ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

屋上の狂人

2011年04月21日 | 文学

 今、精神障害者は、グループホームや心理カウンセラーなどの力を借りて、障害を抱えたまま、社会に適応して自立した生活を送ることが求められています。
 古くは座敷牢に一生閉じ込められていたことを思えば、隔世の感があります。

 しかし私は、自立することが、そのまま精神障害者にとって幸せなのか、疑問に思うことがあります。

 菊池寛の小説に「屋上の狂人」という作品があります。
 むやみと高いところに登りたがり、高いところから空を眺めてさえいれば幸せなのです。
 ある時父親が、息子に憑いている者を払ってほしい、と巫女を連れてきます
 巫女は狐が憑いていると見抜き、木の枝にぶら下げて煙で燻せば狐が出ていく、と言います。
 母親は「そんなむごいことはできない」と言い、弟は「医者が治せないものは世界中の神様を連れてきたって治せない」と言います。
 母親は情から、弟は合理的精神から、巫女のやり方を批判します。
 さらに弟は「兄さんがこの病気で苦しんどるのなら、どなな事をしても癒して上げないかんけど、屋根へさえ上げといたら朝から晩まで喜びつづけに喜んどるんやもの」兄さんのように毎日喜んで居られる人が日本中に一人でもありますか」と、病識がないまま、高いところに登っては喜ぶ無邪気な子供のままでいるほうが幸せだ、という見方を示します。

 これは現代の精神医学やその周辺のカウンセラーなどにとっては、苦々しい提言でしょう。
 主に薬物療法によって、精神障害を治すべきで、幸せそうだから放っておこうというわけにはなかなかいきません。
 
 例えば私はうつ状態と躁状態が表れる双極性障害ですが、うつは自殺の危険を、躁は浪費や暴力事件を起こす可能性があり、薬がよく効いてもう一年半くらいは寛解状態にあり、躁もうつもありません。
 私にとっては薬物療法は死活的に重要であると言えます。

 でも、他人に迷惑をかけることもなく、自分を傷つける心配もなく、幻覚や幻聴、妄想や悪夢に怯えることもなく、親や弟が生涯面倒を見てくれるのだとしたら、そのままでも良いのかもしれません。

 しかしそれは、羊たちの幸福でしょうね。
 檻に守られた羊たちの安心。
 
 考えなくてよい幸せ。
 しかし考えることができる状態になったとして、高いところに登っては喜んでいた過去の自分を懐かしむでしょうか。

 精神障害者の治療は自立することが目的なのか、幸せに生きることが目的なのか、なんだかよくわかりません。

父帰る・屋上の狂人 (1952年) (新潮文庫〈第440〉)
菊池 寛
新潮社

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