トシの読書日記

読書備忘録

隷属への希求

2011-09-28 13:16:41 | た行の作家
谷崎潤一郎「猫と庄造と二人のおんな」読了



谷崎文学研究もいよいよ佳境に入ってまいりました。同作家の、中期の代表作ということです。



「リリー」と名付けた猫を、ほとんど盲信的に愛する庄造。その猫にやきもちを焼く福子。それ以前に庄造の女房だった品子は、庄造とその母に追い出され、一計を案じる。福子に猫を引き取らせてほしいという手紙を書くのである。猫さえいなくなれば庄造の気持ちは自分の方に向くと思う福子は、その申し出を受けるのだが、これが品子の策略で、品子は、猫を利用して庄造の心をつなぎとめようとという思惑があった…。


いやしかしうまくできた小説です。一匹の猫を使って、人間の持っているずるさ、臆病さ、冷酷さ等の心理を、余すところなく描いています。


一人の男と二人の女が、猫によって破滅していく様が非常にリアルに書かれていて、なんだかぞっとしますね。それでいて全体にコミカルな空気も流れていて、ほんと、堪能しました。


谷崎は面白い!




ネットで以下の本を注文

谷崎潤一郎「鍵・瘋癲老人日記」
谷崎潤一郎「夢の浮橋」

言葉でなくても伝わるもの

2011-09-28 13:04:16 | か行の作家
フィリップ・クローデル著 高橋啓訳「リンさんの小さな子」読了



数ヶ月前に読んだものの再読です。FMラジオの「メロディアス・ライブラリー」でこの間、本書を取りあげていたので、小川洋子のレビューを聞いてからまた読めば、一層理解は深まると思い、読んでみました。



やっぱりいいですね、この小説。言葉のまったく通じない男二人が、それでもお互いの思いが伝わり、真の友人とお互いが思い合えることの素晴らしさ。感動します。衝撃のラストシーンは、何度読んでも涙があふれます。



ラジオで小川洋子が、「この小説の話をするのは大変難しい。何故ならまだ読んでいない人に言ってはいけないことがたくさんあるから」という意味のことを言っていましたが、まさにその通り。それくらい、この作品は高度なテクニックが駆使された、しかも深い感動をよぶ名作となっています。


こういう作品に出会えたとき、ほんとに読書好きでよかったと、しみじみ思います。


異様な至福に慄える人生の悲劇

2011-09-28 12:30:54 | た行の作家
 
「8月のまとめ」の記事になんと!コメントがありました。今頃気づきました。すみませんです。短いメッセージでしたが、ありがとうございます。元気にやっております。そちらはいかがですか?


さて…


谷崎潤一郎「春琴抄」読了



この作品は、谷崎文学前期にあたる「少年」「痴人の愛」に通じる被虐的なものがひとつの大きな流れになっているわけですが、それにしてもこの小説はすごい!


「痴人の愛」「卍」「蓼喰う虫」と男と女の情念をテーマにした小説を読んできたんですが(「卍」は女と女ですが)、この「春琴抄」は飛び抜けていますね。読後、しばし呆然としてしまいました。


大阪の豊かな薬問屋に生まれながら9才のとき失明し、以降、琴の稽古に励む春琴。そこに奉公する丁稚、佐助は、春琴をかいがいしく世話をするうち、ある感情が芽生える。これは恋愛感情に似たものではあるけれど、またそれとは少し違い、彼女に奉仕し尽くしたいという、一種マゾ的な感情なわけです。



盲人でありながら大変な美人で、気位も高いため、彼女を恨みに思う男女も少なからずいて、春琴の弟子の一人、利多郎が夜中に屋敷に忍び込み、湯を沸かしてその熱湯を春琴の顔に浴びせかけ、大やけどを負わせる。春琴は、それ以降、頭巾をかぶり、決して人に顔を見せないようにする。佐助にさえも。そして佐助は、思い悩んだあげく、とんでもない行動に出る。なんと、自分の両目を針で刺してつぶしてしまうんですね。これでお師匠様のただれた顔を二度と見ることができなくなり、佐助は、そこに幸福を感じるわけです。


