トシの読書日記

読書備忘録

文学の可能性

2014-05-29 17:54:17 | な行の作家
中原昌也「名もなき孤児たちの墓」読了



これで中原昌也を読んだのは3~4冊くらいなんですが、なんとも評価しづらい作家であります。前に読んだ「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」(これ、意味からして不明)よりはも少しわかりやすいんですが、でもやっぱりわけがわかりません。前衛小説というんでしょうか。高橋源一郎あたりが読んだら大喜びしそうな短編集であります。


決して否定はしませんが、とても疲れます。

鮮やかに切り取る人間ドラマ

2014-05-29 17:42:31 | か行の作家
幸田文「番茶菓子」読了



昭和25年から33年位にかけて書きためた小品をまとめたものです。エッセイあり、小説ありの作品集ですが、一つ一つがどれも非常に短く、掌編というのですかね、こういったものは。


相変わらず切れ味鋭い文章で堪能させられます。この作品集を読んで幸田文のもうひとつの魅力に気づいたんですが、人を観察する目が実に鋭い。着ているものの趣味、ちょっとしたしぐさ、言葉の端々を捉えてその人の気持ち、考え、主張せんとするところを見事に推察する技はなまなかの者にできるものではありません。


それにつけてもこの講談社文芸文庫の値段の高さよ!たった229頁の薄さで940円。なんとかなりませんかねぇ…。

4月のまとめ

2014-05-22 16:44:40 | Weblog
いやーすっかり忘れてました。4月のまとめをやってませんでした。


4月に読んだ本は以下の通り



阿川弘之「天皇さんの涙――葭の髄から」
本谷有希子「嵐のピクニック」
吉田知子「日常的隣人――吉田知子選集Ⅱ」
村上春樹「独立器官」
レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳「ファイアズ(炎)」
多和田葉子「ヒナギクのお茶の場合」


と6冊でありました。なんといってもカーヴァーですかね。あと、吉田知子と多和田葉子が僅差で続く感じです。4月は面白いのとつまんないのがくっきり分かれたのが特徴的でした。



4月 買った本 2冊
   借りた本 0冊

ノイズを受け止める技術

2014-05-22 16:04:05 | は行の作家
堀江敏幸「正弦曲線」読了



2009年9月に刊行されたエッセイ集です。なにかの文芸誌に連載されていたものなのか、書き下ろしなのか、そこのところはよくわかりません。


しかし、そんなことはどちらでもいいことで、やっぱり堀江敏幸、いいですね。自分の思考の赴くままにいろいろな事象に省察を重ね、それを堀江敏幸流の理論で展開しています。「孤島」と「無人島」の違いについて、自分がなぜ階段を登るとき、よくつまずいて転ぶか、ということについて、「製氷皿」について、「うま味調味料」について等々…。


この堀江流の物事に対するスタンスが好きです。決して声高に自分の考えを主張するわけではないんですが、しっかりと芯の通った論理を展開する。しかもわずかに遠慮がちに。いいですねぇ。

作品の中で、いくつか詩を紹介しているんですが、これがまたどれもいいんですね。一つ引用します。黒田三郎という詩人の「夕方の三十分」という詩です。




コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分


僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの
御機嫌取りまで
いっぺんにやらなきゃならん


化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる


(途中、ちょっと割愛があってから)


しずかで美しい時間が
やってくる



最初のところ、台所でご飯の支度をしながら「折り紙で赤い鶴を折る」、これがなんともいいです。

妻が療養所に入ることになって、残された36才の夫と保育園に通う娘との夕食の準備の風景です。じんわりと心にしみてきます。



しかし、このエッセイ集、あえて難を言うなら、かなり瑣末な事柄を取り上げて大仰に考察するところが散見され、その部分に関しては少しどうなのかと思わないでもないんですが、全体としては堀江敏幸の柔和な説得力(こんな言葉があるかどうか知りませんが)にやられてしまいます。


でもこの作家、やっぱり小説が読みたいですね。たしか最後に出たのが「なずな」だと思うんですが、あれからはや3年、長編の発表が待たれるところです。

運に命を賭ける

2014-05-22 15:24:32 | あ行の作家
阿佐田哲也「新麻雀放浪記」読了



というわけで読んでみました。ただ、「新」の方しか家にはなかったので、まぁ読んでみたわけです。


いや、しかしこれもすごい。多分「麻雀放浪記」の続編なんでしょうけれども、そっちを読んでなくても充分楽しめました。

かつて「坊や哲」と言われて恐れられていた「私」もすっかり中年男になって、賭け事からは遠ざかり、しかし定職を持って堅気になるわけでもなく、鬱屈した日々を送っていたわけですが、銭がないので煙草屋からハイライトを万引きしようとして捕まり、そこでもめて、それがおおごとになり、留置所に入れられることになるんですが、そこで大学生の男と知り合うんですね。ここから話が始まっていきます。


