ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

中津サンライズホテル@中津

2017年08月05日 | 宿&銭湯・立ち寄り湯
中津の宿は南口すぐの「中津サンライズホテル」。素泊まりなんと2800円ながら、内装や設備や古さや広さや清潔さいずれも、5000円クラスの宿と何ら遜色ない。ロビーには漫画が山ほどあり読み放題、これは楽しい。

この街を再訪することがあれば、ぜひまた泊まりたい安宿である。

ローカル魚でとれたてごはん…大分・中津 『居酒屋 てん』の、ハモの舞茸あんかけ

2017年08月05日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
中津は軍師として名高い黒田官兵衛が築城した、中津城の城下町である。防御を考慮した町割りがされただけあり、街を歩くと随所で構造が特殊なのが分かる。赤壁の合元寺が有名な寺町へは、斜めに入りすぐ直角に曲がり、クランクの先で広がったり狭まったりと、道の配置が複雑で方向感覚が狂ってしまいそうに。道中の「魚の辻」という変則四叉路には、蛭子宮の小さな祠が鎮座していた。あたりは「古魚町」という町名で、この宮は商売繁盛の神様として、界隈の信仰を集めていたという。魚屋の鎮守と思いきや職人町だったそうで、あいにく魚河岸や水運とは関連がないらしい。

寺町から中津城の城郭へ向かい、大手門跡から椎木御門を過ぎると、薬研堀の向こうに漆黒の二重櫓と天守が見えてきた。中津城は日本三大水城に数えられ、潮の干満を利用して堀に水を引き込む構造が特徴的である。北側の石垣に面して中津川が流れており、平城ながら防御は万全の様相だ。天守からは中津川と、河口沖の豊前海も一望。対岸には山国川に挟まれた、中州も広がっている。ここには小祝という集落があり、黒田官兵衛の後に当地を治めた、細川忠興が整備した港町だった。忠興はハモを漁獲すべく、腕利きの漁師を福岡県行橋の今井浦から引き抜いてここへ集めた、とのエピソードがある。

今もハモが中津の地魚として知られるのは、この件がきっかけで漁獲量が飛躍的に上がったことに、端を発する。ハモは現在、全国的に漁獲量が減少傾向な中で、中津では小祝漁港を中心に安定して水揚げされており、市も特産品化に積極的に取り組んでいる。俗に「梅雨の水を飲んで育った」といわれる夏が、さっぱりとして旬で、蒸し暑いこの時期にはまさにうってつけ。官兵衛が整備した城下町を歩いた後には、忠興公の施策の恩恵を被るのもいいかも知れない。中津駅南口の宿へ向かう途中、「居酒屋」と染め抜かれたシンプルな暖簾が誘う。おすすめの品が並ぶボードにも惹かれ、今宵はこの「てん」に腰を据えることに。

カウンターに付くやいなや、まずはビールと、ボードにあった気になる料理をオーダーだ。「ハモと舞茸のあんかけ」を頼むと、親父さんが「今日はキスもうまいですよ、天ぷらでどうでしょう?」扱っている魚介は、ほぼ小祝漁港など近郊の漁港で水揚げだそうで、オススメにも従うと良さそうである。先に出できたハモは、揚げたてアツアツのに舞茸たっぷりのあんがかかっている。ひと切れいくとホコホコした食感の後、白身が実に濃厚。ハモの厚い土の香りとマイタケの山の香りが相乗し、包み込むような旨味が舌を痺れさせる。味の余韻が染み付いて離れず、何とも魅惑的なあんかけ料理だ。

これはうまい、と褒めたところ、「中津のハモは様々な料理に使えますからね」と親父さん。小祝漁港をはじめ、近隣の各所で水揚げされるため、量が多いのに加え細いのから太いのまで、サイズが幅広いのも特徴という。夏だけでなく通年水揚げされ、冬の「名残りハモ」は夏と対照に、脂がのり食べ応えがあるそうだ。そうした特性に応じて様々な料理に用いられ、こちらのオリジナルであるあんかけのほか、なんとハモのカツ丼を売りにする店まであるとか。太いハモはイワシをひと飲みするほどのボリュームだそうだから、カツのタネとして充分な味わいなのだろう。

そしてハモ料理で忘れてはならないのが、3500本もあるとされる小骨が、口に触らないようにする「骨切り」の技術だろう。祇園祭の時期の名物料理「ハモの落とし」の知名度から、京料理発祥の技法と捉えられているが、実は骨切りはここ中津が発祥なのである。これも、細川忠興公がハモ漁師を小祝に集めたことに端を発しており、市内の料理屋では技術を取得した料理人が多いそうだ。あんかけのハモももちろん、小骨が口に触らぬ見事な技。地元ではさっと炙ってそぎ切りにしたり、生のままポン酢で食べたりもするそうで、素材を生かしたシンプルな食べ方こそ、確かな技術が求められるのではなかろうか。

