トシの読書日記

読書備忘録

僕は世界のあらゆる僕の一人だった

2019-03-26 16:31:06 | ま行の作家



村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第二部予言する鳥編」読了



第二部は

<間宮中尉をバスの停留所まで見送ったその日の夜、クミコは家に帰ってこなかった。>

という書き出しで始まります。そう、妻のクミコは失踪してしまいます。この編は妻のクミコのことを中心に語られていきます。


「僕」はクミコのこと、自分にふりかかるいろいろな不可解な出来事について思考するのに一切のものを遮断するため、家の近くの空き家の庭にある涸れた井戸に降ります。しかし、笠原メイの仕業で「僕」は三日近く井戸の中で過ごすはめになります。そこへ何故か加納クレタが登場し、「僕」を助けます。ようやく井戸から出ることができた「僕」は家に帰るんですが、そこでクミコから長い手紙が届いていることを知ります。


このあたりの展開、なかなか読ませますね。面白いです。


この第二部では、いろいろな人が「僕」の回りから離れていってしまいます。クミコ、加納マルタ、クレタ姉妹、そして笠原メイまでも。しかしこうやって見てみると「僕」のまわりは女性ばかりですね。大したもんです。


途中、新宿で歩いている人の顔をずっと見ている時に、札幌へ出張した時、ライブハウスで見たギタリストを見つけ、あとをつけていって、その男が小さなアパートに入っていったあと、「僕」もそこへ入った時、いきなりバットでなぐりかかられ、「僕」もその男の顔面を何回も殴るんですが、このエピソードは何を表しているのか、ちょっと理解できませんでした。


それから今日のブログのタイトルにもしたんですが、印象に残ったフレーズを一つ引用します。

<ここに井戸があり、その底に今こうして僕が浮かんでいるというのは、とても自然なことのように思えた。これまでそのことに気がつかなかったことの方がむしろ驚きだ。それは世界のあらゆる井戸のひとつであり、僕は世界のあらゆる僕の一人だった。>


この頃はこんなキレのあるセンテンスを書くことができたんですね。


いろいろなものを失った「僕」は果たしてどこへ行き着くのか。第三部が待たれます。


最近、昔 聞いた デビッド・ベノワというアーティストをまた聞いてまして、やっぱりいいなーと思って、またCDをアマゾンで二枚買ってしまいました。


そしてそして、念願だった以下の本も購入


伊丹十三選集 一「日本人よ!」
伊丹十三選集 二「好きと嫌い」
伊丹十三選集 三「日々是十三」岩波書店

三冊で約一万円でしたが、思い切って買ってしまいました!

加納クレタの人生

2019-03-19 18:35:10 | ま行の作家



村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」第一部「泥棒かささぎ編」読了



さて、いよいよというか、やっとというか、「ねじまき鳥」に手をつけました。全三巻のうちの第一部であります。こんな長い作品は、たしかデビュー以来初めてではないでしょうか。


相変わらず快調です。

<台所でスパゲティをゆででいるときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの「泥棒かささぎ」の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。>

どうですか、この書き出し。いきなり何かが始まる不穏な空気満載です。


僕こと「オカダ・トオル」は失業中の身で、毎日主夫のようなことをしているんですが、その周りでいろいろなことが巻き起こり始めます。妻のクミコ、近所に住む少女、笠原メイ、そしてクミコの兄、ワタヤ・ノボル、その知り合いという加納クレタと加納マルタの姉妹。それから本田伍長と間宮中尉。


これだけいろんなキャラクターが登場すれば面白くないわけがないですね。第一部は、まだまだほんの序章という感じで、表立った事件は起こりません。


第二部がめちゃ楽しめです。




先週、姉と恒例の「定例会」をやって以下の本を借りる


太宰治「斜陽」集英社文庫
谷崎潤一郎「マゾヒズム小説集」集英社文庫
リチャード・パワーズ著 柴田元幸訳「舞踏会へ向かう三人の農夫」(下)河出文庫
ナサニエル・ウェスト著 柴田元幸訳「いなごの日/クール・ミリオン」新潮文庫
スティーブ・エリクソン著 越川芳明訳「きみを夢みて」ちくま文庫

ディストピアの果てに

2019-03-12 16:59:43 | た行の作家



多和田葉子「献灯使」読了


本書は平成29年に講談社文庫より発刊されたものです。今、「震災文学」なるジャンルがあるそうで、本書はその金字塔とも言われている小説なんだそうです。


震災文学なんぞというくくりで本作品を語ってほしくないという思いはありますが、しかし、内容としては自分は今一つでしたねぇ。


近未来の日本、東京に住む無名という小学生(?)の男の子とその曾祖父の話なんですが、その時代の背景とか人々の暮らしぶりの説明が延々と続き、また、駄洒落のような、地口といったかな?まぁそんなような言葉遊びのようなのがいくつも出てきたりと、これ、多和田葉子が書くべき小説なのか?といった思いを抱きながら読んでいったんですが、最後までその思いを拭い去ることができませんでした。


この「献灯使」の次に掲載されている「韋駄天どこまでも」、この方がよっぽど面白かったですね。しかしこの作品も前半は漢字の語呂合わせなんかが頻出しており。そこにはちょっと辟易しましたが。


まぁ全体にちょっと残念でしたね。かなり期待して読んだんですがね