麻雀の話を中心に、競艇、手本引き、牌ホン、そしてマカオのカジノではルーレット、ブラックジャック、バカラと、ありとあらゆるギャンブルに手を染め、そこここに「私」のギャンブルに対するセオリー、矜持のようなものが展開されています。


最後に出てくるバカラのところが面白かった。勝つか負けるか、行くのか引くのか、そのあたりのメンタルなところを「私」はこう言っています。

〈…もちろん、目の流れは理屈ではない。例外もある。むしろ、例外的要素を、自分本来の条理の中にどのくらい含んでいけるかというところが急所なのである。
 だからばくち打ちは、経験を積んで反射神経を養うのである。結局、例外も含めて、数多くのケースを経験し、瞬間的に身体がそれに対応して動かないといけない。
ここがむずかしいところであるが、反射神経で現象に器用に対応していくだけでも、駄目なのである。根本的に自分の条理がなければ勝ち切ることはむずかしい。何故かというと、なにはともあれ、方法論なしには重たい張りができないからである。〉


小遣い稼ぎ程度に遊ぶんだったらこんな理論は必要ないんでしょうが、「私」はカジノを乗っ取るくらいのつもりでバカラをやってるんですから、なにしろけたが違います。


あちこちに出てくる「私」のギャンブル論、これは人生の生き方にもつながるのではないでしょうか。まぁそんなつもりで阿佐田さんはこの作品を書いたのではないと思いますが。


「新」でない方の元の「麻雀放浪記」機会があったら是非読んでみたいです。

無頼の矜持

2014-05-22 14:54:50 | あ行の作家
色川武大「怪しい来客簿」読了



というわけで読んでみました。昭和50年代に雑誌「話の特集」に連載されていた連作短編であります。自分の勝手な想像で、軽いエッセイのようなものと思っていたんですが、あにはからんや、一読、驚愕しました。


昭和10年頃から終戦を経て、その後の何年かの話が中心なんですが、実に面白い!いや、面白いというよりスリリングといった方がぴったりくるかもしれません。ほとんど事実ではないかと思うような話(それでエッセイだと思った。)なんですが、これが小説なんですね。そこのところを長部日出雄さんが次のように解説しています。

〈単に作者の記憶だけによる記述を、われわれは事実ありのままであると感じることはできない。綿密な観察と記憶に、作者の想像力が働き、そこに読者の想像力も触発される契機を与えられることによって、初めて自分も確かにそれを目にしているように感ずることができるのである。〉

まことにもっておっしゃるとうりでございます。


印象に残ったところを一つ引用します。

〈私たちの世代(いわゆる戦中派)のほとんどは、土着性乃至特殊環境からくるもの以外に個性の持ち合わせなどないのであり、だから雑兵でなく生きるために学歴その他の武装が必要になる。同じくインサイダーの後宮(「私」の友人)には、才覚や物事を弁別する感性はあったにしろ、武装を身につけていなかった。その点で兵学校行きは不運であったし、戦後の波にもまれて学校を軽視したことをひそかに悔いたであろう。〉


戦前から戦中を10代で過ごした自分とその同じ世代の人生の処し方を言っているわけですが、この時代のこの年令の人達は、戦争=兵隊という図式が頭の中の大半を占め、自分の人生は長くないという諦観のようなものがあったと思います。


そういったことを踏まえてこの短編集を読むと、なにか背中を冷たい風が通り抜けるようなぞくぞくする気分を味わうわけです。これがスリリングと思わせる所以なんだと思います。


長部日出雄も書いている娯楽小説の傑作という、阿佐田哲也の「麻雀放浪記」、たしか書棚にあったはず。これも読まねば!

希代の侠客

2014-05-16 12:56:51 | や行の作家
山口瞳「男性自身――巨人ファン善人説」読了


折にふれ、読み返したくなる山口瞳の「週刊新潮」に連載されたエッセイ、「男性自身」シリーズであります。


本書も何年ぶりかで再読してみたんですが、毎日の生活の中での出来事がかなり事細かに書かれているんですが、意外と書くのをはばかれるようなことも結構書かれていたんですね。家にやってきた若手の編集者の挙動をこき下ろしたり、(もちろん名前は伏せてありますが)他の作家や棋士のことをあげつらったりと、かなり手厳しいです。


まぁでも、言っていることは間違いなく正論なので、これに反論することは誰にもできないんでしょうね。読んでるほうはただ面白いんでいいんですが。


このエッセイ集のなかで、色川武大の「怪しい来客簿」という作品を山口瞳が絶賛しています。家の書棚を見てみたらなんと、ありました。さっそく読んでみたいと思います。

尼僧院長の夢と挫折

2014-05-16 12:33:06 | た行の作家
多和田葉子「尼僧とキューピッドの弓」読了



これもたしか姉に借りていて、読むのを忘れていた本です。本書は講談社創業100周年記念ということで、2010年に書き下ろされた作品とのことです。


この小説は多和田葉子のまた違った一面の見える作品ということが言えると思います。二部構成になっていて、一部では主人公の「わたし」が千年も前に建てられたというドイツの田舎町の修道院に滞在し、そこで暮らす中高年の尼僧たちとの交流が描かれています。

