開高健「人とこの世界」読了
マイブームの開高氏であります。この本は、いわゆる対談集なんですが、ただ会話を並べるのではなく、対談と対談の間に、開高健が見たその人となりを描写しているんです。それのまた鋭いこと!
対談の相手は広津和郎(小説家、評論家)、きだみのる(小説家、翻訳家)、大岡昇平(小説家)、武田泰淳((小説家)、金子光晴(詩人)、今西錦司(人類学者)、深沢七郎(小説家)、島尾敏雄(小説家)、古沢岩美(画家)、井伏鱒二(小説家)、石川淳(小説家)、田村隆一(詩人)の12氏。
ほとんどが小説家なんですが、詩人、人類学者もいます。どの人達も、一癖も二癖もありそうな輩で、この連載当時は開高は30代だと思うんですが、これらの癖論家を相手に、丁々発止、堂々と渡り合っているんです。またその相手を見る目が鋭く、かつ優しいんですね。
例えば、田村隆一氏のところで…
「…詩人はビールをすすりつつ、語りつづけてやまない。自身に自身で鞭をくれつつ回転しつづける。この人の詩はさむらいのストイシズムにつらぬかれ、リズムに托すところ多く、エアー・ハンマーの打撃を速射しつづけ、全身を溺らせる生活の苦渋のかぎりをこれっぽちも洩らそうとせず、言葉をいまや白木の板のように削りたてることに没入しているかのごとくであるが、精神はその禁圧のカウンター・バランスを求めずにはいられない。躁鬱がそれに拍車をかける。(中略)日本文学にユーモアのないこと、ふくらみと展開と本能の聡明さがそのために失われていること、近頃“あの世”が感じられてならないこと、われわれはけだし“あの世”から来たのだからこれを“行く”というのは不当であって“帰る”というべきであろうこと、(後略)」
田村隆一がここまで語るというのは、開高健の手腕に他ならないと思うんですが、それにしてもすごいもんですねぇ。
この本を読んで、深沢七郎の小説を読んでみたくなりました。また、古沢岩美の絵も見てみたくなりました。いやぁ興味は尽きないですねぇ(笑)
所用で出たついでに以下の本を購入
開高健「ロマネ・コンティ1935年」
中島義道「後悔と自責の哲学」
中島義道を久しぶりに買ってしまいました。じっくり読もうと思います。
マイブームの開高氏であります。この本は、いわゆる対談集なんですが、ただ会話を並べるのではなく、対談と対談の間に、開高健が見たその人となりを描写しているんです。それのまた鋭いこと!
対談の相手は広津和郎(小説家、評論家)、きだみのる(小説家、翻訳家)、大岡昇平(小説家)、武田泰淳((小説家)、金子光晴(詩人)、今西錦司(人類学者)、深沢七郎(小説家)、島尾敏雄(小説家)、古沢岩美(画家)、井伏鱒二(小説家)、石川淳(小説家)、田村隆一(詩人)の12氏。
ほとんどが小説家なんですが、詩人、人類学者もいます。どの人達も、一癖も二癖もありそうな輩で、この連載当時は開高は30代だと思うんですが、これらの癖論家を相手に、丁々発止、堂々と渡り合っているんです。またその相手を見る目が鋭く、かつ優しいんですね。
例えば、田村隆一氏のところで…
「…詩人はビールをすすりつつ、語りつづけてやまない。自身に自身で鞭をくれつつ回転しつづける。この人の詩はさむらいのストイシズムにつらぬかれ、リズムに托すところ多く、エアー・ハンマーの打撃を速射しつづけ、全身を溺らせる生活の苦渋のかぎりをこれっぽちも洩らそうとせず、言葉をいまや白木の板のように削りたてることに没入しているかのごとくであるが、精神はその禁圧のカウンター・バランスを求めずにはいられない。躁鬱がそれに拍車をかける。(中略)日本文学にユーモアのないこと、ふくらみと展開と本能の聡明さがそのために失われていること、近頃“あの世”が感じられてならないこと、われわれはけだし“あの世”から来たのだからこれを“行く”というのは不当であって“帰る”というべきであろうこと、(後略)」
田村隆一がここまで語るというのは、開高健の手腕に他ならないと思うんですが、それにしてもすごいもんですねぇ。
この本を読んで、深沢七郎の小説を読んでみたくなりました。また、古沢岩美の絵も見てみたくなりました。いやぁ興味は尽きないですねぇ(笑)
所用で出たついでに以下の本を購入
開高健「ロマネ・コンティ1935年」
中島義道「後悔と自責の哲学」
中島義道を久しぶりに買ってしまいました。じっくり読もうと思います。