トシの読書日記

読書備忘録

3月のまとめ

2010-03-31 17:49:09 | Weblog
今月読んだ本は以下の通り



吉田知子「極楽船の人びと」
夏目漱石「明暗」
山本昌代「善知鳥(うとう)」
夏目房乃介「孫が読む漱石」
丸谷才一「食通知ったかぶり」
黒井千次「たまらん坂」
瀬古浩爾「思想なんかいらない生活」
ポール・オースター著 柴田元幸訳「ミスター・ヴァーティゴ」
斎藤美奈子「趣味は読書。」
堀江敏幸「郊外へ」
エルヴェ・ギベール著 堀江敏幸訳「赤い帽子の男」
三崎亜記「失われた町」



以上12冊でありました。いつものペースです。
今月もなかなか充実した読書ができました。ただ1冊を除いては(笑)


夏目漱石の遺作となった「明暗」、山本昌代「善知鳥(うとう)」、黒井千次「たまらん坂」、堀江敏幸「郊外へ」このあたりが印象に残りました。あと、忘れてならないのは瀬古浩爾「思想なんかいらない生活」。これは強烈でしたねぇ。来月も楽しみな本がたくさん待っています。



今、名古屋では「ブック・マーク・ナゴヤ」というイベントをやっていて、約一ヶ月間、名古屋市内のいろんな書店等で本に関するイベントが催されています。その一環として先日、名古屋市西区の円頓寺商店街で「一箱古本市」なるものが開催されていて、早速出かけて以下の本を購入しました。


小林信彦「ムーン・リヴァーの向こう側」
アニタ・シュリーブ著 高見浩訳「パイロットの妻」
エリザベス・マクラッケン著 鴻巣友季子訳「ジャイアンツ・ハウス」
橋本治「女性たちよ!」
橋本治「武器よさらば」
金井美恵子「軽いめまい」
井上光晴「書かれざる一章」
いしいしんじ「白の鳥と黒の鳥」
内田百「第二阿房列車」

これだけ買っても2000円しないんですからうれしいですねぇ。

失われないもの

2010-03-31 17:27:46 | ま行の作家
三崎亜記「失われた町」読了



堀江敏幸、エルヴェ・ギベールで凝った頭をほぐすため、ちょっと柔らかいヤツに手を出してみました。


30年に一度起こるといわれる町の「消滅」。といっても町そのものが全て消えるわけではなく、そこに住まう人間が消えてしまうという設定です。なかなか面白いじゃないですか。


60年前の「倉辻」、30年前の「月ヶ瀬」ときて、国の「管理局」が研究に研究を重ねてついに今回消滅する町を特定するに至るわけです。で、その消滅を食い止めることができるかというと、物語はそこで終わってしまうんですね。


この小説は、そこに至るまでの町の消滅に関わる人達の愛のドラマとでもいったらいいでしょうか。なかなか面白かったんですが、いかんせん、登場人物があまりに多く、それぞれの人物のエピソードが章ごとに語られ、そしてその人物達がいろんなところでリンクしているため、その人間関係を把握するのが大変でした。


「となり町戦争」(長編)、「バスジャック」(短編集)、「鼓笛隊の襲来」(短編集)と読んできて、この作家は早晩ネタに詰まるだろうと思って危ぶんでいたんですが、こういう方向があったんですね。シチュエーションとしてはかなりSF的ですが、単なるSFに走らない、人間の細かい感情の機微も活写されていてなかなかうまく出来た小説という感じでした。


三崎亜記、どっこい生きている(笑)そんな思いであります。

幻のイマージュ

2010-03-31 17:17:56 | か行の作家
エルヴェ・ギベール著 堀江敏幸訳「赤い帽子の男」読了



前回、堀江敏幸のエッセイ(散文?)に触発されて、今度は堀江訳の小説を読んでみました。この小説は以前、堀江敏幸のエッセイ「子午線を求めて」に紹介されていたもので、その時すぐ買ってはみたものの、今まで積読状態でありました。


しかしこの小説…どう味わえばよいのか、ずっととまどいながら読み終えてしまったんですが、今まで読んだどの小説ともタイプの違う、まぁいかにもフランス的という感じですかねぇ。


