ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

青森てくてくさんぽ4

2020年10月31日 | てくてくさんぽ・取材紀行
ワ・ラッセはオランダの建築家のデザインで、赤いルーバーを抜け、青森のブランドショップ・A-FACTORY前のデッキを過ぎ、斜張橋の青森ベイブリッジを見上げます。橋脚の階段の登り切ると、正面には青い海公園とアスパムが。西側は青森駅の広い構内と跨線橋から、メモリアルシップ八甲田丸も正面に見えます。眼下には、貨車を船に積み込んだ可動橋も。陸上と船内を繋ぎ、船の揺れに対応してます。側の青函連絡船戦災の碑には、全滅した悲劇の歴史が刻まれます。

可動橋の操作所を見て、青函連絡船の乗船通路だった跨線橋へ。かつてはホームの北端からこの通路を通り、青函連絡船に乗り継いでいました。メモリアルシップ八甲田丸は、引退した青函連絡船を係留展示した資料館です。八甲田丸は昭和39年に就航以来、23年7か月に渡り津軽海峡を運航、青函連絡船55隻の中で最長の現役期間で、昭和62年4月の最終航行もこの船でした。係留される場所はかつての連絡船桟橋で、今も往時の勇姿を見せています。

3階の「青函ワールド」は、昭和30年代の青函連絡船の風景を再現しています。青森駅待合室には、キオスクに並ぶ当時の雑誌と新聞、おみやげがレトロ。当時の時刻表では上野〜青森は約20時間、青森〜函館は4〜5時間かかったそう。奥羽線経由の急行津軽は昭和31年運行で、出稼ぎ列車とも呼ばれました。当時の青森駅前には、おみやげ用のリンゴの露店や、荷物運びの担ぎ屋、赤帽の姿も見られます。

青函鉄道連絡船記念室は、模型や資料をはじめ、当時の船内施設が懐かしいです。グリーン自由席は2人掛けのリクライニング。グリーン指定席は1人掛けで、自由席より広く、リクライニングも深く倒れます。寝台室は4人部屋。2段ベッドが向かい合い、入口にはソファセットも。浴衣の柄がJNRです。廃止直前の昭和62年の青函連絡船の運賃は2000円で、普通席と桟敷席が利用可。グリーンは自由席はプラス1100円、指定席は1600円。寝台料金はプラス2400円でした。船内には食堂もあり、ホタテ定食やイカソーメンなどが名物でした。接続列車内で配布される乗船名簿。薄緑は特別船室用、3本線入りは特急の車中で配布された印です。

4階の航海甲板では、ブリッジが見学可、丸い操舵ハンドルに、複数のプロペラを操る制御盤、レーダーが。ジャイロコンパスは舵と連動して、目的地に導きます。展望プロムナードの中央の煙突は、現在は展望台に。排煙パイプを観察しながら上ると、青森駅の青函連絡船乗換通路から現在の連絡船・青函フェリーが発着する青森港方面、かつて連絡船が航行した陸奥湾を隔て、夏泊半島の先に下北半島方面アスパムと青森ベイブリッジ。360度のパノラマです。

エレベーターで1階の車両甲板へ。貨車を搭載したフロアで、現在は車掌車、郵便荷物車なども展示されています。揺れや傾きに備え連結器や、1両ごとの緊締具などを装備。搬入口の船尾扉。波が入るのを防ぐため厚く、厳重に閉じられます。貨車航送は大正14年から始まり、八甲田丸は4本の引込線に、貨車換算で48両ほど搭載できました。搬入出時に可動橋に重い機関車が乗ると安定しないため、空の貨車「控車」を機関車と貨車の間に繋ぎ、そこが可動橋に乗る工夫がされました。旅客列車は航送しませんでしたが、展示にはディーゼル特急キハ82も。エンジンルームには、1600馬力のエンジンを8基搭載。青函トンネル開通前の、船旅の旅情があふれます。

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