ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

小倉・中津てくてくさんぽ

2017年08月06日 | てくてくさんぽ・取材紀行
今回の小倉・中津のこぼれネタ。それぞれで城を訪ねたが、どちらも細川忠興に所以ありと後で知った。小倉城は氏が本格的に築城、中津城は黒田官兵衛の後を引き継ぎ完成させた。しかし一国一城令から豊前国では小倉城しか存続できなかったところ、特例で中津城も残されることとなった因縁がある。

細川忠興といえば、ガラシャ夫人の旦那程度の知識しかなかったが、たまたま両城をハシゴできて理解が深まった。どっちも昼夜訪れたので、定点の写真を並べてみる。

玄海うどんのかしわうどん@小倉駅

2017年08月06日 | 旅で出会った食メモ
1日目の晩、小倉の銀天街付近の「資さんうどん」に触れた際、麺が減らないとの表現をいたしましたが、これは博多に本拠のある「牧のうどん」のことでした。両チェーンは、博多vs北九州の代理戦争的勢力争いをしているそうで、これを間違える、しかも事もあろうに小倉で間違えるとは、命知らずの行為と関係筋から指摘をいただきました。申し訳ありません。誰に謝っているのやら。

という訳で、お昼はどちらに与することもなく、小倉駅構内の「玄海うどん」にて、かしわうどんいただきました。かしわからもダシが出ててうまいです。近所の吉そばでやってほしいです。

ローカル魚でとれたてごはん…大分・中津 『日の出寿司』の、ベタの煮付けとハモの湯引き

2017年08月06日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
小祝の漁港は、中津城の対岸に位置する中州の北端、中津川の河口付近に位置しており、城から河岸を歩いて行くことができる。城下町めぐりの翌朝は漁港さんぽとばかり、土手をのんびり豊前海方面に歩いてみた。史実からして江戸期の漁師町風情をイメージしたら、到着してみると広い敷地にゆったりとした係留護岸が整備され、なかなか近代的だ。中津の近海は古くから遠浅で、干満差が大きいため干潮時には干上がってしまい、漁船の係留に支障をきたしていた。そこで昭和48年から10年がかりで整備したのが、現在の小祝漁港である。

日曜だから水揚げ作業や競りはないのか、荷捌き場は稼働しておらず、漁師がパラパラと漁具の手入れをしている程度と、広さも相まってガランとしている。係留されている漁船は屋根のない小型船が中心で、かご網や底引き網を載せ、小型の巻上げ機も備えていた。中津川の河口近海は砂底のため、網漁の操業がしやすく、タコやイカ、ワタリガニを狙ったカゴ漁や建網漁、やや沖合では昨日いただいたキスや鯛を狙った船曳網漁、ハモやシタビラメを狙った底引き網が主流という。シタビラメはフランス料理にも用いられる高級魚介で、地元では「ベタ」と呼ばれ一夜干しが人気とか。第三日曜にここで開かれる「漁師さんの朝市」でも、売れ行き上々の品だそうだ。

漁港に隣接する「小祝新町」は、この漁港が整備された際にできた新興住宅地で、細川時代に漁師を集めたところでない。「小祝」の町名が残るエリアは、中州の中津城の対岸付近に広がっている。小祝漁港からの帰りに回ると、小祝神社の小さな社が構え、隣接して古来の製法を守る醤油醸造元なども。集落に入り込むと、木造で瓦屋根の重厚な家並みが続く。細い路地越しに中津城を臨めるところもあり、まさに城下の漁師町といったたたずまいだ。小祝は江戸期には、漁業をはじめ廻船業の拠点としても賑わい、運上場や御用船の係留場が設けられるなど、中津の経済や物流の中心地だったようである。

駅へと戻るとちょうど昼前だが、こちらも日曜のためやっているお店が少なく、駅の周辺だと日の出町商店街の中程にある「日の出寿司」しか店を開けていない。商店街のアーケードもレトロだが、この店の年季も相当で、店頭の大量多種すぎる品書きや、食欲喚起を意識してないすすぼけたサンプルが、一抹の不安を呼ぶ。とはいえ品書きには「ハモ」「地魚」の文字もあり、ほかの店の選択肢は皆無のためえいっ、と扉を開けた。中は営業してるか訝しんでしまう薄暗さで、カウンターや座敷の隅には皿やら調度やらが無造作に積まれており、庶民的という次元を超えたラフな様相である。

