今、私の職場では、空調設備の点検・修繕を進めており、暖房が入りません。
事務室内は冷蔵庫のようです。
あまりの寒さに、私はYシャツの下に半袖の下着と長袖の下着を重ねて着用し、Yシャツの上にはフリース。
ズボンの下には股引を履き、膝かけを2枚掛けてしのいでいます。
また、手が氷のように冷えるので、指先だけが出ている手袋を着けています。
室内で仕事をする格好ではありません。
これはおそらく、労働安全衛生法違反でしょうねぇ。
それでも、筋肉お化けのような上司はYシャツ1枚で平気な顔をしています。
私ももう少し筋肉を付けなければなりませんねぇ。
ていうか、個人の筋肉量の問題ではなく、暖房が復旧すれば良いのですけれど。
女性陣は肩から毛布をかけて仕事をしています。
これでは、仕事の能率にも関わります。
それにしても、施設担当部署は、なんだって一番寒い時季に空調設備の修繕を始めたんでしょうねぇ。
もう少し早くやって、寒い時季には暖房が使えるようにするのが当然だと思いますが。
今月いっぱいはこの寒さに耐えなければならないようです。
やれやれ。
今日、安倍総理が伊勢神宮を参拝されました。
同じ神社でも、靖国神社にお参りするのとは大違いで、中国も韓国も関心を示しません。
天照大神をはじめとするわが国の神話に基づく神々を祀る神社と、戊辰戦争後の軍人・軍属を祀る神社とでは、当然、性格が異なります。
もし、わが国びとの心のふるさととでも呼ぶべき伊勢参拝を批判されたなら、日本国中、黙ってはいないでしょう。
もともと靖国神社は、軍人・軍属の犠牲者を英霊として祀り、感謝の誠を捧げるため、国が直轄する神社として生まれた、新しいお社です。
それに比べて、伊勢神宮は正式名称が神宮だけというくらい、神社といえば伊勢神宮を指すほどの存在で、いったいいつ誰によって創建されたのかさえ、定かではありません。
日本人が日本人であると自覚する以前から存在していたのでしょう。
その伊勢神宮にお参りすることが批判されないということは、日本が日本たるべき所以の物までを批判する気はなく、単に近代以降敗戦までの日本を批判することを主たる目的として、政治家の靖国参拝を批判しているというわけで、そこには大日本帝国時代のわが国を特異な存在とする考え方があるように思います。
国家が国のために犠牲となった霊を鎮めるための施設を持つこと自体は、どこの国でも見られる普通のことですが、神社という日本独自のスタイルをとったことと、いわゆるA級戦犯を合祀したことが問題となっているようです。
神社というスタイルをとったのは、素朴に生き残ったシャーマニズムとしての伝統が、仏教寺院やキリスト教会よりもわが国に相応しかったからで、これを批判するのは当たらないし、事実、中国も韓国も国家神道は否定しても、神道そのものを否定してはいません。
すると、もし中国や韓国に悪意がないとすれば(私はあると思っています)、A級戦犯を合祀したことだけが問題になるはずです。
しかし、東京裁判は勝者が敗者を裁くという不当なもので、わが国は独立を勝ち得た後、国会が全会一致で全ての戦犯の名誉回復を行っています。
これにより、わが国の理屈で言えば、戦犯はもはや存在していないことになりました。
東京裁判が正当なものだと仮定しても、わが国には敵味方供養という伝統があるくらい死者に寛容で、ましてわが国のかつての指導者を供養しないという法はありません。
特に不思議なのは韓国で、中国は曲がりなりにも連合国の一員として大日本帝国と戦っていましたが、朝鮮半島は当時日本が支配しており、日本の一部として枢軸国側に立って連合国と戦っていたのではないでしょうか。
それを大日本帝国に強要されたと言うのなら、大日本帝国の支配下におかれた己を恥じるべきでしょう。
当時、世界の常識は弱肉強食。
植民地を持つ帝国主義列強に名を連ねるか、甘んじて植民地支配を受けるか、それはその国の力の問題です。
で、わが国は有色人種の国家として唯一、帝国主義列強に名を連ねました。
21世紀の常識で当時の国家の行動を断罪しても、意味が無いことです。
誇り高い侍の国が、植民地に甘んじていられるわけがありません。
すると、A級戦犯を合祀したことをもって靖国参拝がこれほど問題になるのは、中国や韓国、さらにはわが国の一部マスコミなどが、わが国を貶めるために無理やり始めたネガティブ・キャンペーンだと言うのが本当だろうと思います。
悲しいことですね。
慰霊くらい、静かな環境で心穏やかに行いたいものです。
今日から仕事始め。
9日間という長い休みあけの宿命として、嘆きの月曜日です。
あぁ。
午前中は挨拶回りなどで、慌ただしく過ぎました。
午後はどうなりますことやら。
ひと昔前までは、この日は昼から大会議室で賀詞交歓会と称して酒を飲む日でした。
いい加減に酔っぱらったら、近所の神社にお参りに行ったり、自分が勤務する部署に戻って打合せテーブルでさらに飲んだり。
正午から17時まで飲むので、普通に勤務するよりしんどい面もありましたが、お屠蘇気分を職場で共有し、もって一体感を高めるという役割もあったように感じます。
