トシの読書日記

読書備忘録

壊れた世界

2012-09-26 16:39:15 | あ行の作家
大江健三郎「万延元年のフットボール」読了



大江健三郎フェアもいよいよ佳境に入ってまいりました。前に読んだ「空の怪物アグイー」の短編集に収められている「ブラジル風のポルトガル語」という作品が本作品につながる、という解説があったんですが、まぁシチュエーションが似ているだけで、テーマそのものに関してはそれほど密接なものは感じませんでした。それはいいとして…


いつも大江作品をすごいすごいとばかり言ってるんですが、これもすごい!この作品で大江健三郎は初期から中期にかけてのひとつの頂点を築き上げたと思います。それくらい深い、様々なテーマを孕んだ長編でありました。


主人公の根所蜜三郎とその弟、鷹四との会話で印象に残るところがありました。小説の本題からは少しはずれるかも知れないんですが、強く印象に残ったので引用します。

「本当の事」を言ってしまった人間は、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂ってしまうかのいずれかになってしまう、と鷹四が言うのを蜜三郎が受けて…

<「それではきみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるじゃないか?」「作家か?(中略)しかしフィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐ろしいことも危険なことも破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえること自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。」>


ここは面白いですね。大江健三郎の小説家観を表しているのでしょうか。それともこれもフィクションのうちなのでしょうか。そうは思ってなくてこんな会話を挿入したとすれば、他の作家達に対する痛烈な批判ともとれます。


鷹四の生き方、考え方に賛同できない蜜三郎はたびたび弟と衝突を繰り返します。そしてある事件をきっかけに、弟の生き方そのものを真っ向から否定し、それが原因の一つとなって鷹四は自殺をします。そして蜜三郎が深い思考に沈む場面。


<その時、僕の胸に熱い湯のように湧いてヒリヒリする痛みをいちめんにひきおこした敗北感があまりに具体的だったので、僕は鷹四が子供の時分から僕に対抗意識を燃やしてきたのと同じく、自分もまた鷹四のめざすイメージとして曾祖父の弟と、鷹四自身に敵意を抱いており、かれらのとは逆の穏やかな生き方に意味をもたせようと努めてきたのだと気づいた。>


鷹四の行動に常に批判を浴びせながら、しかし自分はどうなんだと問いかけてみたとき、鷹四とやっていることの違いはあるにせよ、結局のところ五十歩百歩なのだと気づいたわけです。しかし、それを鷹四に話そうとしても、彼はすでに死んでしまっている。

このやるせなさは辛いですね。時すでに遅しというやつです。しかし、これは鷹四が死んでしまったから気づいたともいえるわけですが。


まだまだいろいろなテーマが内包された小説なんですが、まぁこのへんで。



今まで読んできた大江作品からさらに進化したというか、文体もまた違うし、相当難しくなりました。いよいよ大江健三郎の深い森の中に入り込んだという実感が強まってまいりました。次もさらに大江の森に深く分け入ってみようと思います。

係累が消滅するとき

2012-09-19 15:26:06 | あ行の作家
大江健三郎「われらの時代」読了



「万延元年のフットボール」を読もうと思っていたのですが、仕事場に持って出るのを忘れ、休み時間に読む本がないなんて恐ろしいことは考えられないので、仕事の合間を抜け出して近くの書店に走り、本書を見つけたのでした。


この長編は、かなり初期のものです。「芽むしり仔撃ち」のすぐあとくらいです。著者23歳のときの作品とのこと。


これもすごい小説でした。なにがすごいかというと、まず、表現がかなり過激です。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」も色あせるのではと思わせるくらいです。例えばこんな文章。

<愛、それはわれわれにとって致命的に無縁だったのではないか?汚らしく恥辱的な性交!地獄だ。両方の口に子宮がしがみついている膣、出口なしの粘膜管、筋肉質のなかでうごめいているような性交、おれたちは昨夜までくりかえし性交をおこなって来た、おれの性器は勃起してそれを促した。しかし勃起とは何だろう、おれが頼子の性自体に、その性的なすべてに嫌悪と反撥しか感じないときも、おれの性器は隆々と勃起し、性交がおこなわれた。それは愛でないことはもとよりあきらかだが、欲望ですらもないのではないか?おれの存在とおれの性器の勃起とに本質的な相関があるのか?男もまた、それをすべての意思において拒みながらしかも強姦されうるのではないか?女だけが屈辱的な強姦の特権的な犠牲者ではありえない>


