生きざまなる珍妙な言葉が多用されるようになったのはいつごろからでしょうか。
少なくとも私が小学生の頃には無かったように思います。
死にざまは昔からありましたが。
遠藤周作は「生きざまなんていう日本語は存在しない」と言い放ち、ある国語学者は、「新しくて、嫌な、じつに嫌な言葉です」と述べています。
私自身はこの言葉を使うことはありません。
それは使い慣れていないから、どういう場面で使うべきか分からないからで、嫌悪感を持っているからではありません。
言葉なんて、生まれたり無くなったりするものです。
ただ、小説家や国語学者などが、なぜこれほど生きざまを毛嫌いするのかについては興味があります。
元を正せば死にざまに対する言葉として生まれたのでしょうから、そこには必ず、死の匂いが漂うはずです。
それゆえ、生きざまという言葉には、生き方などに比べ、暗い影が差すのでしょう。
死にざまは、死あるいは死にゆくさまということで、人の人生の集大成が凝縮された、ある意味怖ろしい言葉です。
私はできれば、豆腐の角に頭をぶつけて死にたいと思っていますが、それは落とし噺の世界だけのこと。
実際にそんな死に方をする人はおりますまい。
であるならば、静かに、凍てつく大地で、生きたまま凍ってしまいたいと思っています。
できることならこの世のものではないくらい美しい雪女に息を吹きかけられて。
そんな風に死にざまを想像することはできますが、生きざまというのは私の想像の外にあるようで、だいたい毎日飯食って糞して寝れば、後は飯のタネを得るための仕事に励む他無いわけで、わざわざ生きざまだの生き方だのを考える暇とてありません。
私はただ、美しい死にざまに思いをはせるばかりで、現世をどう生きるかなんていう生きざまに、興味はありませんねぇ。
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