武田氏館の配置図によると、主郭の北西には天守がありました。土橋で堀を渡り、西曲輪の内部へ。西曲輪は信玄の長男・義信と妻である今川義元の娘との居館がありました。義信の自害後の用途は不明です。あたりは木々が茂り、森閑としたたたずまいで、武田菱の家紋と軍配が刻まれた碑は武田神社に所以します。西曲輪北側枡形虎口南門など、居館出入口の枡形の南北に門があり、南側の門が規模が大きく北側は土塁につながる低い石垣が設けられてました。
土橋で堀を渡った先は味噌曲輪で、蔵屋敷があり、物資や食料の貯蔵場所とされます。このあたりは現在も発掘調査中で、背後は詰城があった要害山方面です。主郭の北側を堀沿いに歩くと、水量は少ないもののせせらぎの音が聞こえます。御隠居曲輪は武田信虎の夫人・大井の方の隠居所とされています。それぞれの曲輪を散策路が結び、御隠居曲輪南の園地を経て、主郭の東側へ続きます。
大手はかつての武田館の正門・大手門の門前。防御の要のため、大手石塁と呼ばれる階段付きの石垣が設けてありました。付近には厩などの建造物や、外寄りの惣堀手前には虎口も設けてありました。城郭の東端には、惣堀の跡も、大手石塁の向かいが虎口になっていて、この先に大手門がありました。
武田神社の正面の信玄ミュージアムには、武田氏や武田館にまつわる資料を展示。甲斐国の民のために尽力した、信玄公の偉業が分かります。信玄館の全景模型や、発掘調査中の出土品も展示されてます。旧堀田古城園は昭和8年築の割烹料亭で、茶室など木造家屋が並びます。主屋の床の間には、信玄と臣下の武将を描いた「武田二十四将図」が。武田三代の壮大な居館から、往時の繁栄が窺えます。
土橋で堀を渡った先は味噌曲輪で、蔵屋敷があり、物資や食料の貯蔵場所とされます。このあたりは現在も発掘調査中で、背後は詰城があった要害山方面です。主郭の北側を堀沿いに歩くと、水量は少ないもののせせらぎの音が聞こえます。御隠居曲輪は武田信虎の夫人・大井の方の隠居所とされています。それぞれの曲輪を散策路が結び、御隠居曲輪南の園地を経て、主郭の東側へ続きます。
大手はかつての武田館の正門・大手門の門前。防御の要のため、大手石塁と呼ばれる階段付きの石垣が設けてありました。付近には厩などの建造物や、外寄りの惣堀手前には虎口も設けてありました。城郭の東端には、惣堀の跡も、大手石塁の向かいが虎口になっていて、この先に大手門がありました。
武田神社の正面の信玄ミュージアムには、武田氏や武田館にまつわる資料を展示。甲斐国の民のために尽力した、信玄公の偉業が分かります。信玄館の全景模型や、発掘調査中の出土品も展示されてます。旧堀田古城園は昭和8年築の割烹料亭で、茶室など木造家屋が並びます。主屋の床の間には、信玄と臣下の武将を描いた「武田二十四将図」が。武田三代の壮大な居館から、往時の繁栄が窺えます。