小説に登場する人物、主人公はもちろん、その友人、また著名な小説家、画家たちが(多分)すべて実名で書かれていて、もちろん私小説ではあるんですが、例えば日本の車谷長吉のような小説とはまた一味違う、一種独特の雰囲気を醸し出しています。


エイズに感染し、36才の若さで他界したエルヴェ・ギベールの諦観とでもいうべき世界観が小説全体を静かに支配しています。

旅をする眼差し

2010-03-31 16:54:53 | は行の作家
堀江敏幸「郊外へ」読了


堀江敏幸ファンを標榜する自分にとってこのデビュー作を読んでいなかったとは、片手落ちも甚だしいと反省しつつ読了致しました。


フランスはパリの中心部ではなく、いわゆる「壁の外」と呼ばれる郊外に焦点を当て、それにまつわる文学作品、絵画等を重ね合わせてフランス・パリの郊外の文化、そしてその位置を探る散文集です。

相変わらず(といってもこれがデビュー作ですが)文章が華麗ですねぇ。美しい文章を読むことは、本当に至福のひとときです。


以下、印象に残ったところを引用します。




「柵のはるか上まで首をのばして聳えたつキリンたちの、ただそれだけのために行われている時間をかけた丁寧な咀嚼の様子を、私はぼんやりながめていた。下顎をロータリーエンジンのように音もなく滑らかに回転させて草の葉をすりつぶし、胃の腑に入れようとしている彼らは、十分な咀嚼を経たのちにもなお長い時間をかけてそれを嚥下しなければならない。これほど深く物事を噛み砕いたことが、じぶんにあっただろうか。知識はたしかに増えている。だが溜め込んだそれらの知識の活用は、多くのばあい原作の希釈に終わる映画化ほどにも成功せず、うわっつらをかすめるだけの、小手先の転換作業に終始している。眼前のキリンの方こそ、咀嚼の持続と真剣さにおいて圧倒的に輝いているのだ。」


「異国の郊外で私がどれだけ幸福な散策を繰り返したにせよ、畢竟それは他者の視線をたくみに回避しつつ、こちらの視線だけを地名や書物にぶつけて、その『言表』のクッションボールを架空の物語に仕立て上げていたにすぎないのではないのだろうか。」



パリの郊外を散策しつつ、その地名、景色などから連想される書物、絵画等に思いを馳せ、思索にふける「わたし」のこのなんと謙虚な姿勢。

堀江敏幸の面目躍如といったところです。

怒りと徒労

2010-03-30 18:46:57 | さ行の作家
斎藤美奈子「趣味は読書。」読了



この作家は以前、何冊か読んで、そのハスに構えた感じがどうにも鼻についてもう読むのはよそうって思ってたんですが、瀬古浩爾の本の中に出てて、あ、そういえばまだ読んでないのが1冊あったと思い出して「ま、読んでみっか」くらいの気持ちで手に取ってみたのでした。


やっぱり読まなきゃよかった(笑)久々に本を読んでてその本を壁に叩きつけたくなりましたね。なんだかなぁこの人。どうやって考えるとそんなにひねくれたものの見方ができるんだろう。怒りとか呆れるとか通り越して感心すらしてしまいます。


読書が好きな人はいわゆるベストセラー本は読まない。なら私が代わって読んで解説してあげましょう、というのがこの本の趣旨です。

この本の根本的に間違っているところは、ベストセラーになる本というのは、その内容が万人に受けるとか、その時代にマッチしてるとか、そんなことは一切関係ないんですね。だって買う人は、まだその中身を読んでないんですから。だから売れる本というのは、いかに一般大衆に買う気にさせるか、その本の帯のコピーだったり、テレビ、新聞、雑誌等の広告戦略だったりするわけです。


それをこの斎藤さんは、この本のこの部分が時代の空気を読んでるだの、あそこのところが小金を持ってる主婦層に訴求してるだの、したり顔で解説してるんですが、そんなのまったく意味ないんですね。


あと、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」の読み方のひどさ!どうやったらこんな意地の悪い読み方ができるんでしょうねぇ。最初からけなすつもり満々なんですね。