この尼僧たちの生活というのが決して禁欲的ではなく、ベンツに乗って外出する人がいたり、「わたし」と一緒にアバの映画を見に行ったりする人がいたりと、意外と俗にまみれている感じで興味深かったです。


白眉なのは第二部で、この修道院の様子を「わたし」が本にして出版したものを、その時不在だった尼僧院長がアメリカの書店で目にし、この本には大切なことが欠けているとして、自分の自伝を書くことを思い立つわけです。その自伝がそのまま第二部を構成しています。


そうして第一部で尼僧院長が、その修道院にいなかった訳が次第に解き明かされていくという仕組みになっています。これは構成(プロット)が絶妙ですね。思わずうなりました。


作品のなかに出てくる大きなテーマとして、「個人に本当に選択の自由があるのか」というものが挙げられると思います。少し引用してみますと…


〈何語を母国語にするのか、どんな町に生まれるか、どういう名前になるのか、本人は何ひとつ決められないというだけでもう、わたしの一生はわたし自身のものではなかった。〉


その後の人生においても、「わたし」の選んだことは本当に「わたし」が欲して選んだことなのか?真剣に考えれば考えるほどわからなくなる。「わたし」は常にこの問題につきまとわれて生きていくわけです。


しかし、これは難しい問題です。自分がそれを選びたいと思ったとき、周りからの目、それを選ぶことによって生じる自分個人の利益等、そういった自分の本心以外の部分が働いていることは誰にもあるはずです。もう、これは哲学の問題ですね。


とまれ、本作品は多和田葉子の新境地といってもいいのではないでしょうか。充分に楽しませてもらいました。

流行小説の妙技

2014-05-16 12:27:12 | さ行の作家
獅子文六「てんやわんや」読了



少し前に読んだ同作家の「コーヒーと恋愛」が面白く、同じちくま文庫から出ていた本書を買って読んでみました。

いや、やっぱりいいですね。特に重いテーマもなく、ただ読んで引き込まれ、あっという間に読み終えるという、この軽さがいい。

いったん読み始めたら止まらなくなるというのは、ストーリー展開の妙もさることながら、やっぱり文章がうまいんですね。読んでいて気持ちがいいです。


内容はどうということもないので、割愛しますが、たまに読むなら獅子文六、いいですね。

流浪の俳人

2014-05-07 15:24:36 | あ行の作家
尾崎放哉「尾崎放哉全句集」 村上護編 読了



少し前に読んだ種田山頭火と並んで有名な自由律俳句の人であります。


東大を卒業後、保険会社に入社し、前途を嘱望されたエリートサラリーマンであったのに、仕事も家族も捨て、放浪の果てに小豆島に流れ着き、41歳の生涯を閉じた尾崎放哉の現存する全句が掲載されています。


しかしとんでもない量の句集で、読むのに骨が折れました。種田山頭火の例にならって以下にこれは、と思う句を並べてみます。一番有名な句「咳をしても一人」は、あえてはずしてあります。


一日物云はず蝶の影さす


何も忘れた気で夏帽をかぶって


たばこが消えて居る淋しさをなげすてる


うそをついたやうな昼の月がある


考へ事して橋渡りきる


島の女のはだしにはだしでよりそふ


漬物桶に塩ふれと母は産んだか


湖の家並ぶ寒の小魚とるいとなみ


墓原雪晴れふむものとてなく


するどい風の中で別れようとする


ころりと横になる今日が終って居る


手紙着きし頃ならん宿の灯る見ゆ


妻を叱りてぞ暑き陽に出で行く


松の実ほつほつたべる灯下ぞ児無き夫婦ぞ


淋しいからだから爪がのび出す


人にだまされてばかり円い夕月ある


自分の母が死んで居たことを思ひ出した


雨の鳥がだまって居て不精者で


山ふところの風の饒舌


蜘蛛もだまって居る私もだまって居る


冷え切った握り飯のなかの梅干






とまぁあげていくときりがないんですが、これくらいで。



鬼気迫るというか、ぎりぎりのところで絞り出された句という印象の強いものが多いんですが、その一方、「?」と思うような句も多々見受けられます。例えば…




足袋が片ツ方どうしても見つからない


大根大きく輪切りにする


この辺で待ち合わす約束であつた


二階から下りて来てひるめしにする



思わず「で?」と突っ込みたくなるようなこんな句も枚挙にいとまがありません。月に平均270句もひねったというんですからこんなのもできるんでしょうねぇ。


ともあれ、尾崎放哉の静寂の境地にどっぷりとつかった数日感でした。