すると客の気配を感じたらしく、無人の店内の奥から、おばあちゃんがパタパタと出てきた。どこからいらしたの? 中津に来たならハモがおすすめよ、と愛想は良く、まずはひと安心。ハモ料理は刺身、湯引き、天ぷらなど各種あるものの、昨夜のあんかけのインパクトが強く、どうも新たに食指が動かない。ハモは昨日食べたので、とローカル色の濃い魚を聞くと、おばあちゃんは思案の上で「ベタならありますよ」。値段を聞いたらしばらく外した後、鮮魚のパックを片手に戻ってきた。何と、いま魚屋で買ってきてくれたのだ。尾頭付きで600円なので商談成立、「結構高い魚だけど、サービスよ」とおばあちゃんが笑う。

待ちながら、今朝小祝漁港まで行ってきたと伝えたところ、船がみんな停まってたでしょう、と。今日はシケで出漁できなかったようで、自分の注文にわざわざ「仕入れに」行ってくれたおばあちゃんに、改めて感謝である。つれづれに小祝の昔話をしてくれ、今は小舟ばかりだがかつては大型の漁船が出入りし、白さエビや車エビやゆでたシャコを築地に出していた、海苔漁師は1年分の売上を短期で楽々上げていた、など、当時から日本三大干潟に挙げられる、優良な漁場であるのが伺える。かなり沖まで遠浅のため、自身も随分遠くまでアサリを採りに行ったと、干潟が盛況だった頃をしきりに懐かしんでいる。

シケで今日の魚はよそ物ばかりだけど、ベタとハモは小祝の地物ですよ、と強い推しのおばあちゃん。特にハモは上物だそうで、せっかくだから湯引きを一人前いただいた。口に入れたとたん、キュッと締まった身が実に芳醇。ポン酢と梅でさっぱりいただけ、酸味のおかげで後味がすっぱりと潔い、これぞまさに夏の魚である。ちなみに付近でハモが棲息する海域は、中津の近海の砂地のみだそう。漁場がちょっとずれて、国東半島寄りや福岡県寄りになると揚がらないらしく、「中津沿岸は住み心地がいいんでしょうね」との言葉に思わず納得してしまう。

そして待望のベタは、砂糖を使わず醤油とみりんのみでサッと煮付て出された。寄り目のユニークな見た目に対し、舌触りが実に上品。ねっとりとした食感から、じっとり白身の旨味がまとわり後をひく。味付けは感じない程度で、白身の味だけ純粋に味わえるのもいい。昨夜に続く白身の食べ比べは、若々しいハツラツさのハモ、妙齢の円熟味のベタといった評価だろうか。小骨が多く、ハモのように骨を切ったりしないから、ビールのグラスを片手にじっくりと相手をする。これは煮付けでいけるギリギリの大きさで、大きいともっと食べやすいけど、とおばあちゃんは恐縮しきりだが、わざわざ用意くださっただけで充分満足である。

午後は当地出身の偉人、福沢諭吉先生の記念館に行こうか。はたまた日本遺産登録の耶馬渓に足をのばし、渓谷のサイクリングといこうか。思案していたら突如、アーケードの屋根を叩きつけるような轟音が、響き始めた。この季節特有の通り雨らしく、軍師の街攻めも藩主お抱えの漁港攻めもしたことだし、散策はもういいか、と腰が重くなる。馴染めば心地よい超庶民的な店にて、新たな「軍師」にアテを委ねる午後もまたよし、と沈みゆく、中津のローカル魚探訪である。

中津てくてくさんぽ6

2017年08月06日 | てくてくさんぽ・取材紀行
中津朝さんぽ、中津の街は同じ町名で「新◯町」「古◯町」の、ふたつが存在することが多い。城下町を整備した黒田官兵衛が、敵を混乱させるためとの説がある。が、先ほどの漁師町「小祝新町」は、昭和になって漁港が整備された際にできた町名で、その限りではない。調べたところ、細川時代に引き抜いてきた漁師を集めた「小祝」の町名は、中州の山国川寄り、中津城の近くにあった。今の漁港からはかなり陸寄りだが、それが整備される前はここが豊前海に面していたらしい。

小祝漁港からの帰りに回ってみると、小祝神社の小さな社が構え、隣接して古来の製法を守る浦野醤油が。集落に入り込むと、木造で瓦屋根の重厚な家並みが続く。細い路地越しに中津城を臨めるところもあり、まさに城下の港町といった感じだ。江戸期には漁業のほか廻船業の拠点として賑わい、運上場や御用船の係留場が設けられるなど、中津の経済や物流の中心的エリアだったようだ。

中津川と山国川の分岐点までくれば、あとは駅へ戻るだけでさんぽは終わり。お昼はハモ、いただきましょう。