ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

甲府てくてくさんぽ7

2020年09月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
武田氏館の配置図によると、主郭の北西には天守がありました。土橋で堀を渡り、西曲輪の内部へ。西曲輪は信玄の長男・義信と妻である今川義元の娘との居館がありました。義信の自害後の用途は不明です。あたりは木々が茂り、森閑としたたたずまいで、武田菱の家紋と軍配が刻まれた碑は武田神社に所以します。西曲輪北側枡形虎口南門など、居館出入口の枡形の南北に門があり、南側の門が規模が大きく北側は土塁につながる低い石垣が設けられてました。

土橋で堀を渡った先は味噌曲輪で、蔵屋敷があり、物資や食料の貯蔵場所とされます。このあたりは現在も発掘調査中で、背後は詰城があった要害山方面です。主郭の北側を堀沿いに歩くと、水量は少ないもののせせらぎの音が聞こえます。御隠居曲輪は武田信虎の夫人・大井の方の隠居所とされています。それぞれの曲輪を散策路が結び、御隠居曲輪南の園地を経て、主郭の東側へ続きます。

大手はかつての武田館の正門・大手門の門前。防御の要のため、大手石塁と呼ばれる階段付きの石垣が設けてありました。付近には厩などの建造物や、外寄りの惣堀手前には虎口も設けてありました。城郭の東端には、惣堀の跡も、大手石塁の向かいが虎口になっていて、この先に大手門がありました。

武田神社の正面の信玄ミュージアムには、武田氏や武田館にまつわる資料を展示。甲斐国の民のために尽力した、信玄公の偉業が分かります。信玄館の全景模型や、発掘調査中の出土品も展示されてます。旧堀田古城園は昭和8年築の割烹料亭で、茶室など木造家屋が並びます。主屋の床の間には、信玄と臣下の武将を描いた「武田二十四将図」が。武田三代の壮大な居館から、往時の繁栄が窺えます。

甲府てくてくさんぽ6

2020年09月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
武田神社へは甲府駅北口からバスを利用。バス停そばに甲府城の石垣が。城郭の北端の清水曲輪でした。バスは2番乗り場から約30分おき、所要8分ほど。駅からまっすぐ北へ向かう、武田通りを直進していきます。バス停は神橋のすぐたもとで、そのまま境内へと向かいましょう。武田神社は大正8年創建、武田信玄が祭神の甲斐の守護神。神橋で幅十間の堀を渡り、境内へ入ります。

神社があった場所は当主の館、武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)で、武田信玄の父・信虎と信玄、勝頼が拠点に。信玄と勝頼の時代に、西曲輪ほか周囲が整備されました。堅牢な城郭で、周辺に家臣の屋敷や城下町が形成。文禄年間に甲府城ができる前は甲州の政治経済の中心でした。神社の周辺には、居館だった頃の曲輪の名残が見られます。

鳥居をくぐり参道を直進、かつて居館が設けられた主曲輪へ。かつて居館の主殿だった付近に拝殿が建ち、信玄公にちなみ勝ち運、産業経済振興にご利益があります。社殿の左右にある風林火山と武田二十四将の大盃は、昭和44年4月4日の吉日に奉納。館は甲陽武徳殿のある境内西寄りに広がり、かつて富士山を借景にした庭もありました。

甲府てくてくさんぽ5

2020年09月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
黄色の土塀に沿った先の大きな寺院は一蓮寺で、武田氏の時代に甲府城の場所にあり、築城後ここに移転。柳沢吉保が側用人になったの記念した画があります。徳川5代将軍綱吉の側用人に登用されてきた柳沢吉保は、先祖が武田氏の家臣のため、甲州に地縁があります徳川綱吉の計らいで、甲府城主も務めました。2代20年に渡り、甲府の町を発展させた功績があります。

隣の遊亀公園は、噴水を中心に園地が整備された、市民の憩いの場。もと一蓮寺の境内で、かつての新府内の南端にあたります。園内の遊亀公園附属動物園は大正8年創設、日本で4番目に開かれた動物園。池端には、懐かしいつくりの売店が構えます。園内には県内最多の300種の動物が揃い、横切る通路には動物たちのパネルが。鳴き声も聞こえ園内にいる気分になれます。