人に尽くす、奉仕するということの究極のかたちがここにあります。


地震とか台風とか、そういった災害のあるたびにそこへ駆けつけるボランティアのことが取り沙汰されますが、もちろん、それとこの佐助を比べることはあまりにも次元の違う話ではありますが、ひとに尽くすことの意味を改めて考えさせられました。


今まで読んだ谷崎の小説で、一番衝撃を受けた作品でした。



思い出を観察する目

2011-09-20 12:07:34 | ま行の作家
向田邦子「父の詫び状」読了



1981年8月、飛行機事故のため、52才で急逝したシナリオライター・小説家の処女エッセイ集であります。


中日新聞の日曜日の本の紹介の欄で、爆笑問題の太田光が向田邦子の評論を出したというのがあって、それが妙に頭に残っていて、本棚をガサゴソやっていたら、本書があったので読んでみたのでした。


評論家でエッセイストの山本夏彦が、彼女を評して「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と言ったそうですが、同感ですね。うまいです。下世話なことを言うと、エッセイというのは、とかく自慢話や、自分がいかに個性的で人とは違う人間なんだということを書きたがる人が多いんですが(角田光代などはその典型)、向田邦子のエッセイは、そこらへんのところがうまくぼかしてあって、しかも読ませる。


著者の子供の頃の話を中心に、家族、級友のエピソードが綴られているんですが、しかしよく覚えているもんだなあと感心します。細部のデティールに至るまで、事細かに描いているんですが、まぁ多少の脚色はあるのかも知れません。


久々に「読ませる」エッセイを読んで、なんだかうれしいです。


またまた寄り道をしてしまいました。次は谷崎に戻ります。

南朝の秘史

2011-09-20 11:47:58 | た行の作家
谷崎潤一郎「吉野葛・盲目物語」読了



同作家の中期の代表作ということです。しかしこれはしんどかった。自分は、歴史に興味がないので、これはちょっと苦行でした。


「吉野葛」は、奈良の吉野を舞台に、遠く南朝の歴史に思いをはせるという、随筆的小説になっています。苦行とは言いましたが、読んでいくうちに、少しづつ興味も湧いてきて、自分も吉野の里へ旅をしてみたい気持ちにさせられました。



そして「盲目物語」。織田信長の妹であるお市の方の美しくも悲しい半生を、城に召しかかえられた按摩師が語るという構成になっています。


読み始めて、これはやばいぞと。戦国時代のことを書いた小説は、今まで一度も読んだことがなく、読む気もしなかったんですが、これも谷崎文学研究の一環と、頑張って読みました。


しかし、これもあれですね。読み進むうちに段々本腰が入ってきて、相関図まで作って理解しようと努力して、我ながら笑ってしまいました。


この作品を読む限りでは、織田信長という男は、なんと卑劣なやつなんでしょうか。実の妹であるお市の方を戦略のため結婚させ、利用し尽くしているように見えます。そして、相手方と仲良くしたように見せかけて突然討つ。浅井長政しかり、武田勝家しかりです。


そして、自害した浅井長政、武田勝家のことを、武士の中の武士というように作者は書いています。まぁいろんな見方があるんでしょうが。でも、世間の方々がNHKの大河ドラマを夢中になって見る気持ちが、少しだけわかりました(笑)



とまれ、両作品は、谷崎を読まなければ、まず出会うことのなかったもので、そういう意味では、いい体験をさせてもらいました。

文学って何?

2011-09-20 11:29:30 | た行の作家
高橋源一郎・山田詠美「顰蹙(ひんしゅく)文学カフェ」読了



文学は顰蹙を買ってナンボ!顰蹙を買うのも才能のうち!というのを旗印に、高橋、山田の両氏が顰蹙を買いまくっている作家をゲストに招き、対談したものであります。


この奇をてらったタイトルといい、高橋、山田の、文学に対するスタンスといい、自分のあまり好むところではないんですが、対談のゲストの顔ぶれを見て読む気になりました。


車谷長吉が面白かった。私小説家として重鎮といっても差し支えない作家の、意外な素顔を垣間見ることができました。世捨てをしたいと思いつつ、なかなか俗世を離れることができずに小説書きという罪深いことをやっていると、何かの小説に書いてありましたが、この対談を読むと、意外に俗なんですね、この人。

