意識させます。江見子の考える女の自立、女の性、娘と母親というものがずっと書き連ねとてあるんですが、そのあたり、正直言ってちょっと退屈でした。がしかし、中盤あたりから登場する売れない画家、タケゾーとからむあたりからにわかに面白くなってきました。


小さな画廊で見かけた水彩画に「ナニカ」を感じた江見子は、その絵描きに手紙を書くわけです、するとすぐに返事が来る、そしてまた出す、また返事が来る、という具合にエスカレートしていき、ついには二人は実際に会うことになるんですが、これがまたまさしく貧乏を絵に描いたような男で、それを隠そうともしない。少なからず江見子は失望するんですが、なぜか二人の関係はだらだらと続いていきます。これが富岡の言う「女の性(せい)」なんでしょうか。


結局最後は破局するんですが、このあたりのいきさつ、大小の事件、なかなか面白かったです。富岡多恵子の45才の時に書いた作品ということを考えると、女の性、女の自立というテーマを選んだのもうなづけます。



佳作でした。

豊穣そして虚無

2015-10-20 17:08:57 | た行の作家


富岡多恵子「丘に向ってひとは並ぶ」読了


初出が昭和46年「中央公論」等で発表されたものが同年単行本となって発刊されております。



先日読んだ同作家の「白光」を書棚に戻すとき、他に富岡多恵子の本が何冊も並んでいるのを見て、「そうだ、富岡多恵子フェアをやろう」と唐突に思いつき、最初に選んだのが本書です。詩人、富岡多恵子の小説家としてのデビュー作であります。


もうずっと以前に読んで衝撃を受けたことだけは覚えているんですが、内容はさっぱり忘れておりました。今回再読して思ったのは、やっぱりこの人、すごいわと改めて感じ入った次第です。


表題作の他に「希望という標的」「イバラの燃える音」の三編の中編が収められています。どれもこれもすごいです。特に表題作の「丘に向ってひとは並ぶ」は衝撃再び、でありました。戦中から戦後の大阪あたりの話なんだろうと思うんですが、そういった背景を感じさせない寓話的な話の作り方で、また文体が何とも言えない空気を持っていて、読む者を突き放すような鋭さを持っています。


また、普通に漢字で表記するようなところをあえて平仮名にしてみたりと、このあたり、詩人の面目躍如といったところでしょうか。そして、読む者を突き放すような文体でありながらところどころに読者に語りかけるような部分もあり、例えば


<…それは時にたいへんな大声になることもあったから、ツネやんでなくても、あなたがそれをきいてもびっくりしただろう。>



<…トラやんは三年の間に奉公先を変えたのは十軒できかないらしい。その話をいちいちきいていたのでは、そのあまりな自慢話に、あなたもきっといや気がさすだろう。>


要するにこの小説は作者が我々に語ってくれているわけですね。恥ずかしながら読み終えてやっとわかりました。とにかく若かりし頃のこの富岡多恵子の鮮烈な作品に浸れる幸せを今、かみしめております。




文房具で買いたいものがあり、併設されている書店で以下の本を購入


絲山秋子「ラジ&ピース」
山田太一「遠くの声を捜して」

食物の陽光に充ちた豊穣さ

2015-10-20 16:26:38 | や行の作家


吉田健一「私の食物誌」読了



先日、毎週聞いてるFMラジオの「メロディアス・ライブラリー」で同作家の「金沢」というのを取り上げていて、吉田健一、なにかあったよなと本棚を捜して本書を見つけた次第。


たしか以前にも読んだことのある食べ物に関するエッセイなんですが、吉田健一の文章は何度読んでも面白いですね。 例えば…


<鯛も山葵も昆布も日本の茶も日本にしかないもので、それが我々にとって山海の珍味といったものであるよりも寧ろ日常生活と兎に角一体になったものであり、そうした点から日本というのが如何にも豊かな国に思われて来る。別に我々が毎日鯛を食べているのでなくてもこれがまだ一度も見たことがないというようなものではなくて、その鯛も日本の茶も豊かであるとともに地味に我々を楽しませてくれるもので日本がそうした国柄なのであることを鯛の浜焼きも教える。>