こうして主人公の大学生、南靖男は中年の娼婦、頼子のヒモとなって出口のない閉塞感と焦燥感の中で怠惰な毎日を送るわけです。自分の情人が客を取っているあいだ、靖男は時間つぶしに深夜喫茶へ行き、ヘンリー・ミラーを読み、考えます。


<ヘンリー・ミラー、このあまりに西欧的な男の胸をジンのように灼くアジアは日本をふくまない。それは蒙古、チベット、インド、支那だ。日本は心をふるわせるアジアではない。心をふるわせ胸をうつアジア人は日本の土地に生れてこない。日本の経済、日本の文化、それは心をふるわせ胸をうつ切実に緊張したエネルギーを所有していない。日本の青年は、経済や文化をつうじて胸をうつ希望を育てることができない。政治をつうじて?それはまるっきりの茶番だ>


そしてこの小説はもう一つ、靖男の弟が所属するバンド、<不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)>の三人の若者たちの話も並行して進んでいきます。靖男は弟の滋と一緒にビールを飲みながら思います。


<弟よ、果敢な行動力と快活な笑いをもちつづけるためになら、女と性交渉をもつな、戦場の兵士は英雄的に自涜する。自涜は男性的な至高の自己愛にたかめられる。精液は血に汚れた土のうえにこぼれる。女の湿っぽい性器を糊づけするためには消費されない。兵士たちは高笑いしながら死ぬ覚悟をもつわけだ。弟よ、女の湿っぽい薔薇色の毒におまえの性器をゆだねるな。

靖男は、戦争の時代に若く純潔で死んだ兵隊たちを愛していた。しかし現代は戦争における果敢で暴力的な野性の死が若者の精神と肉体を祝福しなくなった時代だ。死は飼いならされた家畜になってしまった。老人も、女子大生も、若者もおなじ死を、家畜となった死を死ぬる。>



靖男は、懸賞付きコンクールに応募した論文が1位に入選し、フランスへの留学が決まる。この出口のないどんづまりから脱出できるチャンスを得るのだが、ここでまたひと悶着あり、結局彼はフランス行きを断念せざるを得なくなる。しかし靖男は最低限の抵抗を見せます。それは娼婦の頼子と別れることです。この場面、すごい愁嘆場で胸がふさがれる思いでした。


1940年代に生まれてきた若者が、戦争にも行けず、しかし60年代の日本という時代にも満足できず、革命の幻影に酔っている集団を冷ややかに見つめ、かといって自分はどうすることもできない、いや、どうしようともしない情けない自分を嫌悪する。この行き場のない思いを赤裸々な性描写を交えて見事に描ききった、大江健三郎初期の傑作といえると思います。

作品の一番最後、靖男の独白が読む者の心をふるえさせます。


<おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている。そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために跳びこむ勇気をふるいおこすことができない。そこでおれたちは生きてゆく、愛したり憎んだり性交したり政治活動をしたり同性愛にふけったり殺したり名誉をえたりする。そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼のまえにあり決断さえすれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気をふるいおこせない。そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ。これがおれたちの時代だ>



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中上健次「枯木灘」
G・ガルシア・マルケス著 野谷文昭訳「予告された殺人の記録」

初期の習作集

2012-09-10 17:16:09 | あ行の作家
大江健三郎「空の怪物アグイー」読了



本作品は大江健三郎フェアのリストには入れてなかったんですが、書店で見つけたので読んでみました。


7編からなる短編集です。大江の発表した長編につながる作品が多く編まれています。最初の「不満足」、これは「個人的な体験」の何年か前の設定になっているし、表題作である「空の怪物アグイー」はやはり「個人的な体験」の裏バージョンとでもいいましょうか、「空の…」では、子供を見殺しにしてしまって、その亡霊が時々空から降りてきて主人公に語りかけるという話になっています。


全体に軽い仕上がりになっていて、「芽むしり仔撃ち」とか「遅れてきた青年」などとは全く違った作風になっているのに驚きました。今までの大江作品は、全体に重厚で疲れるという思いでありましたが、こんな作品もあったんだ、と意外な気持ちです。