あと、「嫁はん」「嫁はん」という言葉が何度も出てくる。40を過ぎて結婚した1才年上の高橋順子という詩人なんですが、もうベタぼれという感じで、苦笑せざるを得ません。



それから、中原昌也という、かなりアヴァンギャルドな小説を書く人がいるんですが、「書くことが恥ずかしい」と何度も言うんですが、読んでいるうちにそれがひとつのポーズだとわかってくるあたり、笑わせてもらいました。


ホスト側の山田詠美の小説を、以前2冊くらい読んで、あまり面白くなかった覚えがあるんですが、この人が笙野頼子をけなしているのを読んで、逆にうれしかったりもしました。お前なんかに笙野頼子の面白さがわかってたまるか!って感じです。



谷崎潤一郎強化月間のはずが、思わぬ寄り道をしてしまいました。本筋に戻ります。

眺める目の静的な動き

2011-09-09 17:27:55 | た行の作家
谷崎潤一郎「蓼喰う虫」読了



「蓼喰う虫も好き好き」ということわざを辞書で引いてみると、「辛い葉である蓼を食う虫もいるという、人にはそれぞれいろいろな好みがあて、一概にはこうと決められないこと」とあります。それを考えると、この小説の内容にこのタイトルはどうなんだろうという気がしないでもないんですが。   ま、それはともかく。


「性格の不一致」を理由に別れることをお互いに合意した夫婦の物語であります。しかしイライラしますね。別れるならさっさと別れればいいのに、200頁の長編(中編?)で、結局、別れるところまでいかずに終わっているんです。しかも妻にはすでに恋人までいるのに!


しかし、これが谷崎文学の真骨頂ともいうべきところで、お互い別れるつもりはあってもなかなか具体的な行動に移せないで、ずるずると毎日が過ぎていく…。このなんとも中途半端な心情を、主に夫である要(かなめ)の心理を描写しつつ物語は進行していきます。


妻の父親の妾を「人形のような女」と形容し、その女性に自分の理想像を重ね合わせてみたり、売春宿へ行っては、なじみの外国人女とねんごろになり、帰る段になって「もう二度とは来ない」と決心しつつ、3~4日もすると、またその気持ちを翻すような心持ちになってみたり…。


内容もなかなかに面白いんですが、やっぱり言葉の選び方というか、情景の描写、心情の描写が格段にうまいですね。文章の巧みさにおいては、この谷崎と、川端康成。この二人が双璧であると自分は思います。例えばこんな文章。これは、本作品の一番最後のシーンなんですが…。


<涼しい風が吹き込むのと一緒にその時夕立がやって来た。早くも草葉の上をたたく大粒の雨の音が聞える。要は首を上げて奥深い庭の木の間を視つめた。いつしか逃げ込んで来た青蛙が一匹、頻りにゆらぐ蚊帳の中途に飛びついたまま光った腹を行燈の灯に照らされている。
「いよいよ降って来ましたなあ」
襖が明いて、五六冊の和本を抱えた人の人形ならぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方(あなた)に据わった>



夫婦別れの話をするため、妻の父親のところへ出向いた二人。父親は、娘を説きふせるため、二人で料亭へ出かけてしまう。残された夫は、義父の家で風呂によばれ、酒を飲み、茶漬けを食べて用意してあった夜具に早々ともぐり込む。退屈しのぎにと、妾の「お久」が本を数冊持って寝室に入ってくる、という場面です。


あえて「お久の」とせずに「人の」とするところが小憎らしいですねぇ。なにか、これから事が起こりそうな予感さえします。しかしうまい。うっとりする文章です。



この作品は、これ以前の「刺青」「秘密」「痴人の愛」、それからこれ以降の「吉野葛」「細雪」等の、どの流れにも属さない特異な作品である、というのが定説になっているようですが、自分はそれほど強くそれは感じませんでした。むしろ、谷崎文学の大きな特徴である文章の美しさ、ストーリー展開のゆるやかさ等は、それ以前もそれ以降も変わるものではないという気がします。



それにしても谷崎潤一郎、いいですねぇ。次も谷崎、いってみます。