まぁいいです。こんなつまんない人にああだこうだ言っても疲れるだけですから。この本は読まなかったことにして次、いきます。虚しい…

世にも数奇な物語

2010-03-30 18:30:34 | あ行の作家
ポール・オースター著 柴田元幸訳「ミスター・ヴァーティゴ」読了



これも姉が貸してくれた本です。姉はすっかり柴田元幸シンパになっております。


このポール・オースターの小説は、ほとんど柴田元幸が訳しているんですが、先日読んだスティーブン・ミルハウザーも大体が柴田氏の訳です。


この二人の作家を比べてみると、ずいぶん違った個性なんですが、ミルハウザーが独自の世界を創り出す達人とすれば、ポール・オースターはストーリー・テラーとでもいいましょうか、物語を作るのがめっぽううまいんですね。まさに名手の技といったところです。


物語は9才の少年、ウォルトがセントルイスで小銭を稼ぐ悪ガキだったのを、イェフーディ師匠が拾うところから始まります。


「私と一緒に来たら、空を飛べるようにしてやるぞ。」その言葉に半信半疑のままついていったウォルト少年は、その3年後、本当に体を宙に浮かせることができるようになるんです。

そんなウォルトの一生を描いた物語なんですが、まぁ波乱万丈とは正にこのこと。まぁまぁの長編なんですが、一気に読んでしまいました。

以前読んだ同作家の「幻影の書」とはまた違った趣で、非常に面白く読むことができました。

しかし、面白いのはいいんですが、なにかこう…心に残るものがないんですね。読み終えて本を閉じて「あーおもしろかった」で終わってしまうような。もちろんそういった本があって悪いわけがないんですが、まぁ読むならたまにって程度にしておくのが良いのではと思う今日このごろでございます。

「ふつう」の人生

2010-03-30 17:07:10 | さ行の作家
瀬古浩爾「思想なんかいらない生活」読了



以前、同著者の「まれに見るバカ」を読んで、このおっさん、おもろいやんと気になっていた人で、「ブ」で同書を見つけたので早速買って読んでみた次第。

思想、哲学が、人が生きていく上で何の役に立つのかを問う一冊であります。答は簡単明瞭。何の役にも立ちません。これは中島義道も明言していることです。


ただ著者は、いわゆる思想家、哲学者のような存在はなくてもいいと言っているのではなく、ひとつの職業としてふつうにやっておればいいのではないかと言っているんですね。上から目線で「君ら一般大衆にはこんな高等な理論はわかるまい」といったような、自分達だけが選ばれたエリートみたいなツラをするのはやめろ!と言っているんです。


この本は非常に興味深かった。自分が何故中島義道をあれだけ読むのか、その自分の心理に気づかされるものがありました。

以下、覚え書きとして本書からの引用です。山ほどあります。



佐藤俊樹という人が、戦争責任について「ふつうの人」はどう考えているのかという問いに答えて…
「直截にいおう。『ふつうの人』はこう考えているのではなかろうか。――『戦争責任はある。だけど、自分の生活を脅かすような高いお金は払えない』と。正しくない戦争をした。その責任はあると考えているが、同時に、そのことで現在の生活が脅かされるのは嫌だとも考えている。」という発言に対して…
「だいたい『ふつうの人』にとって、戦争責任なんかどうでもいいのである。まともに考えたことなどあるはずがない。考えても限度がある。」とやり返している。


「人間には『わからない』ものを知りたがるという欲求がある。そして、わからなかったことが『わかる』、知らなかったことを『知る』という喜びは、すべての『知』の根底にあるものである。」

これです。自分が哲学に興味をもつのは。人はなぜ生まれて死んでいくのか。時間はなぜ過去から未来へ流れていくのか。自分とはそもそもなにか。こういった疑問は、わからなくても今日の晩飯のおかずには何の関係もない。わからなくても生きていけるんです。しかし、その答のほんの一端でも糸口が見えてくると、なんだかうれしいというか、目の前に明るい光が射し込んでくるような感覚になるわけです。最近巷でよくいわれる「知的好奇心」というやつなんでしょうか。