<餅が明かに餅であってそれ以外のどういうものでもないのは或るものがそのものだという感じがひどく薄れて来たこの頃ではそれだけでも有難い気がする。例えば水餅というのが他にちゃんとした意味がある言葉であるのは解っていてもこの頃の餅というのは多くはやたらに糠米に水増しがしてあってそれを搗くから水餅と言うのではないかと思いたくなる時に新潟の餅は糠米の水分だけで作ったという風で嚙み切るのが勿体なくなる。>

<それに付けても思うのはなるべく金も手間も掛らない方法で本ものでないとは必ずしも断定できない食べ物その他を無暗に沢山作って売りに出すこの頃のやり方が結局は誰にも得をさせていないことでそのお陰で野菜も、或は鶏も鶏の卵も本当にそれらしいものが益々少くなって来ている。>


このまわりくどいというか、なんというか2~3回読み直さないとなかなか理解できないというのが吉田健一の文章の魅力なんですね。


長浜の鴨、神戸のパンとバタ、広島の牡蠣、大阪のかやく飯等、吉田氏の食物に対する真剣さと言おうか、執着心と言おうか、とにかくすごいです。なんとその数、80余にものぼります。


解説が金井美恵子なんですが、相変わらずの辛口で、これも楽しめました。


吉田健一、今度は小説を読んでみようと思います。

昭和の風俗小説

2015-10-13 18:08:35 | は行の作家


半村良「忘れ傘」読了



「白光」と偶然発行年が同じ、昭和63年に集英社から発刊されたものです。



男と女の愛の機微、出会いと別れというようなものを綴った短編集なんですが、まぁ読まなくてもよかったですね。男と女といっても水商売のホステスと客であったりとか、そんなのばっかりで、話も自分にまつわる事実をからめてしまって興ざめでした。


残念でした。

理想のコミューンという幻想

2015-10-13 17:45:07 | た行の作家


富岡多恵子「白光(びゃっこう)」読了 

 

昭和63年に新潮社から発刊された中編です。ずっと以前買ったものですが、再読のつもりで読み始めたものの、内容にまったく覚えがなく、初読のように楽しめました。


これもなかなか難しい小説でした。テーマは「家族」ということなんでしょうが、富岡氏はこの「家族」というものをよくテーマにします。何かこだわりがあるのかも知れません。


島子という主人公(30代半ばあたりか)がタマキという学生時代の友人が山の中で暮らしていて、一度遊びにいらっしゃいという誘いを受けてそこを訪れる。そこには山比古とヒロシという若い男がいて、タマキが言うには山比古は赤ん坊のとき「上の村」から川に流されてきたところをタマキが拾って育てたのだと。ヒロシはその山比古の友達ということだ。


そこへ島子が加わって4人の奇妙な暮らしが始まるのだが、近くに脱サラしてペンションを始めた人が出てきて、また、そのオーナーの娘、オーナーの古い友人等も加わって話は少し複雑になっていく。


結局、タマキは何をしたかったのか、最後までわからずじまいではあったんですが、この疑似家族とでもいうべきコミューンは最後には崩壊します。読後も、何か腑に落ちない感じで、すっきりしないんですが、この富岡多恵子の持つ独特の空気感を味わえたことでよしとしますか。

9月のまとめ

2015-10-13 17:10:07 | Weblog


9月に読んだ本は以下の通り


小川洋子「人質の朗読会」
又吉直樹「火花」
車谷長吉「阿呆者」
中村文則「世界の果て」
三島由紀夫「金閣寺」
小佐田定雄「米朝らくごの舞台裏」
呉智英「賢者の誘惑」


と9月も7冊となかなか好調でありました。9月はやはり「金閣寺」につきます。また、又吉の「火花」も思わぬ収穫でした。


仕事のほうもかなり落ち着いてきて、気持ちも読書に向かっているようです。しかし、今のところ特に読みたい本とか作家もいないんですねぇ。まぁぼちぼちやっていきます。



9月 買った本0冊
   借りた本0冊

民主主義よ崩壊せよ!