この中の「ブラジル風のポルトガル語」という短編が、次に読む予定の「万延元年のフットボール」につながる小説ということで、ちょっと楽しみです。



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大江健三郎「われらの時代」

心の庭を散歩する

2012-09-10 16:44:27 | た行の作家
辻原登「抱擁」読了



大江続きでちょっと軽めのものをと思って手に取ったんですが、なかなかどうして、読ませる作品でありました。


いわゆる幽霊譚といわれる話なんですが、昭和の始め、日本有数の華族である前田候爵家に仕えた小間使のモノローグという形式でストーリーは展開していきます。前田家の二女、緑子の世話をする主人公が、ある時緑子の様子がおかしいのに気づく。他に誰もいないのにそこに誰かがいるようなふるまいを見せるわけです。前に小間使だったゆきのという女性がいて、その夫が2・26事件の首謀者の一人ということで処刑され、ゆきのは後を追って自殺したという過去があり、緑子の見ているのは、そのゆきのの亡霊ではないかということがわかってきます。そして話は意外な方向へ展開を見せ始めます。


いやぁ構成が緻密ですね。寸分のすきもないゴチック様式の建造物を見せられたような気分です。しかし最後の一行、緑子が主人公にささやく言葉、「さよなら、ゆきの」。これでわからなくなりました。緑子は主人公の中にゆきのを見ていたのか?どうなんでしょう。謎は深まるばかりです。


いずれにせよ、たまにはこういった完璧に仕上げられた作品を読むのもいいもんです。



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大江健三郎「空の怪物アグイー」

生命(いのち)の重さの測り方

2012-09-03 17:00:50 | あ行の作家
大江健三郎「個人的な体験」読了



これはすごい小説です。「鳥(バード)」と渾名される主人公に子供が生まれるんですが、脳に異常があり、手術をして助かったとしても極端にIQの低い子として育つ可能性があると医者に告げられ、そして主人公はその子を見殺しにしようとするという話です。


聞いた話では、この小説が発表された当初、批判の声がかなりあったそうです。それも無理のない話で、大江健三郎自身の子供が、そういった子として生まれていたわけですから、当然のことだと思います。大江が自分の子に対してそういう思いがあった上で、この作品を執筆したと思われても仕方のないことです。


そのあたり、真偽の程は定かではありませんが、でもまぁよくこんな小説を書いたものだと思います。この小説のテーマになると思われるあたり、引用します。


<火見子はカーラジオのスイッチを押した。ニューズ番組で男のアナウンサーがモスクワの核実験再開のその後の波紋について語っている。(中略)「鳥(バード)、原水協はソヴィエトの核実験に屈服したのね」と切実に興味をひかれているのではない様子で火見子はいった。「ああ、そのようだ」と鳥(バード)はいった。他人どもの共通の世界で、人間一般のためのただひとつの時間が進行し、世界じゅうの人間がおなじひとつの運命と感じる悪しき運命がかたちづくられつつある。しかし鳥(バード)はかれの個人的な運命を支配している赤んぼうの怪物の寝籠にかかりきりだ。>


井上陽水の「傘がない」という曲を思い出します。世界は原爆の実験を中止すべきだとか、推進せよとかかまびすしいのにかかわらず、自分はまったく自分の都合のことしか考えていない。しかし、というか、しかもというか、それは自分の生まれた子を殺すかどうかという問題なのだ。


そして鳥(バード)は、やはり子供に手術を受けさせてその責任を引き受けることを決心します。そのくだり、以下引用します。


<おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか?いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか?と鳥(バード)は考え、そして不意に愕然としたのだった。答は、ゼロだ。>


夕べ、偶然テレビのニュース番組で、この本のテーマに関連する特集をやっていました。妊娠中の検査で胎児がダウン症であると判明し、それを産むか産まないかの決断を迫られるという夫婦のドキュメントでした。しかし今の法律で産まない(中絶する)ことは可能なんでしょうか。そこはちょっとわかりませんが、五体満足でないと分かっていて子供を産むという親の気持ちには大変なつらさがあると思います。中絶してもたとえそれが違法であったとしても、その気持ちは痛いほどよくわかります。親の子に対する愛情というものを差し引いたとしてもそれは許されることなのではないでしょうか。


ちょっと重い小説を読んでしまいました。次は他の作家で気持ちを落ち着かせることにしましょう。

8月のまとめ

2012-09-03 16:52:36 | Weblog
8月に読んだ本は以下の通り


大江健三郎「遅れてきた青年」


と、たったの1冊でありました。8月はお盆で忙しかったのと、25日に今度はかみさんのお義母さんが亡くなって、実家が浜松なので、泊りがけで行ったりしており、またまたばたばたしておりました。9月も、17日に叔父さんの49日、23日は甥の結婚式と、冠婚葬祭の行事が目白押しであります。なかなかゆっくりさせてもらえませんねぇ…。