親父さんイチオシのキスは、舌にサラサラと滑るようで、主張する風味がなく澄みきったキレの良さ。ハモと対照な白身ながら、タッグを組み緩急をつけて攻め込んでくる。これは今宵の名軍師を得たと、あとは親父さんのさらなるおまかせに委ねようか。箸先に少しつけた塩だけでどうぞ、とのヤリイカも、とろける甘さが期待を裏切らない。地元の焼酎「耶馬美人」をロックで合わせるうちに、とんがったその姿が官兵衛の兜に見えてきたような。

中津てくてくさんぽ2

2017年08月05日 | てくてくさんぽ・取材紀行
大分・中津の夜さんぽ、中津の城下町は要塞都市で、街中には中津城の遺構が随所に残っている。寺町から城郭へ向かって歩くと、商人町との境である堀が残る御用屋敷跡を見て、大手門跡で三ノ丸へと入り、黒御門跡から二ノ丸、さらに椎木御門跡を経て天守のある本丸へと至る。それぞれの跡地には案内板が整備され、大手門は武者を多数配置できる枡形が設けられていたとあり、当時の石垣も残っている。防御機能を備える城下町に、こうした二重三重の関門が設けらた城郭と、さすがは官兵衛の守りの城と言える。

椎木御門を過ぎると、内堀の薬研堀沿いに進み、堀端に漆黒の二重櫓と天守が、夜の闇の中に浮かぶ様が見えてきた。どちらも昭和39年に造られたもので、記録では中津城に天守があったか定かでない。模擬天守はかつて隅櫓があった場所に建ち、五層の勇壮さながら石垣の土台からはみだし、ちとアンバランスなような。下見板張りのブラックなフォルムは山口の萩城を模したのだとか。

中津城は日本三大水城に数えられ、潮の干満を利用して堀に水を引き込んでいる。北側の石垣に面して中津川が流れており、平城ながら防御は万全の様相だ。天守からは中津川と、河口の豊前海も一望。対岸の中州には漁師町の小祝があり、中津の地魚の水揚げ拠点となっている。小祝は黒田官兵衛の後に当地を治めた、細川忠興が整備したとされ、中津の地魚であるハモを水揚げすべく、腕利きの漁師を引き抜いて集めたとの所以がある。

中津てくてくさんぽ1

2017年08月05日 | てくてくさんぽ・取材紀行
今回の旅の最後は、大分県の中津へ。旅程の真ん中に山口での所用が二日入ってしまい、小倉→山口→中津という無駄かつ妙な旅程となってしまった。九州近辺に来る機会があまりないため、チャンスは生かさねば。

今宵は魚で晩御飯の後にホテル入りのつもりが、明日は台風が近づくらしく、町歩きも一応済ませたほうがよさげ。なので1930に到着後、城下町を歩いてみた。中津城を築城した軍師・黒田官兵衛が町割りしただけあり、城を中心に防御の構えが随所に見られる。城の東寄りの寺町も守りを考慮しており、真っ直ぐ城へ向かえないよう、道の配置が実に複雑。枝町の交差点から斜めに入るとすぐ直角に曲がり、クランクの先で広がったり狭まったりと、日が暮れていることもあり方向が分からなくなってしまいそうだ。

宝蓮坊の山門前は「魚の辻」という変則な四叉路になっており、角には蛭子宮の小さな祠が鎮座する。あたりは「古魚町」という町名で、この宮は商売繁盛の神様として、魚の辻界隈の信仰を集めていたという。魚屋の鎮守と思いきや、古魚町は名に違って職人町だったそう。魚河岸や中津川の水運とは関連がないらしく、魚どころのストーリーにつながらずでちと残念か。別途「新魚町」もあり、城下町にはほかにも「新」と「古」を冠した同名の町名が、今もいくつも残る。これも他所からの侵入者を、撹乱させる策だったとか。

寺町をさらに進むと石畳の舗道となり、明蓮寺と松巌寺の土塀に挟まれた道が風情がある。合元寺は官兵衛と抗争した前領主の家臣が、立てこもった寺。特徴である赤い外壁は、その際についた血痕が消えないために赤色に塗り込めたという。夜の闇の中、月の光に光る血の色の壁、何か出てこなければいいけれど…。

宇部てくてくさんぽ2

2017年08月05日 | てくてくさんぽ・取材紀行
宇部の玄関口・宇部新川駅は、こぢんまりしたターミナルといった感じ。もと民鉄っぽく、駅舎寄りの広いホームに植え込みや噴水があったり、跨線橋の登り口がホームに直角だったりと、レイアウトが独特だ。

車窓に80周年になる渡辺翁記念会館を眺め、宇部さんぽはコンパクトに終わり。今夜は再び九州入りだが、台風の動きが気になる。