それが、公的機関に勤める者が勤務時間中に酒を飲むとは何事か、ということになり、挨拶回りをするだけで、終始素面で過ごす日に変わりました。
長引く不況とともに、社会全体が委縮し、さらに堅苦しくなっているようです。
建前はともかく、人間社会には必要な、くだらぬ風習や付き合いを排除し、それをもって正しいと胸を張るのは簡単ですが、それでは日本社会を維持し続けていくのは難しいのではないかと思います。
善し悪しはともかく、どろどろした人間関係の中で発展してきたのがわが国ですから。
ビジネスライクは楽ですが、人間と人間の関係性の核ともいうべき存在というか感情というか、何とも言い難い何物かを無視しては、人間が動物である以上、どこかで行き詰まるでしょうね。
まぁ、それはともかく。
今の常識に従って生きましょう。
私はただ、時代のスタンダードに従って、立場にふさわしい態度を演じ続けるよりほか、生きる方法は無いのですから。
長いと思っていた9日間の年末年始のお休みも今日で終り。
憂鬱な気分になるかと思っていましたが、そうでもありません。
朝から洗濯、掃除、一週間分の食材の買出しと、いつもどおりの日曜日を過ごしていると、不思議に気持ちが落ち着きます。
日常の雑事をきちんとこなすということが、人間の心理に与える影響は大きいようで、自然と心が日常モードに切り替わっていったようです。
行動が心を変える、ということでしょうか。
認知行動療法の基本でしょうねぇ。
私は認知行動療法や、それと似た日本発祥の森田療法を学んだことがあります。
![]() |
認知行動療法実践レッスン―エキスパートに学ぶ12の極意 |
神村 栄一 | |
金剛出版 |
![]() |
森田療法入門―心の重荷を取り除き、ほんとうの自分を取り戻す法 (ゴマブックス) |
長谷川 和夫 | |
ごま書房 |
私にはあまり合っていなかったのか、自然と止めてしまいましたが、心の奥底に、そういった物の考え方が残っていたようです。
記憶というのは不思議なものですね。
私は様々な治療法を試しましたが、結局薬物療法及び休養が一番効いたと思っています。
これは現代精神医学の精華と呼ぶべきでしょうね。
しかし、なかには薬を飲むことを極端に嫌がったり、甚だしきにいたっては、罪悪感を覚える人がいることは知っています。
そういう考え方は、精神障害者自らが精神障害を差別しているようなもので、精神障害も脳という体の一部に変調をきたしただけで、身体の病気と変わらないことを、よくよく自覚すべきでしょう。
もっとも、本を読んで自力で治すことが出来れば、お金はかからないし、それはそれで結構なことです。
でもそれは、よほど軽い場合に限られるんじゃないでしょうかねぇ。
しんどかったら、じゃんじゃん薬を飲めば良いのです。
現代の精神病薬は、安全なものがほとんどですから。
今日は底冷えがする寒い日でしたが、関東のお正月らしくよく晴れて気持ちが良かったので、お屠蘇気分を味わいに、千葉市で最も多くの初詣客を集める千葉神社へ参拝してきました。
ここは妙見様(北斗七星)をご祭神とする珍しい神社です。
第二次大戦中の空襲で社殿が消失したとかで、今はあまり風情の無いコンクリート造りです。
それでも、多くの参拝客の尊崇を集めています。
境内では、お囃子に乗ってひょっとこが舞っていたり、獅子舞が頭をかじったり、それは賑やかなものでした。
ひょっとこは子供のようです。
獅子舞、最接近です。
境内はお日様がよくあたって暖かかったので、しばし日向ぼっこを楽しみました。
その後デニーズで昼食を摂り、千葉三越を冷やかしました。
純金の布袋様が2千万円という馬鹿げた値段で売っていましたが、あんなものうれるんでしょうかねぇ。
世の中にはお金持ちがいるものです。
さすがに今日は男女問わず着物姿をちらほら見かけました。
私ももちろん着物です。
日がかげる前に早々に帰宅しました。
暗くなると馬鹿に寒いですからねぇ。
長いと思っていた年末年始の9連休も明日で最終日。
お屠蘇気分は今日までにして、日常モードに切り替えなければなりませんね。
寂しいことです。
皆様明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
昨日、元旦は午前中、実家に年始の挨拶に行きました。
甥・姪がお年玉を心待ちにしているだろうと思い、早々に届けたしだいです。
私も子供の頃は正月といえば何をおいてもお年玉でしたから。
昼過ぎから、同居人の実家で宴会。
義父は77歳、義母は75歳と、二人揃って後期高齢者となりました。
厭な響きがする言葉ですが、二人はいたって元気。
まだまだ長生きできそうです。
江戸の庶民は正月を評して、風呂でひる屁のようなものと言ったとか。
今と違ってお店はことごとくお休みで、酒を飲むと言っても先立つものがなければ肴も買えますまい。
狭い長屋に閉じこもって、退屈な時を過ごしたのでしょう。
まぁ、今も正月というのはなんとなく退屈なものです。
しかし、気の持ちようで退屈もまぎれましょう。
風呂で屁をひったって、それを退屈と思わず、浮かぶあぶくを見て笑えれば、むしろ退屈ではなく、滑稽を表す言葉に思えるはずです。
さて、朝湯にでも浸かって、屁をひってみましょうか。