「哲学とはわたしたちが自明としていることの根拠まで疑い、考えなければならないのである。いわれていることは『わかる』。『わかる』がしかし、『わかった』としてなにがどうなるのか。竹田(哲学者)は『われわれにとってもありありとした現実感をもった「現実」も、ひょっとして夢でありうるという可能性は絶対的には排除することはできない』と書く。排除しなくていいが、しかし排除しないとなにがどうなるのか。現実性という橋を一つひとつ叩きまわって渡る。これが哲学でいう方法的懐疑論である。わたしにはただひたすらにバカバカしい。」


「文芸評論というジャンルじたいを否定するつもりはないが、その『こねくりまわし』にほんとうにはどんな意味があるのか、わたしにはわからない。ただ文芸批評という<知のシステム>が成立しているから、またそれを職業とする文芸評論家だから、漫然とそれに乗っかっているだけではないのか。」


「人間も人生も仕事も恋愛も、それなりに難解なものである。平易にして難解である(同時に、難解にして平易でもある)。しかし、それらはけっして哲学的な難解さなのではない。個人の自我と欲望が絡みあっているからむつかしいのだ。哲学的難解さとは、いったいなんのための、また、なんの必要があっての難解さか。それは人間的事業のなにに対応するための難解さなのか。それで、その難解さが刻苦勉励の後に克服されたとき、いったいなにがどうなるというのか。」


「世間は私に対して何ら尽す義務はない、という確信からかすかな喜びを得ている。私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日2回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが私にとっては生活のすべてである。(エリック・ホッファー自伝より)」


「わたしの『ふつう』とはなにか。ひとりの人間における自由としての『ふつう』である。強要しないし強要されない『ふつう』である。(中略)世間のふつうは、自分たちとおなじでない者を、自分たちのふつうにひきこもうとする。同調しない者は『ヘンなやつ』として排除する。わたしはそのふつうが反吐がでるほどいやなのである。そこで、自分だけの『ふつう』を作ったのである。どいつもこいつも『ふつう』をバカにしやがってと。それなら、自分で『ひとりだけのふつう』を作っちゃうもんねと。」


「その『ひとりのふつう』の条件とはこういうものだ。
①群れない
②他人の欲望を自分の欲望にしない
③『知』を優位に置かない
④できるかぎり自分で自分を承認する
⑤無意味を意味として生きる」              


「なにが『思想』か。なにが『存在的』でなにが『存在論的』か。『思想』や『哲学』は、学者先生や評論家にとっての『仕事』にすぎないのではないか。そうならばすっきりする。コンビニの弁当開発やラーメンのスープ作りとおなじ仕事ではないか。『思想』従事者は不満だろうが新製品開発や売り込みで必死の会社員とおなじ仕事ではないか。一般大衆の仕事を舐めてはいけない。自分の仕事が高級だ、などと思ったら一巻の終わりだ。もしこんなことを言われて『不満』なら、もうあなたはおかしくなっている。」


「現実を生きていくためには、ほんとうは希望も絶望も関係がない。センチメントも関係ない。ただがむしゃらに『事実』を生きるだけだ。けれども、無意味な『意味』という欲望を生きる人間にとって、金と健康と同伴者がいるかどうかで(生きがいを加えてもいい)、実際には希望か絶望かがきまる。そんなときに『思想』なんていう贅沢なものは無用であり、無益である。現実の『生活』はもっと露骨で簡明なのだ。」


「世界はかくあるべくしてある。人間が意図することも意図しないことも、かく生じ、かくあるべくしてある。生じるものは生じ、生じないものは生じない。異常はふつうである。ふつうも異常となる。世界なんかこれっぽっちも生きるに値しない。世界に対するあらゆる思考はとりあえずムダではないが、究極的にはムダである。一人ひとりの人間をとりこぼしてまったく平気だからである。」




引用だらけですが、まぁそれだけ本書は自分の心に刺さったってことですね。


この瀬古という人、文筆を職業としている人かと思いきや、洋書輸入会社に勤めるサラリーマンなんですね。それだけに彼の言う言葉は、ずっしりと重みがあります。


逆に彼に対して口汚く罵る人が多いことも知っています。まぁこれだけ哲学者、文芸評論家を名指しで斬りまくれば相当敵も多いことでしょう。どちらの言説が正しいのか正しくないのか、自分は浅学なため、賢明な判断はできかねますが、本書を読んでこれから先、生きていく上で大きな指針になったことは間違いありません。

