中津は軍師として名高い黒田官兵衛が築城した、中津城の城下町である。防御を考慮した町割りがされただけあり、街を歩くと随所で構造が特殊なのが分かる。赤壁の合元寺が有名な寺町へは、斜めに入りすぐ直角に曲がり、クランクの先で広がったり狭まったりと、道の配置が複雑で方向感覚が狂ってしまいそうに。道中の「魚の辻」という変則四叉路には、蛭子宮の小さな祠が鎮座していた。あたりは「古魚町」という町名で、この宮は商売繁盛の神様として、界隈の信仰を集めていたという。魚屋の鎮守と思いきや職人町だったそうで、あいにく魚河岸や水運とは関連がないらしい。
寺町から中津城の城郭へ向かい、大手門跡から椎木御門を過ぎると、薬研堀の向こうに漆黒の二重櫓と天守が見えてきた。中津城は日本三大水城に数えられ、潮の干満を利用して堀に水を引き込む構造が特徴的である。北側の石垣に面して中津川が流れており、平城ながら防御は万全の様相だ。天守からは中津川と、河口沖の豊前海も一望。対岸には山国川に挟まれた、中州も広がっている。ここには小祝という集落があり、黒田官兵衛の後に当地を治めた、細川忠興が整備した港町だった。忠興はハモを漁獲すべく、腕利きの漁師を福岡県行橋の今井浦から引き抜いてここへ集めた、とのエピソードがある。
今もハモが中津の地魚として知られるのは、この件がきっかけで漁獲量が飛躍的に上がったことに、端を発する。ハモは現在、全国的に漁獲量が減少傾向な中で、中津では小祝漁港を中心に安定して水揚げされており、市も特産品化に積極的に取り組んでいる。俗に「梅雨の水を飲んで育った」といわれる夏が、さっぱりとして旬で、蒸し暑いこの時期にはまさにうってつけ。官兵衛が整備した城下町を歩いた後には、忠興公の施策の恩恵を被るのもいいかも知れない。中津駅南口の宿へ向かう途中、「居酒屋」と染め抜かれたシンプルな暖簾が誘う。おすすめの品が並ぶボードにも惹かれ、今宵はこの「てん」に腰を据えることに。
カウンターに付くやいなや、まずはビールと、ボードにあった気になる料理をオーダーだ。「ハモと舞茸のあんかけ」を頼むと、親父さんが「今日はキスもうまいですよ、天ぷらでどうでしょう?」扱っている魚介は、ほぼ小祝漁港など近郊の漁港で水揚げだそうで、オススメにも従うと良さそうである。先に出できたハモは、揚げたてアツアツのに舞茸たっぷりのあんがかかっている。ひと切れいくとホコホコした食感の後、白身が実に濃厚。ハモの厚い土の香りとマイタケの山の香りが相乗し、包み込むような旨味が舌を痺れさせる。味の余韻が染み付いて離れず、何とも魅惑的なあんかけ料理だ。
これはうまい、と褒めたところ、「中津のハモは様々な料理に使えますからね」と親父さん。小祝漁港をはじめ、近隣の各所で水揚げされるため、量が多いのに加え細いのから太いのまで、サイズが幅広いのも特徴という。夏だけでなく通年水揚げされ、冬の「名残りハモ」は夏と対照に、脂がのり食べ応えがあるそうだ。そうした特性に応じて様々な料理に用いられ、こちらのオリジナルであるあんかけのほか、なんとハモのカツ丼を売りにする店まであるとか。太いハモはイワシをひと飲みするほどのボリュームだそうだから、カツのタネとして充分な味わいなのだろう。
そしてハモ料理で忘れてはならないのが、3500本もあるとされる小骨が、口に触らないようにする「骨切り」の技術だろう。祇園祭の時期の名物料理「ハモの落とし」の知名度から、京料理発祥の技法と捉えられているが、実は骨切りはここ中津が発祥なのである。これも、細川忠興公がハモ漁師を小祝に集めたことに端を発しており、市内の料理屋では技術を取得した料理人が多いそうだ。あんかけのハモももちろん、小骨が口に触らぬ見事な技。地元ではさっと炙ってそぎ切りにしたり、生のままポン酢で食べたりもするそうで、素材を生かしたシンプルな食べ方こそ、確かな技術が求められるのではなかろうか。
親父さんイチオシのキスは、舌にサラサラと滑るようで、主張する風味がなく澄みきったキレの良さ。ハモと対照な白身ながら、タッグを組み緩急をつけて攻め込んでくる。これは今宵の名軍師を得たと、あとは親父さんのさらなるおまかせに委ねようか。箸先に少しつけた塩だけでどうぞ、とのヤリイカも、とろける甘さが期待を裏切らない。地元の焼酎「耶馬美人」をロックで合わせるうちに、とんがったその姿が官兵衛の兜に見えてきたような。