堀江敏幸「正弦曲線」読了
2009年9月に刊行されたエッセイ集です。なにかの文芸誌に連載されていたものなのか、書き下ろしなのか、そこのところはよくわかりません。
しかし、そんなことはどちらでもいいことで、やっぱり堀江敏幸、いいですね。自分の思考の赴くままにいろいろな事象に省察を重ね、それを堀江敏幸流の理論で展開しています。「孤島」と「無人島」の違いについて、自分がなぜ階段を登るとき、よくつまずいて転ぶか、ということについて、「製氷皿」について、「うま味調味料」について等々…。
この堀江流の物事に対するスタンスが好きです。決して声高に自分の考えを主張するわけではないんですが、しっかりと芯の通った論理を展開する。しかもわずかに遠慮がちに。いいですねぇ。
作品の中で、いくつか詩を紹介しているんですが、これがまたどれもいいんですね。一つ引用します。黒田三郎という詩人の「夕方の三十分」という詩です。
コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの
御機嫌取りまで
いっぺんにやらなきゃならん
化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
(途中、ちょっと割愛があってから)
しずかで美しい時間が
やってくる
最初のところ、台所でご飯の支度をしながら「折り紙で赤い鶴を折る」、これがなんともいいです。
妻が療養所に入ることになって、残された36才の夫と保育園に通う娘との夕食の準備の風景です。じんわりと心にしみてきます。
しかし、このエッセイ集、あえて難を言うなら、かなり瑣末な事柄を取り上げて大仰に考察するところが散見され、その部分に関しては少しどうなのかと思わないでもないんですが、全体としては堀江敏幸の柔和な説得力(こんな言葉があるかどうか知りませんが)にやられてしまいます。
でもこの作家、やっぱり小説が読みたいですね。たしか最後に出たのが「なずな」だと思うんですが、あれからはや3年、長編の発表が待たれるところです。