2015-10-06 19:05:19 | か行の作家


呉智英「賢者の誘惑」読了



ずっと前に買ってそのままになっていたものを手に取ってみました。この評論家は、結構ラディカルなことを言う人でなかなか面白いんです。今まで何冊か読んだんですが、こいつははっきり言ってちょっとどうかなと。


本書はかなり平易な文章でわかりやすいんですが、その分毒が薄まってしまっている感じで物足りませんでした。内田春菊との対談とか、南伸坊とその仲間たちとの座談会(というかほとんど遊びに近い冗談の言い合い)とか、架空のインタビューに答える評論とか、目先を変えていろいろ企画をしているんですが、今一つですな。


ちょっと残念でした。


9月のまとめをしないといけないんですが、ちょっと出かける時間になりました。
また来週やります。

落語の「ら」

2015-10-06 18:52:25 | あ行の作家


小佐田定雄「米朝らくごの舞台裏」読了



落語を聞くのは好きなんですが、それに関連した書物は自分から好んで読むほうではないです。しかし、姉の好みはその逆で、姉はこの手の本を結構買って読んでいたりします。本書はその姉が貸してくれたものです。


著者は落語作家という肩書きで、新作落語のみならず、古典落語の改作、滅んでいた話を復活させる等、落語界に相当尽力している方のようです。今年3月に亡くなった上方落語の重鎮、桂米朝にスポットを当てた話になっているんですが、米朝は本書を執筆中に亡くなったとのこと。


著者の米朝に対する深い尊敬の念が伝わってきます。また落語の面白さ、楽しみ方、それに落語の難しさ等が著者独特の力の抜けた筆致で、楽しく読むことができました。


落語が聞きたい!と思わせる内容です。

世界は行為ではなく認識で変わる

2015-10-06 16:05:23 | Weblog



三島由紀夫「金閣寺」読了



何年も前に何かの本に触発されて、三島、読まねばと思い、本書を買ったものの、ずっと放置してあったのを、やっと手に取った次第です。恥ずかしながら三島由紀夫の作品を読んだのは、「仮面の告白」と本書のみという、読書人の風上にも置けぬ有様です。


しかしすごい小説ですね。胸にずしんときました。美文で知られる三島由紀夫なんですが、その美しい文章もさることながら、主人公とそのまわりの登場人物の思考がかなり観念的で、読みくだすのに少なからず苦労しました。自分程度のレベルではこの作品を100%理解するのは無理ってもんですが、それでも尚、すごい小説だということは理解できます。


主人公の溝口と金閣との関係が如実に現れる部分、以下に引用します。
(溝口の友人である柏木が娘を二人連れていわゆるダブルデートのようなことになり、途中で別々になって溝口と娘は芝生にすわり、溝口は娘の裾へ手をすべらせたとき…)


<そのとき金閣が現れたのである。
 威厳にみちた、憂鬱な繊細な建築。剥げた金箔をそこかしこに残した豪奢の亡骸(なきがら)のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮んでいるあの金閣が現れたのである。
 それは私と、私の志す人生との間に立ちはだかり、はじめは微細画のように小さかったものが、みるみる大きくなり、あの巧緻な模型のなかに殆(ほとん)ど世界を包む巨大な金閣の照応が見られたように、それは私をかこむ世界の隅々までも埋め、この世界の寸法をきっちりと充たすものになった。巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった。時にはあれほど私を疎外し、私の外に屹立しているように思われた金閣が、今完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許していた。>


なかなか難しい文章ですが、金閣と一体となる、というか、抱擁される瞬間が彼の脳裏をよぎるわけですね。溝口はそのうち、金閣と愛憎半ばという関係になり、ついには「金閣を焼かねばならぬ」と思い至るわけです。


そして最後、金閣に放火する場面。金閣の描写がすごい。以下引用します。


<そして美は、これらの各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた!(中略)美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。おそらく美はそのどちらでもあった。細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。そう思うことで、かつて私を悩ませた金閣の美の不可解は、半ば解けるような気がした。(中略)細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。(中略)虚無がこの美の構造だったのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのずと虚無の予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの構造は、瓔珞(ようらく)が風にふるえるように、虚無の予感にふるえていた。>


まだまだ続きますが、とにかく豊富な語彙でもって溝口(三島)は金閣の美しさをこれでもかと書き連ねます。何故金閣が焼かれなければならないのか、その肝心なところが今一つ理解できないのですが、溝口という学生は金閣と心中するのではなく、自分が生きていくために金閣を焼くわけです。それは、前に引用したところにもあるのですが、自分が人生で真っ当に生きていこうとすると、そこに金閣が現れ、自分はそんな人生を生きていく資格がないと思い知らされる、ということでしょうか。


三島の後期の作品も読まねば。