先にある稲積神社は伏見稲荷を本宗、伊勢外宮の御神徳も厚い神社。宇迦之御魂大神と大宮能売大神が祭神で、衣食住にご利益があります。境内の御神木と「みまもり石」は、長年この社を見守ってきた石です。拝殿前の石灯籠には、ハート型の彫り物も。隣接する天満神社には悪いところが治る撫で牛、医療の神様・瘡子社などの境内社に、地下136メートルからの湧水・御神水、干支を撫でるとご利益がある十二支の灯篭も並ぶなど、ご利益満載です。北参道から一蓮寺の境内へ続いており、さらに遊亀公園へ戻れます。

甲府てくてくさんぽ4

2020年09月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
三日町通りを右折、今の繁華街も歩いてみましょう。銀座通り手前には料亭・医院・薬局・煮貝などレトロな店舗が。銀座通りはアーケードが設けられていて、藍染の暖簾が涼しげに揺れています。銀座通りをはじめとした、甲府城の南側に広がる商店街は、かつての町人地と武家屋敷に形成されています。近くには甲州街道が通っており、江戸中〜後期には物流と交易の拠点として、大変な賑わいを見せていました。途中の仲見世は、庶民的な飲屋街が集中。中ほどで交わる桜町通りの界隈は、城郭内の武家屋敷でした。

弁天小路・裏春日通りは、駅に近い夜の繁華街。アーケードを出たところの春日あべにゅうも、ネオンの明かりが華やかそうです。横丁にひしめくのは、バーやスナック、昭和の東京五輪ゆかりの名の小路には、ラーメンに居酒屋が目立つよう。先の小路は小料理屋が中心など、横丁ごとに個性があります。アーチにはお国言葉でのお見送りもあり、ローカルでなごみます。

春日あべにゅうを抜けると旧甲州街道で、右折して遊亀通りへ。緑橋で濁川を渡ると魚町通りへ結ぶ鍛冶町通りと交わり、町名に職人町の名残が見られます。沿道は呉服、海苔、酒、布団屋など古い商店が点在。山梨県水晶宝飾協同組合は、イベント開催など宝石・貴金属の情報を発信する施設で、店頭には金の鉱石とダイヤモンドの原石が。選別方法も掲示されてます。向かいのおかめ麹は明治27年創業、手作りの麹と木桶で発酵させる味噌の老舗。蔦にびっしりと囲まれた町の書店も頑張っています。

甲府てくてくさんぽ3

2020年09月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
舞鶴城公園を後に、東寄りの城下町を歩いてみましょう。甲府城の南東は、城郭の構築に伴い江戸初期に整備。「新府中」と称され、通り名や町名に名残が見られます。横近習大神宮は武田氏の頃からの、伊勢信仰の社。前の通りにはかつて、材木商が集中してました。大神宮をやや行ったところのカトリック甲府教会は、聖堂は大正14年築で戦火を逃れた戦前建築です。堂内には6体の聖像が並び、一体は殉教者の武士の像とか。

魚町は武田氏の頃に市が立ち、江戸期は魚問屋や仲買人が集中した地区。昭和48年に郊外に甲府中央卸売市場が設置されるまで、魚町界隈は甲府の水産物の流通の拠点でした。江戸期には、近くに駿河湾から鮮魚を運んできた中道往還が通っており、物流の要衝として優れた立地でした。現在は市街化された中、通り名や屋号などに名残がちらほら。明治期に甲府魚市場が設置されていた場所は、現在はマンションになっています。その正面のみな与は、1584(天保12)年創業の煮貝の老舗。魚町の変遷を見守った店舗です

魚町通り界隈には地場産業の資料館が点在しており、甲斐奈通りの山梨中央銀行金融資料館は山梨の金融の歴史と、日本の貨幣史の資料館です。古代から現在の主な貨幣の実物や、日本最古とされる預金通帳も。甲州は武田氏の時代に金の産地で、武田氏による甲斐の貨幣体系「甲州金」は江戸幕府の貨幣体系の礎にもなりました。

城東通りの交差点付近の印傳屋上原勇七印傳博物館は、江戸期創業の甲州印傳の老舗です。印傳とは、松ヤニで燻した鹿革に漆を用いて様々な模様を染めた、甲州で400年続いている伝統工芸品。当時は武具の装飾に施されており、現在は財布や名刺入れなどの小物をはじめ、バッグなどに用いられています。1階は店舗で、バッグなどをはじめ手軽な小物も揃います。