甘やかな青春の残像

2010-03-15 18:27:32 | か行の作家
黒井千次「たまらん坂」読了


以前、「日の砦」でこの作家はすごいと思い、気になっていたのですが、同書をたまたま書店で見かけ、読んでみた次第。

七編の短編が収められている短編集です。中央線沿線、いわゆる武蔵野といわれている地域の坂、用水路、通りの名前を小説の題材に仕立て上げ、主人公は人は違えど、全て50代半ばから後半くらいの男という設定です。


やっぱりうまいですね。多分、小島信夫とか、そのあたりの作家と同世代だと思うんですが、黒井千次はひとつ抜きん出ている感じがします。

ストーリーは、概ね50代の定年間近の男が30年も前の淡い思い出をたよりに「お鷹の道」とか「滄浪泉園」へ行き、感慨にふけると思いきや、こんなはずではなかったと思うような事が起こり…というような作りになっています。


自分は、東京の人間ではないのですが、中央線沿線、特に国立、国分寺、武蔵小金井あたりに住んでいる人が本書を読んだなら、また格別の面白さがあるんでしょうね。

文明批評の香料(スパイス)

2010-03-15 18:09:51 | ま行の作家
丸谷才一「食通知ったかぶり」読了


パソコンにアマゾンからよくメールが来るんですが、先日、同書を薦めるメールが来ておりまして、確かこれは読んだはずと書棚から探し出して再読した次第。


まぁこれは感想なんてものは書くには及ばないほどの軽い読み物でありました。丸谷才一が、文芸春秋の企画で西に行ったり東へ行ったりして食した一流のレストラン、料亭の料理、またその味わいについての薀蓄を傾けるといった内容であります。

でもやはり一流の小説家は味の表現ひとつとっても並の人間では思いもつかないような言葉を駆使しますねぇ。例えば京都の三条川原町西の「大文字屋」という料亭で食べた鴨のくだり。

「鴨はまだ赤いくらゐが柔らかくておいしい。緋いろのにじむ熱いやつを卵にくぐらせて口に入れると、それはほのかに土の香りを漂はせながら、滋養に富んだ肉の味を口蓋に、舌に、歯茎にしみこませ、やがてもっとほのかに、ごく微量の灰の味を口中に残す。そのとき人間は(つまりこの場合はわたしのことです)、この鴨がかつて踏んだ土地の精気と彼が飛び翔けた空の風の匂ひとを体内に取り入れるのである。」

もう、うっとりしますね。

名人、丸谷才一のこの美しい描写。満足しました。


ただひとつ困ったのは、読んでいるとやたらお腹が空いてくるということで、時々ページを閉じてため息をついてはまた読み進めるという、普通の読書とはちょっと違う格好になってしまいました。

文豪と三代目の距離

2010-03-15 17:51:20 | な行の作家
夏目房乃介「孫が読む漱石」読了



マンガ評論家で夏目漱石の孫である夏目房乃介の書いた漱石論であります。


読んでいて圧倒されましたね。これくらい深く読まないと本というものは読んだことにならないのだなぁと反省することしきりでした。

本書は、漱石の初期の頃、すなわち「坊っちゃん」、「猫」の時代、それから朝日新聞在籍時代の「三四郎」、「それから」、「門」、そして例の修善寺の大患以降の「行人」、「こゝろ」、さらに晩年の「道草」、「明暗」と、ほぼ自分が読んだ著書に沿って解説がなされていて、その点は真に読みやすく、理解を深めるのに大いに役立ちました。

しかしこの孫はすごい。例えば「草枕」のところで、「…彼女の背後にあるであろう複雑そうな過去や悩みについて主人公は『非人情』という、芸術的かつ趣味的な超俗の境涯にふんばって、むやみに立ち入らないのである。『不人情』ではない、『非人情』である。『情がない』のではなく、人の情に踏み入らず、からめとられない超俗的で鑑賞的な態度のことである。」

どうです、この読み解き方!降参です(笑)


今まで自分が読んできた漱石本、特に「門」、「行人」、「道草」、「明暗」等の小説は、本書を読むことによって、また違った感慨も生まれ、漱石を巡る旅の終点にふさわしい良書でありました。感謝です。