ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

金沢文庫てくてくさんぽ5

2015年03月15日 | てくてくさんぽ・取材紀行
今日の金沢文庫てくさんぽ、最後はシーサイドラインで新杉田まで行かず、自宅にいちばん近い駅で降りて家まで歩いてみた。内陸を走る京急の最寄り駅までの間は、ずっと埋め立て地の団地街なのだが、途中に「船だまり公園」なるものを発見。

当時の入江の一角を残したもので、水鳥が集いハゼ釣りの名所でもあるらしい。奥には富岡八幡宮の社そう林も臨め、断崖の上の社だったことがわかる。団地に囲まれながらも、海の名残がかすかながらに感じられる。

最寄り駅から徒歩圏には、直木三十五の墓所とか川合玉堂の別邸とか、結構な史跡もあるらしい。これは、より地元のてくさんぽを極めねばだ。

ローカル魚でとれたてごはん…金沢八景・柴漁港 『小柴のどんぶりや』の、地魚天丼

2015年03月15日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
金沢文庫・称名寺裏の稲荷山からは、戸建や高層住宅が建ち並ぶ市街地の先に、海の公園と八景島シーパラダイスが臨めた。かつては海がこの山の直下まであり、想像するに不思議な感じがするが、それだけ横浜の沿岸が埋め立てられ、開発された証なのだろう。

八景の景勝も今は昔と思いつつ、現在の海際へ足を運ぶべく、歩いて10分ほどで海の公園へ。一角の柴漁港は東京湾屈指の水揚げ港で、江戸前のアナゴやシャコで知られる。午後いちながら入港、水揚げする底引き船で活気があり、直売所も行列の人出。レジャー施設や宅地に囲まれながら、活気付くその様にちょっと嬉しくなる。

さらに嬉しいことに、一角の食事処「小柴のどんぶりや」が、まだやってるではないか。昼前後には売切終了の人気店なので、ありがたくプレハブ前のテント席を確保。巨大なアナゴ天が二本のった丼が人気な中、自分はボリューム負けしそうなので地魚天丼を選んだ。ビールがないのは残念だが、海風に吹かれつつ酒抜きのランチも健全でよしか。

浜の丼は豪快無比と相場が決まっているだけに、運ばれてきた丼もタネが盛り上がらんばかりの迫力だ。日替わりの魚はアジとイカで、アジはプリプリホッコリと、土の香りが東京湾の風味。ゴロリと分厚くグシっと歯ごたえありのイカは、ブツンとかみ切るたびに甘みが展開する。かき揚げは玉ねぎとニンジンのシンプルさに、ゲソ入りのおまけつき。カリカリに揚がり過ぎ気味なのがご愛嬌で、いかにも漁港の惣菜な感じもいい。

柴漁港も埋め立てた土地に造られた漁港で、かつてはやや内陸の小柴という集落にあったという。開発の波の一角で、変わらぬ賑わいを見せる漁港風景を見つつ、いただく丼はしっかりと「八景」の景勝にある海の味がしたように思えた。

金沢文庫てくてくさんぽ3

2015年03月15日 | てくてくさんぽ・取材紀行
以前、金沢文庫駅最寄りの能見堂に行った時に書いたが、金沢八景の眺めはもうほぼ残っていない。称名寺裏の稲荷山からは、平潟湾や野島の景勝が望めたが、今はご覧の通りの埋め立て・宅地となっている。正面の野島の緑と左方の海の公園に、わずかに名残を残すのみである。

これも横浜検定の知識の残りゼンマイネタだが、鎌倉期にこのあたりに広がっていた入江「六浦湾」は、鎌倉幕府にとっての要港だった。東国からの物資が東京湾を経てここに集積されるためで、相模湾に面する鎌倉にとって東の玄関口。幕末に開港した横浜に比べ、当時ははるかに栄えた港町だったから面白い。

加えて江戸〜明治期の金沢八景は、手軽な旅行地として人気を博し、鎌倉や江ノ島詣での道中によく立ち寄られたそうだ。当時のゴールデンルートは、保土ヶ谷から上大岡、栗木を経て、能見堂から入る行程。花の時期には杉田での梅見客もあったという。開国期は旅行範囲が限られていた外国人も行きやすく、その往来も目立ったとか。自分の近所の町々が、当時は日本有数のメジャー観光地だった訳だ。

なんてあれこれ書いている稲荷山の東屋に、往来するのはハイキングらしい年配客がパラパラ。それもまたのどかでよし、の、今八景を見下ろす高台である。